2020年東大日本史(第3問)入試問題の解答(答案例)と解説
(編集部より)2026年7月に、大幅に加筆修正しました。
目次
江戸の「時間を作る」人びと
今回のテーマは「江戸時代の暦」です。暦というと、みなさんにとっては「カレンダーでしょ?」くらいの感覚かもしれませんが、江戸時代においては暦というのは単なるカレンダーではありません。暦を作るということは、天体の運行を正確に予測するという科学的営みであると同時に、「時」を支配するという政治的な権威の象徴でもありました。
だからこそ、暦の改定をめぐっては幕府と朝廷の関係、そして西洋天文学の受容という要素が複雑に絡み合ってくるわけですね。
資料文を一つずつ読み解いていきましょう。
設問要求の確認
設問A
江戸時代に暦を改めるに際して、幕府と朝廷はそれぞれどのような役割を果たしたか。両者を対比させて、2行以内で述べなさい。
ここで大事なのは「対比」です。東大はただ「幕府は何をしましたか」「朝廷は何をしましたか」と別々に聞いているのではなく、両者の役割の違いを明確に浮かび上がらせる形で書きなさい、と言っているわけです。
つまり、暦の改定というプロセスの中で、実質的な作業を担ったのはどちらで、形式的・儀礼的な権威を担ったのはどちらなのか、という構造を見抜く必要があります。
これは資料文(1)と(2)を中心に読み取れる内容です。
設問B
江戸時代に暦を改める際に依拠した知識は、どのように推移したか。幕府の学問に対する政策とその影響に留意して、3行以内で述べなさい。
こちらは「知識の推移」と「幕府の学問政策」という二つの柱を立てて書かなければなりません。
暦を作るための天文学の知識が、中国暦から元の暦へ、さらに西洋天文学へと移り変わっていく流れを追いつつ、その背景にある幕府の禁書政策の緩和や天文方の学術強化といった政策的要因を絡めていく必要があります。
これは資料文(1)から(5)まで全体を使って答える問題です。
では、資料文を見ていきましょう。
資料の分析
資料(1) 渋川春海と貞享暦
日本では古代国家が採用した唐の暦が長く用いられていた。渋川春海は元の暦をもとに、明で作られた世界地図もみて、中国と日本(京都)の経度の違いを検討し、新たな暦を考えた。江戸幕府はこれを採用し、天体観測や暦作りを行う天文方を設置して、渋川春海を初代に任じた。
ここには重要な情報が凝縮されています。まず前提として、日本は古代から唐の暦、具体的には中国の宣明暦をずっと使い続けていたという事実があります。862年から1684年まで823年間という最長使用期間を誇る暦で採用されてから実に800年以上も改暦されずに使われ続けていたのです。なぜそんなに長く改暦されなかったかというと、朝廷には暦を独自に計算・修正するだけの天文学的な能力がすでに失われていたからです。暦の管理は朝廷の管轄でしたが、実態としては形骸化していたわけです。
そこに登場するのが渋川春海です。彼は中国と日本では経度が異なるから、中国の暦をそのまま使っても日本の天体現象とはズレるということを見抜きました。暦というものは普遍的なものではなく、観測地点の経度によって補正が必要なのだという科学的認識を持っていたわけです。
そして幕府はこの渋川春海の暦を採用し、天文方という新しい役職を設置して春海を初代に任命しました。ここが設問Aに直結するポイントです。暦を実際に作る、つまり天文学的な計算と観測を行うという実務的・科学的な作業は、幕府の側が担ったのだということが読み取れます。幕府が天文方を設置したということは、暦の作成を制度的に幕府の管轄下に置いたということを意味しています。
ではなぜ幕府がそこまで暦に関与したのか。
それは冒頭でも触れたように、暦の支配が政治的権威と結びついていたからです。
しかし同時に、暦を「公式に改める」という行為自体には、朝廷の権威も必要です。
その点が次の資料文(2)で明らかになります。
資料(2)貞享の改暦と朝廷の役割
朝廷は幕府の申し入れをうけて、1684年に暦を改める儀式を行い、渋川春海の新たな暦を貞享暦と命名した。幕府は翌1685年から貞享暦を全国で施行した。この手順は江戸時代を通じて変わらなかった。
