2015年東大日本史(第2問)入試問題の解答(答案例)と解説
目次
中世武家社会の「人」と「お金」のしくみ
今回は2015年第2問を御家人の所領を通じて読み解きます。4つの資料は、所領の分布(どう広がったか)→惣領制(どう束ねるか)→代官(どう運営・徴収するか)→徳政令(帰結)という時間順の流れになっています。これを頭の中で一本のストーリーにしてから設問A・Bの答案に落とし込みましょう。
概略としては「鎌倉期、御家人の所領は戦の恩賞で全国に飛び地化した。惣領制が人を束ね、代官がお金で現場を回す、その副作用として所領の質入れ・売買が進み、永仁の徳政令が発せられる。」といったところでしょう。
設問要求の確認
設問A:「なぜ御家人の所領が(1)のように全国に分布したのか?」
→鎌倉幕府の成立・発展期の具体的なできごとを必ず盛り込む(守護・地頭の設置、奥州合戦後の知行地、承久の乱後の新恩給与 など)。
説明B:「多地域にまたがる所領を御家人はどう経営したか。その後の所領にどんな影響が出たか。」
→経営の具体化(惣領制の指揮系統/家子・被官・代官の派遣/(本所と地頭の折衝としての地頭請・下地中分 等)と、結果(分割・細分化、借金→質入れ・売却→徳政令)を述べる。
資料⑴所領が“全国に飛び地化”
ここが設問Aの心臓部になります。
「相模国三浦半島を本拠とした御家人三浦氏は、13世紀なかばまでには、陸奥…河内…紀伊…肥前…など全国各地に所領を有するようになっていた。」
東大はここでなぜ、そんなバラバラな飛び地が生まれたのかを、鎌倉幕府の成立・発展期の出来事と因果で語らせたいようです。正直、そんなこと?と思ってしまいます。みんなが簡単にわかりそうな問題だからこそ、丁寧に記述を完成させましょう。
全国各地に列挙される所領は例示ですので「陸奥・河内・紀伊・肥前…」は地域的バランス(畿内、西国だけでなく陸奥も)を意識したら、“飛び飛び”だなあ。と思うだけでOKでしょう。ではなぜこのように飛び飛びの地域を所有していたのでしょうか。それはもちろん鎌倉幕府の封建制度が理由ですね。
御家人らは、鎌倉殿(将軍)に軍役・奉公をする見返りに本領安堵(先祖伝来地の保証)と新恩給与(新たな知行地の下賜)を受けます。この二つのうち、御家人が所領を増やしていく過程にあるのは、新恩給与です。鎌倉幕府は戦いに参加した御家人たちに対しての恩賞として敗戦の相手方から没収した土地を与えていたわけです。それゆえに地縁的に関連のない色々な土地も当人の所領となったわけですね。
ここで一つ考えてみたいことがあります。当時の所領とは一体どんなものであるか説明できるでしょうか。受験で使うレベルのインプットとしては、実際に収益(年貢・公事)を得られる土地であること、由来が大きく二種類に大別され、本領(もともと自分の)と、戦功などで与えられた新恩(知行としての地頭職など)があることが抑えられていてほしいと思います。
彼らの時代の目線で国内の土地を捉えてみる
これは本筋とは少し違いますが、考えてみたい点があります。当時所領となった日本列島の各地域には、現代と同じくそれぞれ独自の歴史的・地理的特性があります。たとえば、北の果てに位置する陸奥では、名取・伊具周辺が典型とみられています。この地域は、中央から遠く離れた場所にありながらも、東北の広大な大地を背景に、地域ごとに自立した経営や年貢の収納などが行われていたと考えられます。つまり、都から遠いという地理的条件が、現地の実務を担う人々の自主的な経営体制を育てたといえるでしょう。
一方で、畿内に目を向けると、そこは「政権中枢に近い年貢の太い土地」が点在する地域でした。特に河内や紀伊のような場所は、中央政権の監督下のもと、豊かな生産力を背景に国家財政の基盤を支えていたのです。ここでは、政治権力の中心に近いという立地条件が、そのまま経済的な豊かさや年貢の多さにつながっていました。
さらに、西の果てである西海道、特に肥前の地では、九州北部という位置の特性が際立ちます。この地域は「対外軍事・交易の結節として価値が高い」とされ、海外との交流や防衛の拠点としての役割を担っていました。大陸や朝鮮半島との関係を意識せざるを得ない地理的条件が、この地域の戦略的重要性を高めたのです。
