2024年東大日本史(第3問)入試問題の解答(答案例)と解説
東京大学の日本史の設問を「リード文」「設問」「資料文」それぞれで分析しています。
目次
リード文の分析
いつも通りの指示だけですので、事実上何も書かれていないのと同じでしょう。
設問の分析
設問A
まず「この間」というのが、曖昧な指示。資料文を見ると1633年から1639年の6年間の出来事が書いてあるので、「1633~1639年」と捉えれば良いでしょう。
メインの問いは「長崎やポルトガル船に対する幕府の政策は、どのように転換したか」です。後で資料文について解説を加えていきますが、問いに使えそうな資料がたくさんあるので、資料をヒントにまとめていけば良いでしょう。
サブの条件として「島原の乱の影響を考慮しつつ」とあります。資料(4)に「島原の乱鎮圧後の・・・」とあって、一瞬だけ島原の乱が登場します。これも資料文(4)を見つつ、影響を考えることになるでしょう。
設問B
まず目につくのが「(5)において」ですね。つまり資料(5)がとても大事だということでしょう。
次に「幕府が、それまでと異なり」とあります。ということは資料(5)では、それまでと異なる政策が書かれているということですね。資料(4)までとの違いに注目しましょう。
メインの問いは「政策を広く大名たちに知らせたのは、何のためだったと考えられるか」となっていますね。
先取して資料(5)を読んでみると「この決定を諸大名にも伝えて警戒を呼び掛けた。」とあります。得られる情報としては「警戒を呼び掛けた」くらいでしょうか。もちろん「何を警戒したか」を考えて答える必要がありますね。
設問A・Bの解説
では、資料文に移りましょう。
資料文(1)
1633年に出された命令書についての資料です。
これを見た瞬間「あ、鎖国令Ⅰだ!」と気づきましょう。(名前は、鎖国令第1弾でも、第1次鎖国令でもお良いです)
教科書の知識を確認すると「奉書船以外の海外渡航禁止、海外在住5年以上の日本人は帰国禁止」という内容のはず。ここで「あれ?」となってほしいのが「日本人の海外渡航」について。
資料文では「日本人の海外渡航が禁止」となっていますが、教科書の知識では禁止となっていません。この矛盾はどう解釈すれば良いのでしょうか。
まず、正しい解釈については、「奉書船で日本人の海外渡航はOK」のようなので、教科書の知識が正しく、この問題の資料文(1)が間違っているようです。
原文はこちらのサイトで見れます。
では、なぜ東大が資料文を作成するうえで「日本人の海外渡航禁止」としたのか。これは推測にすぎませんが、問題を解くうえで条件が複雑にならないように受験生に配慮したのではないでしょうか?(他の考えがあれば、ぜひ教えてください。)いずれにしろ、東大は1633年の時点で「日本人は海外渡航を禁じられていた」として問題を解け、という指示だと思いますので、そう捉えて先に進みましょう。
※資料にかかれている「日本人の海外渡航禁止」はその前に書かれている「奉書船以外の」という条件が修飾されているのではないか、という意見もあるかもしれませんが、
「奉書船以外の海外渡航禁止、日本人の海外渡航禁止」と「海外渡航禁止」が2度書かれていることからも、前半と後半は「、」で区切られていて「奉書船以外の」という条件が後半にも修飾していない、と判断しています。
ちなみに、1633年というのは、1632年に秀忠が死んだ直後だというのもチェック!
