2015年東大日本史(第4問)入試問題の解答(答案例)と解説

この問題では、いくつかの資料などの代わりに短い問題文が1つしかなく、設問文はその記述内容を受けての文章になっているため、分析する順番を変えて上から見ていきます。

全体の分析

第一次世界大戦中から、日本では都市化とマス=メディアの発展が顕著になり、海外からの情報と思想の流入も、大量で急速になった。こうした変化が何をもたらしたかに関して、下記の設問A・Bに答えなさい。

大正時代は短い(1911-1926)のだから、時代まるごとどれほどきっちり理解できていますか?と政治史や文化史を中心にして問う。ある意味でそういった出題にも思えますね。だからこそ限られた時間の中ででも出来るだけ広い範囲での周辺知識から要素を選んで解答を紡いでいく必要があります。
この時点では解答の方向性が絞れませんので、まず設問を見てどの要素を論じるかを定めましょう。
では、設問Aを見ていきます。

設問A

上のような社会の変化は、政治の仕組みをどのように変えていったか。大正時代の終わりまでについて、3行以内で説明しなさい。

まずは「上のような社会の変化」を確認します。
海外からの情報と思想が流入し、民衆にも浸透するようになったという変化ですね。これが政治の仕組みをどのように変えたかです。

(情報の流入がなされる→)民衆の運動が多発する→〇〇であった政治の体制が△△へと変わる、〜が生まれる。といった骨格を意識します。
そしてこの設問には年号の設定があるのでケアします。数学でいう値域の確認のようなものですね、地味に効いてくるので大切です。
今回は「第一次大戦中〜大正時代の終わりまで」ですので1914~1926年の間となります。

WWⅠ以前の政治体制

では次に、1914年以前の政治体制はどうであったかを確認します。
明治新政府が成立してから、旧薩摩藩や旧長州藩を中心とした藩閥勢力が実質的に独占する形で政治を行ってきましたが、この体制を変えるべく1874年に民撰議院設立の建白書を提出し、国民の政治参加と国会の開設を求めて自由民権運動が始まりました。
それを受け政府が国会開設の勅諭を出したことで政党が結党し始めます。1885年に内閣制度を、1889年に大日本帝国憲法を整えたことで1890年に第一帝国議会が行われました。しかしながら、第一次伊藤博文内閣は逓信大臣の榎本武揚以外が唯一の薩長土肥以外の出身という藩閥政府であったうえ、この頃は制限選挙であり、政治に参加できるのは国民の1%ほどでした。1900年には納税額が直接国税15円以上から10円以上に引き下げられましたが、それでもまだ有権者は国民の2%ほどでした。

ここで大切になってくるのが「閥族打破、憲政擁護」を掲げた第一次護憲運動です。2個師団増設問題により総辞職した西園寺内閣の後を継いだ桂内閣が内大臣であったことから宮中府中の別を違反しているとのことで民衆の反感を買い、大正政変が起きたわけです。
教育が普及することで護憲運動、社会運動(労働運動、社会主義、小作争議、婦人解放)といった大正デモクラシーの風潮への関心が強まる中、民衆や衆議院が護憲体制での政党政治を求めました。

大戦景気で労働者が増えて、都市化が進んだ。

それでは、どのような思想や情報が流入したことによって、どのような影響が出たのでしょうか。

「思想や情報」といった漠然とした情報だと解答に困ってしまいかねないですが、もちろん方針のヒントがありますね。改めて問題文を引用して確認してください。

第一次世界大戦中から、日本では都市化とマス=メディアの発展が顕著になり、海外からの情報と思想の流入も、大量で急速になった

「第一次世界大戦中」を具体的に言うと、大戦景気によって不景気から好景気へ転換したということです。(WW1以前は不況でした。)

景気が良くなったため、労働者やサラリーマンが増加するのはわかりやすいと思いますが、これが都市化とも繋がっています。地理でもよく出る話題です。

当時のメディアとは?

更にマスメディアについての言及もあります。当然今のようなインターネットはありません。当時の主流メディアは出版物です。
これにより、大衆の世論形成が促されます。(ちなみにラジオも大正時代である1925年に始まります。)

当時の出版物は主に4つですね。
1つ目はこの設問にも大きく関わる「中央公論」です。東大教授の吉野作造がデモクラシーを民本主義と翻訳したことなどで有名です。絶妙な翻訳技術ですよね。

2つ目は設問Bに関わる「改造」です。社会主義者の活躍の場です。円本のはしりとしても有名です。

3つ目はキング。

4つ目はプロレタリア文学の諸々で、大戦景気によるサラリーマン増加の後、戦後恐慌で苦しむことからも理解できます。これら4冊は大正デモクラシーでの社会運動と連動しています。

大戦後への影響

さて長くなりましたが、つまりこの設問では、大正デモクラシーでの一連の護憲運動とその結果(第一次世界大戦以後)についての記述が求められているわけです。
この観点で挙げられるのは、

米騒動。民衆の実力行使による暴動で、警察と衝突しました。
原敬(立憲政友会)の最初の政党内閣組閣。閣僚も陸相海相外相を除いて立憲政友会員からの任命です。
加藤内閣期の男子普通選挙の開始。満25歳以上のすべての男子が有権者となりました。
第二次護憲運動による憲政の常道の開始。政友会・憲政会・革新倶楽部の護憲三派が政党内閣の樹立を目的に結集しました。以降犬養毅内閣までの8年間が政党内閣となる憲政の常道が始まります。

などの点でしょう。
以上を踏まえてこのまま解答例に移ります。

答案例

制限選挙下で藩閥内閣が組閣され政治を行なっていたが、国民の政治意識や大正デモクラシーの潮流が強まったことで護憲運動や社会運動が活発化し、男子普通選挙と憲政の常道が始まった。