そして、幕府の中枢たる東国に目を移すと、今回の三浦氏の本拠地である相模国三浦半島が登場します。ここは「東国の海上交通・軍事の要」であり、房総・伊豆・相模湾を見張る「前線」に位置していました。つまり、三浦半島は単なる地方の一地域ではなく、東国を守る最前線としての性格をもっていたのです。海上交通の監視や軍事行動の拠点として、この地が果たした役割は非常に大きかったと考えられます。
以上のように、それぞれの時代においての日本国内の土地に関しての特徴をざっくりと掴み、知識とリンクさせておく姿勢があれば中世の今回のような問題以外や、また江戸時代の交易流通面などに関しても、知識の網羅に奥行きを持って捉えることができます。あくまでも日本史や地理の一部は限られた面積の日本が舞台になることが多いためです。
次は、持っている知識を「出来事→恩賞→分布」の時系列の流れという切り口で見てみましょう。これが答案作成にも活きてくるのです。
(1) 1180–1185 鎌倉政権の樹立と守護・地頭の全国化
源平合戦のさなか、頼朝は寿永二年十月宣旨(1185)で守護・地頭の任命権を事実上獲得し、これにより、幕府は全国に地頭を補任できるようになる。恩賞の形は本領安堵+新恩給与を採り始める。
(2) 1189 奥州合戦後の東北知行
奥州藤原氏の滅亡で、陸奥・出羽に膨大な没官地が発生し、戦功をあげた武士(東国御家人中心)に新恩給与され、彼らの陸奥方面の所領が一気に増えることに。
※資料の陸奥の所領の根拠。
(3) 1221 承久の乱後の西国再編
後鳥羽上皇方の所領の没収→分配が行われた。これが東国御家人が西国にまで所領を得る最大の契機となるわけです。河内・紀伊・肥前など畿内〜西国にも東国武士の飛び地が急増します。
※資料の“紀伊・河内・肥前の根拠は、これで説明できる。
→ まとめると、「守護・地頭の全国化」+「奥州合戦」+「承久の乱」という三つの出来事が、三浦氏の所領を北・畿内・西へ押し広げた、という因果が見えますね。
最後に
設問Aで求められるポイントをおさらいしましょう。この資料とダイレクトに接続するからです。
設問Aは「なぜ(1)のように分布したか」を鎌倉幕府の成立・発展期の出来事を具体名で入れて短く書け、という注文でしたので
1185年の守護・地頭の全国補任体制の確立(寿永二年十月宣旨)による、恩賞の全国化
1189奥州合戦・1221承久の乱後の新恩給与で東国御家人の飛び地知行が拡大
という内容を盛り込みたいわけです。
ポイントは「出来事名+制度名+因果」の三点セット。簡単な問題ですから、国語力で篩にかけられないように、ただの列挙にならないようにしたいところです。
(補足)三浦氏
三浦氏は、頼朝挙兵以来の東国有力御家人。一族から和田義盛(侍所別当)などの重臣も出る。一時、和田合戦(1213)で一族が打撃を受けつつも、宗家は幕府中枢に残った。その後も政権への奉公=軍事・政務の貢献を通じて、恩賞ネットワークを維持していった。こうした長期にわたる御恩と奉公の積み重ねが、13世紀中盤までの所領拡大・保持を支えた。
資料⑵惣領制と家中統制
資料(1)で見たように、御家人の所領は全国に飛び地化していきました。一度それをあなたの住む実家とは別の県に散らばる自分の持つ土地だったとして考えてみてください。では、その“バラバラな土地”を誰が・どうやってまとめ、誰が責任を負うのか、などの疑問が浮かぶのが当然かと思います。ここで登場するキーワードが惣領制です。資料(2)は、その実像を、大友能直の譲状のエピソードでイメージさせてくれます。
「1223年、御家人大友能直は、相模・豊後国内の所領を子どもたちに譲った際、幕府への奉公は惣領の指示に従うことを義務づけた。しかし、のちに庶子のなかには直接に幕府へ奉公しようとする者もあらわれ、惣領との間で紛争が起こった。」
この一文の中に、家督の一元化/分割相続の進行/家中統制体制の動揺 という要素が入っています。順にみていき、設問Bの“経営方法→影響”に活かしてみましょう。
第一に資料文の要素を分解し、それぞれをかみ砕きたいと思います。
最初に登場する大友能直は、鎌倉前期を代表する御家人の一人です。彼は相模を本拠としながら、遠く豊後にも所領をもっており、まさに今回のテーマ「多地域飛び地所領の典型例」としてバッチリなわけです。このように、広範な地域に土地をもつ武士にとって、家をどうまとめ、奉公の責任や所領の管理をどう一元化するかが重要な課題となりました。
