2020年東大日本史(第4問)入試問題の解答(答案例)と解説

(編集部より)2026年7月に、大幅に加筆修正しました。

民間の道徳と軍人の道徳

今回の問題は、明治時代の「軍人の道徳」に関する二つの史料を読ませて、その背景や政府の意図を問うものです。テーマは「明治政府は軍人をどうコントロールしようとしたのか」です。

意識してほしいのは、明治維新というのは単に「幕府が倒れて新しい政府ができました」で終わる話ではないということです。新しい国を作るということは、新しい軍隊を作るということでもあります。そしてその軍隊が、政治的にどういう立場を取るべきか、これは明治の新生国家にとって切実な問題でした。なぜなら、そもそも明治維新そのものが武力によって成し遂げられた変革だったからです。武力を持つ者が政治にも口を出していくわけです。

この問題では、史料(1)が1878年(明治11年)の西周(にし・あまね)による陸軍将校への講演、史料(2)が1882年(明治15年)の「軍人勅諭」です。わずか4年の間隔ですが、この4年間に日本の政治状況は激変しています。その変化を踏まえて、設問A・Bそれぞれに答えていく必要があるわけです。では、まず設問の要求を把握するところから始めましょう。

設問要求の分析

設問A

(1)の主張の背景にある、当時の政府の方針と社会の情勢について、3行以内で述べなさい。

ここで注意すべきポイントは三つあります。
第一に、聞かれているのは「(1)の主張の背景」であって、(1)の主張そのものを説明せよとは言っていないこと。つまり、「西周はこう言っている」と要約するだけでは不十分で、「なぜ西周がそのようなことを言わなければならなかったのか」という時代背景を書く必要があります。
第二に、「政府の方針」「社会の情勢」という二つの要素を両方とも盛り込む必要があること。
第三に、1878年5月という時期が明示されていること。この年代が決定的なヒントになります。

設問B

(2)のような規律を掲げた政府の意図はどのようなものだったか。当時の国内政治の状況に即しながら、3行以内で述べなさい。

こちらも注意点を整理しましょう。
第一に、聞かれているのは「政府の意図」です。
つまり、「軍人勅諭にはこう書いてある」という内容説明ではなく、「なぜ政府はこれを出したのか」という狙いを答えなければなりません。
第二に、「当時の国内政治の状況に即しながら」という条件がついています。1882年1月という時期の政治状況を具体的に踏まえて論じなさい、ということですね。

では、それぞれの史料を読み解いていきましょう。

資料(史料)の分析

史料(1)西周「兵家徳行」(1878年5月)

維新以後の世の風潮の一つに「民権家風」があるが、軍人はこれに染まることを避けなくてはいけない。軍人は大元帥である天皇を戴き、あくまでも上下の序列を重んじて、命令に服従すべきである。いま政府はかつての幕府に見られた専権圧制の体制を脱し、人民の自治・自由の精神を鼓舞しようとしており、一般人民がそれに呼応するのは当然であるが、軍人は別であるべきだ。
(西周「兵家徳行」第4回、1878年5月。陸軍将校に対する講演の記録)

西周はこう言っています。「維新以後の世の風潮の一つに『民権家風』があるが、軍人はこれに染まることを避けなくてはいけない。」これが冒頭の主張です。維新後の社会に自由民権運動的な気風が広がっているという現状認識を示した上で、軍人はそこから距離を置けと命じているわけです。

続けて、「軍人は大元帥である天皇を戴き、あくまでも上下の序列を重んじて、命令に服従すべきである」と述べています。ここで「大元帥」という言葉が出てきますね。天皇を軍の最高司令官と位置づけ、軍隊の本質が命令と服従の体系ということを強調しています。

そしてここからが重要な部分です。「いま政府はかつての幕府に見られた専権圧制の体制を脱し、人民の自治・自由の精神を鼓舞しようとしており、一般人民がそれに呼応するのは当然であるが、軍人は別であるべきだ。」
ここをよく読むと、西周は、政府が自由や自治の精神を奨励していること自体は否定していません。一般の人民がそれに応じるのも「当然」だと言っている。
しかし、軍人だけは例外だ、という切り分けです。国民一般には自由を認めるが、軍人という特殊な立場の者には、自由よりも服従を優先させる。
これが西周の、そしてこの時期の政府の基本姿勢です。