資料文(2)
翌年、1634年にも同一内容の命令書が出されたとのこと。内容に変更がないので、あまり取り上げられないですが、一応鎖国令Ⅱです。
変更点は鎖国令の中身ではなくて出島の建造について。もちろん、この年は建造が開始されただけなので、完成は1636年と2年後。ポルトガル人を収容する施設だそうです。
出島というと、貿易施設だと思う人がいるかもしれませんが、元々はポルトガル人の収容施設を作ろうとしたのです。「収容」でも十分意味が伝わるかもしれませんが、隔離するという意味です。
禁教令などが既に出されていたことからもわかるよう、幕府はキリスト教(カトリック)に対して強い警戒心を持っていました。ポルトガル船は貿易利益をもたらしてくれるので、貿易を続けていましたが、布教は勘弁。貿易だけして布教はさせないように、出島にポルトガル人を隔離しようとしたのです。資料(3)で出てきますが、長崎の町をうろつくポルトガル人は追放したようです。
資料文(3)
次は1635年の鎖国令Ⅲについてです。これは太字で覚えさせられるものですね。
なんと「日本船と日本人の海外渡航禁止」と書かれていますが、これは「奉書船だとしても禁止」の意味です。1633年時点では「奉書船以外の海外渡航禁止」つまり、奉書船の海外渡航は許可されていましたが、1635年には禁止に転じています。資料文の読解でもそうなりますが、教科書の知識でもそう習います。ここは間違えないようにしましょう。
また、1633年には「海外在住5年以上の日本人」が帰国禁止でしたが、1635年には海外にいた日本人は全員帰国禁止になっています。私の感覚からすると、凄い命令だなと思っちゃいますが、それだけ警戒していたということでしょう。
後半には1636年の鎖国令Ⅳについて書かれていて、長崎の町に残っていたポルトガル人の血縁者を追放する規定が追加されました。問題を解く上ではあまり関係ないですが、この命令のポイントはポルトガル人ではなくて、ポルトガル人の「血縁者」を追放しているところです。つまりポルトガル人と日本人の子供も追放しているのです。
資料文(4)
これは鎖国令とは直接関係のない資料ですね。
島原の乱(1637年スタート)を鎮圧したあと、幕府がオランダ商館長(カピタン)に何度も念押ししています。
内容は「ポルトガル人と同じ輸入品を、オランダからも輸入できるのか」つまり、ポルトガルとの貿易を切って、オランダとの貿易に切り替えようとしているわけですね。
先述しましたが、ポルトガル人は布教するから嫌だけど、貿易の利益があるから仕方なく貿易している状態。でも、オランダと貿易できれば、ポルトガルのメリットが消えます。
ということで、資料(5)でポルトガル船来航を禁止する運びになるわけですね。
オマケ:オランダ人は布教しないのか(受験日本史の範囲外)
ここで疑問を持たないでしょうか。オランダ人は布教しないのか。
答えは「しない」です。ポルトガル人は布教と貿易をセットで行わないと気が済まないのですが、オランダ人は貿易だけしてくれます。
ちなみに、スペイン人も不況と貿易がセットです。
この違いは何なのでしょうか?
答えはカトリックとプロテスタントの違いです。
今の我々は、キリスト教という大きなカテゴリの中に、カトリックとプロテスタント(と正教)があると認識していますが、当時の日本人は別の宗教のように見えていました。実はそのくらい違います。(もちろん、今もカトリックとプロテスタントは大きく違いますが、一般の日本人から見ると、あまり違いが分かっていないだけです)
以下、世界史選択の人には耳タコの話も含め少しだけ詳しく説明しましょう。
ちなみに、受験日本史の範囲外なので、入試ではここで読んだことは答案に書かない方が良いですよ。日本史ではカトリックとプロテスタントを区別せず「キリスト教」とひとくくりで話を進めますしね。興味ない人は答案例まで飛ばしてください。
カトリックは腐敗していた(ように見えた)
プロテスタントの意味は「対抗する」です。何に対抗するかというとカトリックに対抗したのです。つまり、元々はカトリックと正教が存在していたところに、プロテスタントが第三勢力として誕生するのです。カトリックを「旧教」、プロテスタントは「新教」と和訳されることからもわかるでしょう。
何事においてもそうですが、長く権力や勢力を保っていると腐敗していきます。本来の目的から外れて、権力や勢力を維持拡大することが目的化してしまうものです。
「カトリックも腐敗しているぞ」と考えた人が何人かいたのですが、たびたび弾圧されてしまっていました。
そこへ登場するのがルターです。カトリックに反発すると殺されてしまうというのは分かっていながら、なんと95か条も批判する項目を作って発表します。
ルターは単に「カトリックは悪い」と言ったのではありません。
カトリックは、キリスト教における罪を犯したとしても「免罪符」を買えば救われますよ、として儲けていました。