次に、惣領と庶子を整理しておきましょう。あいまいな理解のままの人もいるのではないでしょうか。惣領とは家の長として「軍役・奉公の統帥、家中訴訟の代表、所領分配の裁量権」を握る存在でした。一方、庶子とは端的に言ってしまえば「惣領以外の男子」を指し、多くは惣領の指示を受けて代官や地頭代として現地を管理していました。しかし、彼らの中には自らの所領を背景に独立志向を強める者も現れます。このことが家中の統制を乱すきっかけとなっていきます。そんな中で資料文には、「奉公は惣領の指示に従え」という記述がありました。これは、家の代表者である惣領に奉公の窓口を一本化しようとする意図を示しています。惣領の指示を経ずに幕府へ「直接奉公」する者がいたことは、家督の統制が揺らぎ始めたことを意味しています。庶子が惣領を飛び越えて自らの功績を幕府に申告し、恩賞を直接得ようとする動きは、惣領制への明確な挑戦でした。
そのため幕府は、「奉公は惣領の指示に従うことを義務づけ」る方針を打ち出した、とあります。この方針には二つの狙いがあります。第一に、「責任と功績の一本化」です。家ごとの功績や過失を惣領が代表して申告すれば、恩賞や処罰の整理が容易になります。第二に、「無秩序な直訴・直奉公の抑制」です。庶子が勝手に行動して恩賞を得ることを防ぎ、家全体の利害を内部で完結させようとしたのです。
第二に惣領制の意義を考えてみたいと思います。
ではなぜそもそも惣領制が必要となったのでしょうか。ここではざっと思いつく3つの理由を提示します。
- 背景①:所領の飛び地化
奥州合戦・承久の乱などの戦後恩賞により、所領が相模と豊後のように遠隔地で点在していたこと。 - 背景②:軍役・公役の重層化
在京・在鎌倉のコスト、段銭・棟別銭などの臨時課役も増え、家として包括的な徴収が必要になっていたこと。 - 背景③:家の人員増と分割相続
分割相続が過度に進むと、家内で小さな所領の支配者が各地に生まれ、統制の一本化が課題となる。
→ だからこそ、惣領制という多数の遠隔地拠点経営の一本化のためのモデルが不可欠になっており、これを維持したかったのです。
それでも惣領と庶子の摩擦は起きてしまったわけです。ではなぜ破られてしまうのでしょうか。理想通りにいかない現実について考えてみましょう。この視点は、現代を生きる上でも大切になるのではないでしょうか。
まず、その要因の一つが「所領の分割・細分化」です。相続や分与を重ねるうちに庶子たちが自分の取り分を守ろうとし、再配分や惣領の裁量に反発するようになりました。さらに、「遠隔地ゆえの現地主導」も問題でした。たとえば相模と豊後のように距離がある場合、庶子が現場判断で先に行動し、結果を事後承諾として惣領に迫ることもありました。これは、現代の企業組織でも見られる「本社と支社の温度差」に通じるような摩擦だったといえます。
加えて、「貨幣経済の浸透と借り入れの増大」も惣領制を揺るがしました。戦費や課役に必要な資金を得るために、庶子が金融業者や被官と独自に結びつき、惣領の指示を待たずに経済活動を行うようになったのです。このように、庶子たちの経済的自立が進むにつれ、惣領の統制力は次第に低下していきました。
→ これらの動揺因子が、後の資料の代官起用(外部化)や徳政令へ論理的につながることを、予測しておきます。
※惣領制のメカニズム
惣領(家督)
└ 庶子・家子(現地の分家)
└ 被官・地頭代・代官(在地の実務担当)
└ 名主・百姓(生産・年貢負担、末端構成員)
(補足)法整備の側面
法整備の面でも、この仕組みを支える動きが見られます。御成敗式目(1232年)は、今回の資料からおよそ9年後に制定されました。この法典では、本領と新恩の区別、相続・譲与の原則、紛争処理の仕組みなどが明文化され、惣領の代表権を前提に家中秩序を保つ方向性が示されました。いわば、家と所領の関係を法のかたちで安定させる試みだったのです。
こうした法整備の背景には、政治運用の根本が揺らいでいた現実がありました。家督の一元化を維持しようとしても、分割相続や経済的自立が進むなかで、その混乱を鎮めるために、制度と法が急速に整えられていったという点は、まさに当時の切実な必要に応じた動きといえるでしょう。