設問B

上のような社会の変化は、国際的な性格を持った社会運動を生んだ。その内容と、この動きに対する当時の政権の政策について、3行以内で述べなさい。

社会運動について

まず設問に示されている「社会変化が生んだ国際的な性格を持つ社会運動」について確認していきます。
これは、前述の社会運動(労働運動、社会主義、小作争議、婦人解放)や四つの出版(中央公論、改造、キング、プロレタリア文学)にもある様に、社会主義運動のことを指します。

そしてまず第一次世界大戦以後の社会主義の動きといえば当然ロシア革命です。ロシアも第一次世界大戦に参戦していましたが敗戦が続き、苦しい生活を送る国民の不満は高まっていたため戦争を続ける政府や、専制政治を行う皇帝に対し、レーニンの導きでロシア国民が革命を起こし社会主義政府 を樹立したというわけです。

シベリア出兵

これを受けてシベリア出兵が行われます。日本史では「シベリア出兵」と習うため、単に兵隊を派遣しただけのような印象を受けますが、実態は「ロシア革命干渉戦争」とでもいうべきものです。ロシア革命が世界中に広がると、とんでもない混乱につながると予想されたため、アメリカやイギリスなどと共にシベリアまで出兵をしたのです。

しかしながら、失敗に終わります。
これにより社会主義の進出を阻むことができなくなり、日本にも社会主義が本格的に流入して来ることになります。例えば、1922年にはコミンテルンの日本支部として日本共産党が結党されることとなりました。

なお、シベリア出兵で米の需要が高まることを見込み買い占めが行われたため、米価の急騰を招き、米騒動へと繋がったことも忘れてはいけません。警察が出動して武力鎮圧をしないと止まりませんでした。

治安維持法の制定

では次に、この動き(ロシア革命から日本共産党結成、活動開始まで)を受けて、当時の政権が何をしたのかというと治安維持法の制定です。

治安維持法とは、共産主義者と組織を取り締まる法律です。
細かく言うと、「国体」の変革と「私有財産制度」の否認を目的とする結社の組織者と参加者を処罰しました。

「国体」とは何かというのを説明すると非常に難しく面倒なのですが、ここでは簡単に「天皇を中心とした立憲主義体制」のことだと思ってください。つまり「国体の変革」とは、当時の政治体制を転覆させるという意味です。端的に言えばクーデターを企むテロリストを取り締まったということですね。

「私有財産制度」というのは、「財産権」を保障した上で成立している資本主義制度のことです。
財産権については、2022年第4問の解説に詳しく説明を書いておきましたが、簡単に言うと、誰もが経済活動を行い、財産を蓄えて自由に使える権利です。当たり前のように思えるかもしれませんが、財産権が保障されていない世界では、せっかく働いても誰かに容易に盗まれてしまいますし、政府に無制限に徴税されることになりますので、国民の労働意欲が著しく低下してしまいます。資本主義経済を成立させるために、絶対に必要な基本的人権です。

共産主義とは

さて、ちょっと話が飛びますが、ヨーロッパでは日本より早く資本主義が成立しました。これによって社会が大きく変化することになります。
資本主義体制下では、経済活動が超速で進むようになります。しかし、必要な規制や弱者の保護などの政策はこのスピードに追い付いていけません。そのため、貧富の格差が広がり、不当な労働環境で働かされ搾取される労働者が大量に発生しました。

このような資本主義の弱点を攻撃し、対抗する形で登場したのが共産主義です。
「共産」とは「共同財産」の略。
つまり、私有財産を認めず、資本主義を打倒するというのが共産主義の目的でした。
共産主義を本当に実現させようとすると、資本主義体制に紐づく社会秩序そのものが混乱してしまうため、治安が滅茶苦茶になってしまいます。しかも共産主義者は資本主義を打倒するためには暴力を容認していました。暴力を容認するというのは、「僕らの正義のためには殺人してもよい」という危険なものです。

こんなものを許すわけにはいかないということで、当時の日本政府は「私有財産を否認する=共産主義を標榜する」人を取り締まることにしたのです。
今回は、ちょっと詳しく治安維持法を説明しましたが、答案には当然こんな細かいことは書けませんので、ご注意ください。

答案例

ロシア革命とシベリア出兵の失敗を受け、日本にも社会主義勢力が進出し、コミンテルンの支部として日本共産党が結党され、無産政党が議席を獲得した。そのため治安維持法を制定し弾圧した。

まとめ

あくまで今回は政治史と社会運動だけを切り取っている問題でしたが、西洋の思想や出版について絡めて来ている以上、大正時代の労働運動やジェンダー論に絡めての出題や国民の置かれた状況に関しての出題があってもおかしくはなかったです。それゆえに、この問題は問われている事に限った話ではなく、大正時代とその前後の広範の理解が必要であったと考えます。(広い視野を持ち、広い範囲での知識を持って来た方が論述をよりよく構築しやすい。)

そして今回の問題に際しても、国語能力的なアプローチは大切で、Aでは政治の仕組みの変化がきかれているため「〇〇であったが、△△のように変化した。」に類する形で論述をまとめた方が良いし、Bでは社会主義運動の内容について説明した上で、政策についての言及で締めた方が良いです。

めくった時に感じる東大日本史の近現代史らしさのある記載量の少なさ、この類の出題に関してはいつも怯えさせられます。緊張感があり時間制限もある中で、出題によっては大ハズシや1人だけ悪目立ちする方針のズレを起こしてしまう可能性もあるからです。まずは論述としての体裁を整えることから考えて、骨格の締めから逆算して文字数を満たした方が無難だ。

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