そこへルターは「救われるかどうかは神が決めることだろ!なんでカトリック教会が救われるかどうか決めてるんだ!聖書にはそんなこと書いてないぞ」とツッコむわけですね。
当然カトリックは反発するのですが、当時のカトリックに不満を持つ人はたくさんいたので、むしろ加熱してヨーロッパに広くルターの考えが浸透していきます。この一連の流れを「宗教改革と言います。
なお、大雑把に言えば、西にカトリック、東に正教が広まっていたところ、ドイツあたりでルターが宗教改革を始めます。だから、北の方にプロテスタントの国が多いんですね。(ちょっと単純化しすぎではあるのですが)
血みどろの宗教戦争
このあと、カトリックとプロテスタントは「聖戦」をします。
カトリックとプロテスタントは同じキリスト教。仲が良いと思っている人がいますが、とんでもない。かつて両者は悲惨すぎる殺し合いをします。宗教戦争です。
カトリックから見るとプロテスタントは悪魔(サタン)、プロテスタントから見るとカトリックは悪魔(サタン)です。
当然悪魔は殺さなければいけません。悪魔は「殺しても良い」ではありません。「殺さなければならない」です。道を歩いていて見かけた見知らぬ人が、カトリック信者っぽい行動や発言をした場合、プロテスタントの人は殺さなければなりません。相手がカトリックである証拠なんていりません。プロテスタントの人が「あ、あいつカトリックだな」と思ったら、殺さなければなりません。(魔女狩り)
相手は悪魔なのですから、妥協できません。お互い殺し合いをしすぎて妥協点を提案されるたびに、「不満だ!」となって、また殺し合いを続けます。これがちょうど西暦1600年前後の出来事です。日本でいうと、戦国時代とか江戸初期の辺りです。こんなことを地球の裏側でしているのですから、カトリックとプロテスタントは違う宗教に見えて当然ですね。
カトリックは改宗させる。プロテスタントは見捨てる。
さて、さきほど免罪符の話をしました。
カトリックは免罪符によって神に救われるかどうかを決める、プロテスタントは神が決めることだと考えるという話です。実はこの考え方の違いが日本に大きな影響をもたらします。
カトリックもプロテスタントも、「神は全知全能」という認識は共通しています。
しかし、日本人のようにキリスト教を信じていない人に対するアプローチが真逆なのです。
カトリックの人からしてみると、非キリスト教の人は、全知全能の神が作った世界に存在する「誤植」のような存在。パソコンやスマホのプログラミングに生じる「バグ」みたいなものだと思ってください。非キリスト教は誤植でありバグなのだから、修正しなければなりません。そこで、布教や宣教をして、改宗させようとします。
しかし、プロテスタントからしてみると、カトリックが免罪符を売って、神の決定を代行しているのと同じ。神の決定を人間がとやかく言うようなことはありません。
神は完璧な世界を作り上げた。だから、非キリスト教の人は、人間からしてみると誤植やバグに見えるかもしれないけど、それは人間から見るとバグに見えるだけであって、神の視点で見るとバグではないのだ。と考えます。
だから、プロテスタントは改宗しません。もし日本人がバグではないとしたらいずれキリスト教になるだろうし、バグだとしたら地獄に落ちるだけ。勝手に落ちればよいと考えます。
さて、日本に来たスペイン人やポルトガル人はカトリック。つまり、日本人と貿易しながら、キリスト教に改宗しようとする人たちです。
一方、オランダ人はプロテスタントなので、改宗はしないで、貿易だけしてくれます。日本にとって都合のよかったのはプロテスタントなので、ポルトガル(カトリック)と貿易するのはやめて、オランダ(プロテスタント)と貿易したというわけです。
長々書きましたが、これが背景です。
ただし教科書に書かれているレベルの内容ではないので、くれぐれも答案では書かないように笑。
資料(5)
1639年、ついに幕府がポルトガル船の来航を禁止します。鎖国令Ⅴです。これで完全に「鎖国」が完成ですね。
さて細かいですが、このタイミングだけ、長崎に使者を派遣しています。資料(1)では「長崎へ赴く奉行」に命令書を出していますが、資料(5)では使者を派遣。さてどちらが重要な内容を通達しているでしょう。
当然(5)の使者を派遣している方です。当初幕府はいわゆる「鎖国令」を江戸にいる長崎奉行へ通達しています。当時は夏ごろにポルトガル船が来航していたらしいのですが、その夏を見計らって長崎奉行が長崎に向かいます。ソイツに命令書を渡していたのです。
それが、資料(5)の1639年になると、使者を直接長崎に派遣しています。間接的に長崎へ命令していたところ、直接命令するように変更されているのです。ついでにもう一つ言えば、長崎奉行は旗本ランクの人が原則として就任するようですが、この時長崎に派遣された使者は(後の)若年寄ランク。原則として大名が就くポジションです。ここからも、1639年の鎖国令Ⅴが重要だというのが分かるでしょう。
設問B「この決定を諸大名にも伝えて警戒を呼び掛け。」について
