2020年東大日本史(第3問)入試問題の解答(答案例)と解説

設問の分析

設問A

江戸時代に暦を改めるに際して、幕府と朝廷はそれぞれどのような役割を果たしたか。両者を対比させて2行以内で述べなさい。

とある。

この設問に解答するにあたって、教科書的な知識から持ってこれる部分はほとんどない。さらに2行と短めである。
よって、設問をみた瞬間、資料文を丁寧に読み取って要素を拾うものだと判断する。
(唯一使える知識としては天文方が設置されたのは1685年で初代が渋川春海であることくらい。ちなみに余談だが天文学の名門、東京大学の起源の一つとも言われている。)

そして、解答の際に注意したいのはわざわざ両者を対比させて、と添えられている点だ。
たとえこのフレーズを外しても出題としては差し支えないのにも関わらず敢えて書いてあるため、出来るだけ綺麗な対比構造らしく書きたいな、と考える。

拾う部分は資料文の分析の際に逐一触れていく。

設問B

江戸時代に暦を改める際に依拠した知識は、どのように推移したか。幕府の学問に対する政策とその影響に留意して、3行以内で述べなさい。

とある。

この問題も資料文からしっかり読み取ることが大事であろう。しかし、設問Aと違ってこちらの設問は事前に考えつく知識がいくつかある

まず当時の日本が天文学などといった実学を学ぶ際に参考としていたのは洋書である。そして、天文学の活躍していた元禄文化あたりは江戸幕府は鎖国政策を敷き、オランダと中国以外との貿易を禁じていたため、漢訳洋書か蘭学かが考えられる。

そして洋書と切っても切れないのが一連の禁教令である。織田信長の鉄砲伝来の頃から、南蛮貿易は継続されており、江戸幕府においても当初家康期では、貿易で得られる利益が大きいことから、好意的に捉えられていたが、キリスト教信者が国内に増えてきたことにより、

①キリシタン大名によるローマ教皇への土地の寄進などのように、スペインやポルトガルによる侵略
②島原の乱などに代表されるようなキリシタン勢力の団結、抵抗
③一神教かつ神の下に皆平等である思想と、伝統的な武士の封建社会との齟齬

などが目につくようになり、これらは全て江戸幕府にとっては大きな逆風であったことから禁教令が開始される。

そして三代の家光期、1639年に鎖国政策を完成させた。この頃に、宣教につながるとして洋書の輸入が禁止された。

しかし時は流れ、8代吉宗が日本の発展のために実学を重視し、洋学を奨励していたため、享保の改革の中で、キリスト教に関係のない内容の漢訳洋書の輸入を許可する「洋書輸入の禁緩和」が行われた。

学問に対する政策を答案に絡めるとすればこの辺りだろう。

そして解答を作る際には「依拠する知識の推移」を解答することが最重要視されているので注意。

資料文の分析

資料文(1)

日本では、古代国家が採用した唐の暦が長く用いられていた。渋川春海は元の暦をもとに、明で作られた世界地図もみて、中国と日本(京都)の経度の違いを検討し、新たな暦を考えた。江戸幕府はこれを採用し、天体観測や暦作りを行う天文方を設置して、渋川春海を初代に任じた。

とある。

まず設問Aに盛り込むべき要素を確認する。
幕府についての記述は「渋川春海の考えた新たな暦(大和暦)を採用した点」「天文方を設置して天体観測と暦作りの実務を推進した点」の二つが挙げられる。

設問Bに関しては、「江戸初期以前の日本の暦では、唐の暦を受容しずっと使っていた」ということがわかる。

資料文(2)

朝廷は幕府の申し入れをうけて、1684年に暦を改める儀式を行い、渋川春海の新たな暦を貞享暦と命名した。幕府は翌1685年から貞享暦を全国で施行した。この手順は江戸時代を通じて変わらなかった。