ここで重要なのは、「朝廷は幕府の申し入れをうけて」という部分と、「暦を改める儀式を行い、命名した」という部分です。つまり朝廷の役割は、幕府から提出された新しい暦に対して、改暦の儀式を執り行い、正式な暦号を与えるという、いわば儀礼的・権威的な承認行為だったわけです。暦の中身を作ったのは幕府側の渋川春海であり、朝廷はそれを受けて「よろしい、これを新しい暦として認めましょう」と公式に宣言する立場でした。
そして「この手順は江戸時代を通じて変わらなかった」と書いてあります。これは重要な一文です。つまり、貞享暦だけでなく、その後の宝暦暦・寛政暦・天保暦に至るまで、「幕府が暦を作成し、朝廷が儀式をもって改暦を承認する」という役割分担は一貫していたということです。江戸時代の朝幕関係の基本線です。
ここまでで設問Aに答えるための材料はほぼ揃いました。
幕府は天文方を設置して暦の作成・天体観測という実質的な作業を担い、
朝廷は改暦の儀式を行って暦を命名するという形式的・権威的な役割を果たした。
この対比構造こそが設問Aの解答の核心です。
では次に、設問Bに関わる「知識の推移」と「幕府の学問政策」の話に移っていきます。
資料文(3)がその転換点を示しています。
資料(3)禁書を教科書に、実学重視
西洋天文学の基礎を記した清の物『天経或問』は、「禁書であったが内容は有益である」と幕府が判断して、1730年に刊行が許可され、広く読まれるようになった。
この短い一文には、幕府の学問政策の大きな転換が凝縮されています。そもそもなぜ『天経或問』が禁書だったのかというと、江戸幕府はキリスト教の禁教政策に伴って、キリスト教に関連する書物、広くは漢訳洋書の輸入を禁止していました。西洋天文学の知識を含む書物も、西洋の学問=キリスト教と結びつくものとして警戒されていたのです。
ところが、8代将軍徳川吉宗の時代になると状況が変わります。吉宗は実学を重視する将軍で、1720年にキリスト教に直接関係のない漢訳洋書の輸入制限を緩和しました。いわゆる「漢訳洋書の輸入緩和」です。この政策転換の流れの中で、『天経或問』という西洋天文学の基礎を紹介した清の書物を、「内容は有益だ」と幕府が判断して刊行を許可したわけです。それまでの暦学は中国伝来の天文学、つまり授時暦などの元・明の暦法に依拠していましたが、『天経或問』によって、日本の学者たちが西洋天文学の知識に公式にアクセスできる道が開かれたのです。この知識の転換が、暦の精度向上に直接つながっていきます。
では、この西洋天文学の知識がまだ十分に浸透していない段階で作られた暦はどうなったのか。
それが次の資料文(4)の宝暦暦の失敗の話です。
資料(4)宝暦暦の失敗と天文方の学術強化
1755年から幕府が施行した宝暦暦は、公家の土門泰邦が幕府に働きかけて作成を主導したが、1763年の日食の予測に失敗した。大坂の麻田剛立ら各地の天文学者が事前に警告した通りで、幕府は天文方に人員を補充して暦の修正に当たらせ、以後天文方の学術面での強化を進めていった。
ここは非常に面白い部分です。まず宝暦暦というのは、朝廷側の陰陽道を司る土御門泰邦が主導して作ったものです。それまで暦の作成は幕府の天文方が実質的に担っていたのに、宝暦暦に関しては朝廷側の公家が主導権を握ろうとしたという異例の事態がありました。しかし結果は散々で、1763年の日食予測に失敗してしまった。しかもその失敗は、大坂の町人天文学者である麻田剛立をはじめ、各地の民間天文学者たちが事前に「この暦では日食の予測が合いませんよ」と警告していた通りだったのです。
この失敗、暦の予測が外れるということは、ある意味幕府の統治能力そのものへの信頼に関わる問題です。そこで幕府は天文方に人員を補充し、学術面での強化を推し進めていくことになります。ここに幕府の学問政策のもう一つの重要な側面が表れています。つまり、禁書政策の緩和によって西洋天文学の知識へのアクセスを可能にしただけでなく、宝暦暦の失敗を契機として、天文方という機関そのものの学術的能力を組織的に強化するという政策を取ったのです。