もう一つ大事なのが、「この決定を諸大名にも伝えて警戒を呼び掛け。」と言う部分ですね。
やっと、設問Bに直接かかわる部分が出てきました。かなり上の方で一度書いていますが、目的は「警戒を呼び掛ける」ことです。
では、幕府は何を警戒していたのか。そして、なぜ諸大名に伝えたのか。
答えは、ポルトガル船の再来航による、宣教や軍事衝突(武力侵攻)です。
と答えを書いてしまいましたが、資料には書かれていないので、知識で補うか、想像力で補わないといけません。ここが難しいところですね。
まず「警戒」と書かれているので、何かポルトガル船が日本に対して不都合なことをしてくるのを想定したのでしょう。当然、これまでの流れから「布教」です。これは、資料を読んでいれば分かるし、教科書レベルでも説明されていることでしょう。
ではなぜ布教を怖がるのでしょうか。これも良く説明されていることだと思いますが、布教の先には武力闘争があるからです。
カトリックは世界中に植民地を作りましたが、その手口は布教から入ります。(ヨーロッパ人から見た)未開の地に入っていくのは、まず宣教師です。神の教えを説くのを建前に現地の人と仲良くなって、その地の権力者に面会させてもらいます。キリシタン大名がキリスト教に染まったことからもわかるように、現地の人がキリスト教を段々信じるようになるにつれて、現地の人から情報を仕入れて、本国へ報告します。この時点で宣教師はスパイを兼ねているのが分かるでしょう。そして、最終的には武力侵攻の部隊がやってきて、略奪をするわけです。
日本は、秀吉がバテレン追放令を出していることからもわかるように、早い段階からキリスト教に警戒していました。それが功を奏して、キリスト教に染まる前に日本から排除するのに成功しました。
そんな背景知識を知らなくても、資料(4)にハッキリと「島原の乱」が書かれています。
島原の乱は幕府によってかなり衝撃を受けた出来事だったらしく、その後の政策に大きな影響を与えています。第二の島原の乱を起こさないよう、布教と武力闘争に警戒していたということなのです。
オマケ:『ポルトガル船使節団長崎受難事件』
1639年にポルトガル船が来航を禁止されたあと、ポルトガル人は焦ります。日本との交易がないと、東南アジアの拠点であるマカオが衰退してしまう、と。
そこで、マカオからポルトガル人が長崎にきて、貿易を再開できないかチャレンジしました。
しかし、幕府の対応は「死罪に処す」。乗り組み院74人のうち61人を処刑して、下級船員の13人だけをマカオに戻します。当然、この74人の使節団は表向きは貿易再開のためであっても、裏の目的として武力行為を想定していたようです。幕府としては、前年に定めた規定通りの対応をしたまで、ということではありますが。幕府の覚悟が伺い知れますね。
このように、実際、まだまだポルトガル船からの武力による脅威は続いていました。
ちなみに、数十年後ではありますが、1708年には宣教師のシドッチが来航しています。
答案作成への思考プロセス
設問A
メインで問われているのが「長崎やポルトガル船に対する幕府の政策はどのように転換したか」です。
長崎と言えば、鎖国令Ⅰ~Ⅴが長崎奉行を通じて命じられた場所として登場します。途中で出島が建造されポルトガル人の血縁者が隔離される場所にもなりますね。
ポルトガル船に関しては、元々は貿易を許可されていましたが、最終的にオランダに切り替えられてしまいます。
そのきっかけになったのが島原の乱です。キリスト教の布教を許すととんでもないことになると悟った幕府は、ポルトガル船来航を禁止することを目論みます。ポルトガル船で得られる貿易品の代替先としてオランダで足りることを確認したのち、オランダとの貿易へ切り替えるのです。
この内容を端的にまとめれば良いでしょう。(島原の乱の影響を考慮するという条件にも、必然的に触れることになります。)
設問B
ポルトガル船の来航を禁じましたが、再来航して布教されるのではないか、それが行く行くは武力闘争に発展するのではないか、という警戒心が幕府にはありました。
(上述したように、実際すぐやってきます)
そこで、幕府は各大名に警戒を呼び掛け、ポルトガル船が来航した時のための防備を命じるのです。キリスト教の布教というと九州が目立ちますが、実際には日本各地で布教されていました。そもそも来航禁止のルールを違反してやってくるポルトガル船ですから、どこに来るかわかりません。そのため広く大名に命じたと考えれば良いでしょう。
答案例
A
ポルトガルと貿易しつつも日本人の海外往来を制限してキリスト教を警戒していたが、島原の乱で一層脅威に感じたため、オランダから生糸を確保できる目途を立てた後、ポルトガル船来航を禁じた。
B
来航を禁じたポルトガル船が再来して布教や軍事衝突が起きる可能性があることを大名たちに知らせて、沿岸防備を強化させるため。
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