1878年という時代 政府の方針

では、なぜ1878年にこのような講演が行われたのでしょうか。ここからは史料の「外側」にある歴史的文脈を読み解いていきます。

まず「政府の方針」から見ましょう。
史料の中に「かつての幕府に見られた専権圧制の体制を脱し、人民の自治・自由の精神を鼓舞しようとしている」と明確に書かれていますね。これは何を指しているのか。明治政府は、五箇条の誓文で「万機公論に決すべし」と宣言したように、少なくとも建前としては、旧幕府のような専制体制ではない国家運営を志向していました。具体的には、1871年の廃藩置県によって中央集権体制を整え、1872年には学制を公布し、1873年には地租改正や徴兵令を施行するなど、「四民平等」の近代的な国民国家の建設を進めていたわけです。さらに1874年には民撰議院設立建白書が提出され、政府内部からも「立憲政体を漸次に立てる」という意見が出て、1875年には漸次立憲政体樹立の詔が出されています。つまり、政府自身が「いずれ立憲政体に移行する」という方針を打ち出していたということで、これが史料中の「人民の自治・自由の精神を鼓舞しようとしている」という部分です。

1878年という時代 社会の情勢

次に「社会の情勢」です。
史料に「維新以後の世の風潮の一つに『民権家風』がある」と書かれていますね。これはまさに自由民権運動の高まりを指しています。1874年の民撰議院設立建白書を皮切りに、板垣退助らを中心とする民権運動が全国的に広がりを見せていました。各地で政治結社が作られ、国会開設を求める声が強くなっていく。1878年という年は、この民権運動が勢いを増しつつある時期にあたります。

そして、ここで見過ごしてはいけないのが、1877年、つまり史料(1)の講演のわずか1年前に起きた西南戦争です。西郷隆盛率いる士族が武力で政府に反抗したこの事件は、「軍人が武力によって行動するとどうなるか」を明治政府に痛感させた出来事でした。西南戦争は政府軍の勝利に終わりましたが、この戦争の衝撃は残りました。もし軍の内部に不満分子がいて、民権運動などの政治的主張に共鳴して行動を起こしたら、国家の根幹が揺らぎかねない。だからこそ、西南戦争の翌年にあたる1878年に、西周が陸軍将校を前にして「軍人は民権家風に染まるな」と説いたわけです。また、実際にこの1878年8月には竹橋事件という近衛兵の反乱が起きています。西周の講演は5月ですから、竹橋事件の3か月前です。軍内部の不和を政府は肌で感じていたのではないでしょうか。

つまり、史料(1)の背景をまとめると、こうなります。政府は立憲政体への漸進的な移行を掲げて近代化を推進し、社会では自由民権運動が高揚していた。しかし西南戦争の直後という状況の中で軍の規律を乱されることを政府は強く警戒していた。だから西周は、一般国民が自由や自治を求めるのは当然としつつも、軍人だけは政治から距離を置き天皇への絶対服従を貫くべきだと説いたのです。

史料(2)「軍人勅諭」(1882年1月)

軍人は忠節を尽くすことを本分とすべきである。兵力の消長はそのまま国運の盛衰となることをわきまえ、世論に惑わず、政治に関わらず、ひたすら忠節を守れ。それを守れず汚名を受けることのないようにせよ。
(「軍人勅論」1882年1月)

こちらは「軍人勅諭」からの抜粋です。史料(1)が一学者・官僚の講演にすぎなかったのに対し、こちらは天皇の名で発せられた勅諭ですから、まるで「重み」が違います。

内容を見てみましょう。「軍人は忠節を尽くすことを本分とすべきである。」これが大前提です。
続けて、「兵力の消長はそのまま国運の盛衰となることをわきまえ、世論に惑わず、政治に関わらず、ひたすら忠節を守れ。それを守れず汚名を受けることのないようにせよ。」

ここで最も重要なキーワードは「世論に惑わず、政治に関わらず」の部分です。史料(1)では西周が「民権家風に染まるな」と言っていましたが、史料(2)ではさらに踏み込んで、「政治そのものに関わるな」と明言しています。しかも「世論に惑わず」とまで言っています。
つまり、「世の中でどんな政治的議論が盛り上がっていようとも、軍人はそれに左右されてはならない。ひたすら天皇への忠節だけを守れ。」という指示で、これは軍人の政治的中立性というよりも政治からの完全な隔離を命じたものです。

1882年という時代 国内政治の状況

では、なぜ1882年にこのような勅諭が出されたのでしょうか。ここが設問Bの核心です。

1878年の史料(1)から1882年の史料(2)までのわずか4年間に、日本の政治状況は劇的に変化しました。
最大の転機は、1881年(明治14年)の「明治十四年の政変」です。これは何かというと、大隈重信が早期の国会開設と政党内閣制を主張したことをきっかけに、政府内で政治的対立が生じ、結局、大隈が政府から追放された事件です。それと同時に、政府は「国会開設の勅諭」を発して、1890年に国会を開設することを公約しました。