この二重の政策、すなわち知識へのアクセスの開放と、制度的な学術基盤の強化が合わさることで、次の段階、つまり西洋天文学に本格的に依拠した暦の作成が可能になっていきます。
資料(5)寛政暦・天保暦と西洋天文学の本格的受容
麻田剛立の弟子高橋至時は幕府天文方に登用され、清で編まれた西洋天文学の書物をもとに、1797年に寛政暦を作った。天文方を継いだ高橋至時の子渋川景佑は、オランダ語の天文学書の翻訳を完成し、これを活かして1842年に天保暦を作った。
ここで暦学の知識の推移が完成形を迎えます。まず注目すべきは、先ほどの資料で宝暦暦の失敗を警告していた麻田剛立の弟子である高橋至時が、幕府の天文方に登用されたという点です。これは資料文(4)で述べられた「天文方の学術面での強化」の具体的な表れです。民間の優秀な天文学者を幕府の組織に取り込むことで、天文方の能力を飛躍的に高めようとしたわけですね。
そして高橋至時は清で編纂された西洋天文学の書物をもとにして寛政暦を作りました。ここで使われたのが「清で編まれた西洋天文学の書物」、つまりは漢訳洋書です。資料文(3)で述べられた禁書政策の緩和によって漢訳洋書へのアクセスが可能になっていたからこそ、このような暦の作成が実現したのです。知識の依拠先が、中国伝統の天文学から、漢訳を通じた西洋天文学へとシフトしたことがわかります。
さらにその次の世代、高橋至時の子である渋川景佑になると、今度は漢訳ではなくオランダ語の天文学書を直接翻訳して、それをもとに1842年に天保暦を作っています。つまり、知識の入手経路が「漢訳洋書」から「蘭書の直接翻訳」へとさらに進化しているのです。
ここで知識の推移を整理すると、次のような流れが見えてきます。最初は中国(唐)の暦をそのまま使っていた段階、次に渋川春海が元の暦を日本向けに修正した段階、そして漢訳洋書を通じて西洋天文学を摂取した寛政暦の段階、最後にオランダ語原典から直接西洋天文学を学んで作った天保暦の段階です。この推移の背景には、吉宗による漢訳洋書の輸入緩和という禁書政策の転換と、宝暦暦の失敗を機とした天文方の学術強化という二つの幕府の政策があったことがわかりました。
まとめ
さて、ここまでの講義を踏まえて、設問AとBの解答を組み立てていきましょう。
設問Aの解答方針
設問Aでは、幕府と朝廷の役割の「対比」が求められています。
資料文(1)と(2)から読み取れるのは、幕府が天文方を設置して暦の作成をするという作業を担い、朝廷は幕府の申し入れを受けて改暦の儀式を行い暦に名を与えるという形式的・権威的な承認を行ったということです。
そしてこの役割分担は江戸時代を通じて変わらなかった。
この構造をコンパクトに2行でまとめればよいわけです。
設問Bの解答方針
設問Bでは、「依拠した知識の推移」→「幕府の学問政策とその影響」の二本柱で書く必要があります。
まず知識の推移としては、当初は中国伝来の暦法に依拠していたが、やがて西洋天文学へと移行していったという大きな流れがあります。
そしてその転換を促した幕府の政策として、
第一に漢訳洋書の輸入緩和(禁書政策の緩和)があり、これによって『天経或問』のような西洋天文学の書物が流通するようになったこと、
第二に、宝暦暦の失敗を契機とした天文方の学術強化があり、麻田剛立の弟子の高橋至時が登用されたこと、
この二つの政策によって、寛政暦では漢訳洋書を通じた西洋天文学に依拠し、天保暦ではオランダ語原典に直接依拠するようになったという推移を、3行の中に書き込んでいけばよいのです。
【答案例】
A:幕府は天文方を設置して暦の作成を主導する実動の役割を担い、朝廷は改暦の儀式を行い命名するという権威付けの役割を果たした。
B:暦は唐の暦法から西洋天文学の知識に依拠する形に変わった。この背景には、漢訳洋書の輸入制限緩和、宝暦暦の失敗を契機とする天文方の学術強化と民間の天文学者登用があった。結果、清の漢訳洋書に基づく寛政暦、次いで蘭学書に基づく天保暦が作成された。




Bは3行問題なので90字以内ではないでしょうか
ご指摘ありがとうございます。答案例を修正しています。