とある。

この資料文は設問Aの内容が大部分でありBに盛り込むべき内容はほとんどない。設問Aに関しては解答のための根幹になりうる資料文だ。

(1)にて幕府は暦の制作や検討の補助などという具体的な実務を担っていたことが明らかにされたが、この資料文では幕府の申し出に対して朝廷が行った対応が示されている。暦を改める儀式新たな暦の命名を行なってたことが記されている。加えて、幕府は新しい暦の施行も担当していたことがわかる。そしてこういった学問をめぐる朝幕の関係は変わらなかった。と記述してある。

さて、ここの資料だけで設問Aで求められている内容を対比構造で記述する素材が多く集まった。

資料文(3)

西洋天文学の基礎を記した清の書物「天経或問」は、「禁書であったが、内容は有益である」と幕府が判断して、1730年に刊行が許可され、広く読まれるようになった。

とある。

これは設問Bのパートで述べたもので、享保の改革期である。実学が重視されており、漢訳洋書が内容次第で刊行が許可された一例である。

資料文(4)

1755年から幕府が施行した宝暦暦は、公家の土御門泰邦が幕府に働きかけて作成を主導したが、1763年の日食の予測に失敗した。大坂の麻田剛立ら各地の天文学者が事前に警告した通りで、幕府は天文方に人員を補充して暦の修正に当たらせ、以後天文方の学術面での強化を進めていった。

とある。

これはAに対応する資料である。暦の作成において、幕府が作成や施行といった実務を担い、朝廷は儀式と命名といった権威づけを担当していたが、宝暦暦は朝廷側の土御門泰邦が主導し作成した。

しかしながら、宝暦暦は各地の天文学者から見ても明らかな欠陥がわかるほどに粗悪であったことが読み取れる。この出来事から、暦の作成に関しては完全に幕府の担当となり、そして幕府も一層注力する体制をとったことがわかる。

資料文(5)

麻田剛立の弟子高橋至時は幕府天文方に登用され、清で編まれた西洋天文学の書物をもとに、1797年に寛政暦を作った。天文方を継いだ高橋至時の子渋川景佑は、オランダ語の天文学書の翻訳を完成し、これを活かして1842年に天保暦を作った。

とある。

これはBに対応する資料である。「暦を改める際に依拠した知識」の変遷が書かれている。

寛政暦では”清で編纂した”洋書をベースにしたが、天保暦ではオランダ語で書かれた天文学書を天文方で翻訳し、作成に用いたことが書かれている。これは蛮書和解御用についても示唆されていると考えられる。

答案作成用メモの例

2020年度日本史第3問

実際の問題用紙には、このように書き込むなどすると、答案作成に役に立つでしょう。

答案例

設問A

幕府は天文方での暦作りや、暦の施行といった実務を行ったのに対し、朝廷は暦を改める儀式や暦の命名といった権威付けを担った。(60字)

設問B

初めは日本にそぐう形で改変した中国の暦を使ったが、天文方を設け国内で自作するようになると、西洋天文学を重視して洋書輸入の禁を緩和し、漢訳洋書に依拠して作成するようになり、最終的に蛮書和解御用で翻訳した蘭書に依拠した。これが洋学を発展させた。(120字)

まとめ

何度も確認しよう。自分の記述は、設問の要求に叶うものになっていただろうか。

今回のように、資料の読み取りと内容の整理が重視されるような出題では、多くの生徒が似たような解答を作成してくるわけであるから、わずかなミスや書き方の違和感はまず見逃してもらえないだろう。
さらに言えば、極力時間をかけずに消化したい大問であるから、ミスをしやすい人や普段から心がけをしていない人は尚のこと注意すべきだ。

設問Aに関しては、幕府と朝廷の役割を書くことは当然全生徒がしてくる。だからこそ、整然と、対比らしく書けているだろうか?

設問Bに関しては、依拠した知識の推移についてはもちろん全生徒が記述してくる。幕府の学問に対する政策を適切に書くことは出来ただろうか?そして『その影響』についても包含した記述であっただろうか?

差がつくとしたらそういった細かい部分のケアだろうと思われる。

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