明治十四年の政変は、二つの重大な結果をもたらしました。
一つは、国会開設の公約によって、自由民権運動がいよいよ現実的に政治参加の段階に入ったことです。民権運動家たちは国会開設に備えて続々と政党を結成し始めます。1881年に板垣退助の自由党1882年に大隈重信の立憲改進党が相次いで成立しました。政党政治が始まろうとしていたのです。
もう一つは、政府内部でも、伊藤博文ら藩閥官僚が「国会開設までに天皇を中心とする国家体制の骨格を固めなければならない」という危機感を抱いたことです。

つまり、1882年という時期は、自由民権運動が政党結成という形で具体的な政治勢力となり、国会開設を前に国内政治がかつてなく活性化していた時期なのです。政府にとっての最大の懸念は、この政治的動向が軍隊にまで浸透することでした。
もし軍人が特定の政党に共鳴したり、政治的立場を明らかにしたりすれば、軍隊は国家の安全を守る組織ではなく、政治闘争の道具になってしまう。
あるいは、かつての西南戦争や竹橋事件のように、軍が独自の政治的意思をもって行動する危険性もあるわけです。

だからこそ、政府は天皇の名において軍人勅諭を発し、軍人を政治から完全に切り離そうとしたのです。軍人勅諭が「世論に惑わず、政治に関わらず」と命じた背景には、まさにこの時期の自由民権運動の激化と政党結成の動き、そして国会開設を控えた政治の流動化があったわけですね。
さらに言えば、軍人勅諭は単に「政治に関わるな」と言っているだけではなく、「忠節を尽くすことを本分とせよ」と述べ、天皇への忠誠を強調しています。来るべき議会政治の時代においても、軍隊は議会や政党の影響の外に置き、天皇の直接的な統率下におこうという藩閥政府の明確な戦略でした。
これはのちの大日本帝国憲法下における「統帥権の独立」(軍の指揮権は天皇に直属し、議会や内閣の干渉を受けない)の問題へとつながっていきます。

 

おまけコラム① 軍人が命令に服従しなければならない理由

ここからコラムを2つ用意しましたが、興味のない方は下の方へ飛んで、まとめと答案例をどうぞ。

今回の史料を読むと、「軍人は天皇の命令に絶対服従しなきゃいけない」とか「上下関係が絶対で命令に服従すべきだ」とか書かれていますから、今の時代と比べてしまうと、「なんてひどいんだ」と思うことでしょう。しかし、当時の状況を理解すると、印象が変わってみてくるかもしれません。

まず、軍隊が上下の命令に絶対だった理由ですが、これは単純に、上下関係を絶対視するような組織でないと弱くなるからです。これは例えば、サッカーやバスケットボールなどチームスポーツに置き換えるとわかりやすいと思います。ある選手がコート内で、突然好き勝手に動いてしまった場合、チームとして連携が取れなくなって攻めも守りも上手くいかなくなるでしょう。スポーツをやっている人なら当たり前の感覚だと思いますが、やはりチームとして勝つためにはひとりひとりが全体のために動く必要があるのです。

軍隊の場合も同じで、たとえばある軍人が勝手に隊列を乱して敵の方に突っ込んで行くとか、戦線から逃げ出したら、そのせいで敵に居場所がバレて全体が壊滅するなどということがありえます。特に最近の戦争では砲術技術が高まっているため、見つかった瞬間に爆弾やミサイルを投げ込まれてしまう可能性が十分にあります。

日本人は戦後になって軍事に対する研究をしなくなったり、大きな戦争に直接巻き込まれたりしなくなりました。最近では、普通の企業でも上司が部下に気を遣う風潮が強くなったりもしていますから、今回の資料文は皆さんの価値観と遥かに異なっているように思うかもしれませんが、これはこれで合理的なのです。

 

おまけコラム② 軍人勅諭は命令か?