現代社会に目を向ければ、デジタル化やSNSの普及に伴い、思いもよらぬ弊害や課題が生まれ、それに対して急ピッチで法整備や制度改正が行われている状況があります。こうした現代の動きと、鎌倉時代の惣領制確立・法文化の流れには、根底に共通する「社会秩序を守るための制度的応答」という類似する構造が見てとれ、人間社会の普遍的な姿が見えてくるように思います。
資料⑶代官の登用と遠隔経営
惣領制という仕組みで、現場の年貢収納・出納・輸送・交渉は誰が回すの?という素直な疑問に対応するように資料が登場します。キーワードは「代官」、「貨幣経済の浸透」です。金融業者すらもが代官に起用され、所領経営を外部の専門職に請け負わせていく実像を切り取っています。
「1239年の鎌倉幕府の法令からは、金融業を営む者が各地の御家人の所領において代官として起用され、年の徴収などにあたっていたことがうかがわれる。」
飛び地化した所領と惣領制という仕組みのもとで、「現場で年貢の収納や出納、輸送や交渉をいったい誰が担っていたのだろう?」という素朴な疑問に応えるかのように登場したのが、代官という存在でした。鎌倉幕府の法令(1239年)には、金融業を営む者が各地の御家人の所領において代官として起用され、年貢の徴収などを担当していたことがうかがえた、とあります。つまり、代官は惣領や地頭の代理として、現地で収納・勘定・訴訟・治安維持・交渉といった実務を一手に引き受ける「お金と実務のプロ」だったのです。
・代官任用の背景
この背景には、いくつかの社会的変化がありました。まず、御家人の所領が全国に飛び地のように点在したため、遠隔地の経営には移動や監督のコストがかかるようになりました。先ほど見たように、相模に本拠を置く御家人が陸奥や畿内、西国にまで土地を持つようになると、もはや一家の人材だけで管理することは難しくなります。さらに、分家が増えるにつれ惣領制のもとで指揮系統こそ一元化しても、現地での収納や交渉のような細かな仕事は常駐の専門職がいなければ回りませんでした。
加えて、貨幣経済の浸透も大きな要因でした。段銭や棟別銭といった銭で支払う税が広がり、年貢を銭で納めたり換金したりする必要が増えたのです。在京や在鎌による訴訟・政務対応の滞在費や往復費も、貨幣の需要を一層高めました。こうした状況のもと、金融業者である借上・土倉・酒屋といった都市の業者が代官として起用され、年貢の徴収・輸送・換金・交渉といった一連の経営実務を請け負うようになります。彼らとの年貢の請負契約では、代官が一定額を定額納入するかわりに、徴収や輸送、換金にともなうリスクを引き受ける、という仕組みが取られていました。
・代官の仕事内容
また、代官の任用は大きく二つの経路がありました。ひとつは、惣領の家子や被官を内部から登用する「家中の代官」、もうひとつは、名主層や都市の金融業者などを外部から招く「外部委託型の代官」です。特に後者のケースでは、専門的な知識と資金力をもつ業者が重要な役割を果たしました。彼らに与えられた権限は広範で、年貢や雑役の取り立て、督促、検見・検注への関与などの収納業務をはじめ、米を銭に換える換金や為替の利用、前貸しや清算などの出納業務、さらには舟運・陸運の手配、関銭や運上の支払い、輸送中の保管といった物流面の手配にも及びました。また、地頭請や下地中分のような本所との現地交渉、訴訟対応、治安維持、盗難や逃散の防止なども彼らの職務でした。なんというか、よろずやという感じで激務ですよね。
この仕組みのメリットは明快でした。まず、遠隔地の所領経営を効率化できること。さらに、代官が前貸しや立替を行うことでキャッシュフローが安定し、また、地頭と本所の対立が起こった際には在地で働く代官が現地で調整役となることもできるのです。しかし一方で、リスクも少なくありません。前貸しが常態化すると利息負担で収支が悪化し、所領や年貢を担保にした結果、それらを質入れや売却せざるを得ない事態に陥ることもありました。さらに、定額請負の目標を守るために取り立てを強化すれば、百姓が逃散するなど社会不安が高まることもあったのです。貨幣経済の進展は流通を活発にする一方で、社会全体のコストを増大させました。
ここまで理解すれば、もうお分かりかと思います。こうした時代の流れがやがて徳政要求を生み出す土壌ともなりました。このような「副作用」が、次に登場する資料⑷の徳政令へと直接つながっていくことになります。
資料⑷国家介入と、その逆効果
さあ、いよいよ帰結パートです。先述の“副作用の爆発”が来ます。
それが1297年「永仁の徳政令」。御家人の所領流出に“法の力”でストップをかけます。ところが翌1298年に停止。なぜ効果がなく、しかも逆効果すら生んだのか。これを見ていきます。
「1297年、鎌倉幕府は、御家人が所領を質入れ・売却することを禁じ、すでに質入れ・売却されていた所領は取り戻すように命じた。ただし、翌年にはこの禁止令は解除された。」
1297年、鎌倉幕府は御家人の生活と政権の安定を守るため、非常に重要な決断を下しました。借金や取引で失われつつあった御家人の所領を、幕府の力で強制的に元に戻そうとしたのです。
・御家人らが直面した当時の借金苦とはどんな状態であるか
当時、御家人たちは戦乱や不作、そして段銭・棟別銭といった臨時課役により、慢性的な資金難に陥っていました。そのため、土地を担保にして資金を借りる「質入れ」や、現金化のために土地の権利そのものを「売却」する行為が常態化していたのです。現代の借金苦にあえぐ人々と似た行動原理です。当然、返済ができなければ、担保として差し出した所領はそのまま没収されてしまいます。こうして家の経済的基盤が削られ、惣領による家の統率力も次第に空洞化していきました。
・幕府が慌てて介入するに至る理由
この状況が重大な危機であったのは御家人ら本人たちだけではありませんでした。幕府にとっても大問題です。御家人たちが土地を失えば、軍役や奉公に必要な人的・物的基盤が失われ、幕府の軍事動員力そのものが低下してしまうからです。
そんな政権の根幹を支える仕組みが崩れかけていたため、幕府は思い切って「徳政令」という上からの救済措置を打ち出しました。その狙いは、御家人の所領を取り戻し、再び軍役の基盤を確保することにありました。
この法令には二つの柱がありました。第一に、「今後の質入れ・売買を禁止」して新たな所領流出を防ぐこと。第二に、「すでに行われた質入れ・売買を無効化し、土地を返還させること」。つまり、幕府は新旧両方の流出を断ち切ろうとしたのです。これでうまくいくのでしょうか。
残念ながら、この政策はうまくいくわけがありません。そもそも質入れや売買は、当事者同士の合意にもとづく取引です。これを幕府が一方的に無効とすれば、普通に考えて「取引の安全性」や「権利保護」と真っ向から衝突します。しかも、土地が何度も質入れ・再質入れ・転売されていた場合、誰に返せばよいのかを現場で判断するのは極めて困難でした。
・現場で起こった具体的な不具合
典型的なケースを想像してみましょう。ある御家人Aが不作や課役によって資金難に陥り、代官を通じて土倉や酒屋から金を借ります。その際、地頭職の収益権を担保として差し出します。ところが返済できず、実質的にその土地の収益権は債権者へ移ってしまいます。そんな矢先に徳政令が出され、「その土地は御家人に返せ」と命じられる。当然、債権者は「正当な取引なのに」と強く反発しました。
在地の守護や地頭は、この両者の間で板挟みになります。幕命に従って返還させれば金融取引の信用が崩壊し、放置すれば幕府の命令違反になる。こうした混乱が全国で生じ、経済の流通と信頼性が著しく損なわれていきました。
結果として、幕府は翌1298年、わずか1年でこの徳政令を停止します。徳政令が引き起こした弊害は三つありました。第一に、経済取引の信頼性が崩れ、流通が麻痺したこと。第二に、土地の返還を一律に実施することが現場では実質的に不可能だったこと。第三に、都市の土倉・酒屋・寺社勢力、在地の名主層などから強い政治的反発が集中したことです。
この帰結は御家人の生活困窮と幕府支配の弱体化を象徴しています。
以上、4つの資料を詳細に因果で解きほぐしました。あとはこの骨格を自分の語順に入れ替えて答案を作ってみましょう。
【答案例】
設問A
御家人は、奥州合戦や承久の乱の没収地を新恩給与として得たため、所領が西国から陸奥にまで飛地状に分布するようになった。
設問B
多数の遠隔所領は惣領が金融業者を代官として派遣する形で一元的に運営されたが、幕府へ直接奉公する庶子が現れるなど惣領制は動揺した。そこに分割相続での所領細分化、軍役・生活費の負担や貨幣経済の浸透が重なったことで土地の質入れ・売却が進行した。