資料(1)と(2)の違いについて、(1)では西周というただの国民による言葉なのに対し、(2)では天皇による言葉である、という違い(つまり、国民VS天皇)を解説しました。

しかしちょっと違う角度で、(1)は西周という個人のものである一方、(2)は天皇から発せられたんだから、国家(政府)による命令だという点で違う(つまり、個人VS政府)と考えた人もいるかもしれません。

高校生レベルでは、こう考えてしまうのも無理はないと思うのですが、実は軍人勅諭は政府による命令ではないため、法的拘束力もありません

教育勅語や軍人勅諭というのは、道徳的な内容です。
教育勅語では「親孝行しましょう」とか「夫婦仲良くしましょう」みたいな内容が書かれています。
軍人勅諭は史料(2)の通り「世論に惑わされるな」とか「軍人は忠節を守れ」などですね。

これらは、あくまで天皇が個人的に発した言葉であって、政府の公式見解でも命令でも法律でもありません。今風に言えば、天皇がSNSで投稿したようなものです。

憲法の条文には道徳的なことを書きません。
例えば「老人を敬いましょう。」というような内容が憲法に書かれたとしたら、老人に対して呼び捨てにした人や、呼びかけを無視した人が出たときに「憲法違反だ」などと騒いで、裁判が行われて、その条文をもとに「老人を呼び捨てにしたら罰金」「老人を無視したら罰金」みたいな法律が出来てしまう可能性があります。

百歩譲って、普通の大人が老人を呼び捨てにしたとか無視したならば、失礼に値するということで意味がわかります。しかし例外がいくらでも出てきます。難聴の人が老人の呼びかけを無視してしまった場合、敬語を使いこなせない子供がおじいちゃんを呼びかけた場合、たまたま敬語の使いかたを間違えてしまった場合、「はじめ」という名の老人の前で「この本のはじめで・・・」と語り出したらどうか。

もっと極端に言えば、自分のおじいちゃんが自分を殺そうとしてきたときでも、敬って殺されなければならないのか。これら全部罰則にすべきだとおもいますか?こういう事例まで全部罰にしていたら、窮屈すぎます。

つまり憲法の条文は裁判規定の参考になるため、道徳的なことは書かずに「他人を殴ったらダメ」みたいに罪を犯した行動をとった場合に罰を与えるような法律を作っていくのです。

このようなことを理解しているから、明治天皇以下、元老たちも「軍人が政治に関わるな」みたいなことを法律で決めようとはせず、あくまで天皇の言葉としているわけです。もし法律で軍人の政治関与を禁止したら、とんでもない人権侵害ですからね。天皇は政治への関与を憲法で禁止されていますから、軍人勅諭は法的拘束力がありません。なので、軍人勅諭の内容を守らなかったからといって、法的に罰を受けるわけではないのです。

一方で、「天皇の言葉なのだから」と絶対視して金科玉条の如く振りかざしてしまうのも、また問題です。戦前は多かれ少なかれ、天皇の言葉を絶対視して、守らないと非国民だと思われてしまうような空気があったようですが、それはそういう空気になってしまった、作ってしまったことが問題です。今後、そうならないように我々も歴史を学ぶべきだと思います。

ということで長くなりましたが、「軍人勅諭によって軍人は国家によって政治に関わることを禁止された。」のような答案は書かない方が良いでしょう。

【まとめ】

最後に全体像を整理します。

史料(1)の1878年と史料(2)の1882年。この二つの時点で、「軍人は政治に関わるな」という主張は一貫しています。
しかし、その切迫度と制度的重みは明らかに異なっています。1878年の段階では、西南戦争直後の不安定な情勢の中、一人の知識人が陸軍将校に対して「民権家風に染まるな」と講演で呼びかけているにすぎません。
ところが1882年になると、自由民権運動が政党の結成にまで発展し、国会開設も決定されるという政治的大変動を受けて、今度は天皇自身の名による勅諭として発せられました。
同じような内容で会ったとしても、一人の国民と天皇では、意義が違います。

この変化が示しているのは、明治政府が近代国家を建設していく中で、「国民の政治参加」と「軍隊の政治的中立」をいかに両立させるかという課題に直面していたということです。政府は立憲政体の導入を約束し、国民の政治参加を進めようとしていた。
しかし他方では、軍隊だけはその流れから明確に隔離し、天皇への忠誠を軸とする独自の秩序のもとに置こうとした。この二重構造こそが、明治国家の軍事と政治の関係を規定する基本原理となり、やがて大日本帝国憲法下の体制の中に制度化されていくのです。

さて、以上を踏まえて、解答例を確認しておきましょう。

【答案例】

設問A:政府が立憲政体の漸進的樹立を掲げて近代化を推進し、自由民権運動が社会に広がっていたが、軍内部への波及には警戒していた。ゆえに軍人には天皇への絶対服従を貫かせようとした。

設問B:明治十四年の政変を経て国会開設が決定され、自由党・立憲改進党など政党が結成される中、政府は軍人を天皇への忠誠を軸とする独自の秩序のもとに置き政党政治や世論の影響からの隔離を試みた。

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