2024年東大日本史(第1問)入試問題の解答(答案例)と解説
東京大学の日本史の設問を「リード文」「設問」「資料文」それぞれで分析しています。
目次
リード文の分析
特にありません。飛ばします。
設問の分析
設問A
太上天皇の政治的立場の変化を答える問題。
嵯峨天皇に関する問題は度々出されていまして、2021年や2005年が代表例でしょうか。過去問を分析して周辺分野まで理解を深めておく重要性が分かります。
どちらもこの問題に通ずるところがありますので、よく見直してみてください。
設問B
こちらは、天皇の官人の関係の変化についてです。
「奈良時代までとの違いに留意しつつ」という条件が付されているので、分かりやすく対比させながら論述しましょう。
設問Aの解説
では、資料文に移りましょう。設問Aに絡む部分だけピックアップしながら解説していきます。
資料文(1)(4)(5)
(1)と(4)は官人採用の仕組みについて。明らかに設問Bの内容なので割愛。
(5)は嵯峨天皇の唐風化政策についての内容ですが、後述するように官僚採用に関連するので割愛します。
資料文(2)
孝謙天皇の譲位(太上天皇へ)→藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)→孝謙天皇が重祚(称徳天皇) という歴史事実の説明。
官人採用の話ではないので、設問Aのための資料文だけど、「太上天皇の政治的立場」について答えるとして、どう読み取るか。
孝謙(太上天皇)が権力奮ったのはもちろん、淳仁天皇(現役天皇)の即位や廃位を裏で決めてしまったことから、天皇以上の権力者だったと読み取ることも可能でしょう。
資料文(3)
こちらも歴史事実の説明。
平城天皇譲位(嵯峨天皇へ)→平城太上天皇の変=薬子の変→嵯峨天皇譲位(淳和天皇へ)→嵯峨上皇が隠棲
ということで、やはり官人と関係ないから、設問Aの資料文。「太上天皇の政治的立場」を、歴史の事実から読み取らなければならないため、解釈が難しいですね。
まず平城太上天皇は嵯峨天皇と対立します。そして、それを退けた嵯峨天皇は強い権力を握ります。そして譲位して嵯峨上皇になります。
「強い権力を握ります」の部分は資料文には書かれていませんが、政敵を倒した人が権力を握るのはパターンですから納得の結果。実は設問Bでココがポイントになってきます。(後述)教科書や参考書でも、嵯峨天皇(上皇)の事績は色々書いてあるでしょうから、必ずチェック!
ポイントは「隠棲した」
大事なのは譲位した後「隠棲した」というところです。
隠棲したということは、現役を引退したということ。少なくとも表向きは、政治の世界から姿を消しています。
つまり、上述した孝謙太上天皇や平城太上天皇のように、権力を奮おうとするわけではなく、表には出なくなったというところが、設問Aの解答になる「太上天皇の政治的立場」だと言えましょう。大雑把に言えば「権力を握った→権力を手放した」という方針です。
「嵯峨太上天皇」ではなく「嵯峨上皇」
さて、補足をすると、嵯峨天皇は譲位したあと「嵯峨太上天皇」ではなく「嵯峨上皇」になりました。
「太上天皇だなんて、そんな偉そうな位をもらったら、自分のところに権力が来ちゃたら困る」と言ったら、淳和天皇から「それではこちらが困ります。ならば「上皇」でどうですか?」となり、嵯峨上皇が誕生したそうです。ここでポイントなのは、淳和天皇から上皇を与えられたということです。あくまで、上皇が天皇から尊号をもらっている形式なのです。ここから天皇が権力をもっている、太上天皇(上皇)は権力を持っていない、という方向に定着していきます。
しかし、いくら譲位して引退したとはいえ、嵯峨上皇が影響力を消せるわけではありません。法体系の上での権力者は現役の天皇ですが、実際の権力者は嵯峨上皇のような形になってしまいます。のちの院政の原型のような状態ですね。例えるなら、高3が引退して部活のキャプテンは高2になったけど、実際には高3の方が意見が強いし人望もあるからみんな高3を頼る、みたいな状態です。それまでの事績や人望から、何かあれば嵯峨上皇の元へ相談があがり、嵯峨上皇の介入で丸く収まる、ということがあったようです。
こうしたことを踏まえて、答案に「政治へ介入しなくなった」と書くより「直接、政治へ介入しなくなった」などと書くのはベターかなと思うのですが、いかがでしょうか?
答案例
太上天皇は天皇と同等以上の権力を奮い国政に関与したが、9世紀前半以降は直接政治に関与しない存在となった。
設問Bの解説
では、設問Bに行きましょう。
資料を(1)から(4)までおさらいしながら、必要な部分に解説を加えていきます。
資料(2)(3)
天皇と官人の関係に触れる資料ではないですね。
資料(1)
大宝令(701~)についてなので、9世紀前半以前の内容と捉えてよいでしょう。
律令制度が出来てそれまでの位階や官職の仕組みが整えられたということです。しかしその仕組みは、5位以上の官人が特権的な待遇を受け、その多くは古くから天皇に奉仕してきた畿内の有力氏族。つまり、中身はあまり変わってないということです。
今回の問題は「天皇に近い有力氏族が官人になった」と理解できればそれで良いと思いますが、もう少し突っ込んでみましょう。
この資料文からは「せっかく新しい体制になったのに、結局昔と同じ人が特権階級のままじゃないか!意味ないだろ」という印象を受けるかもしれませんね。まあそれはその通りなんですが、逆に今までの功労者を全部切り捨てて、実力主義で新しい人を採用するというのも中々危険です。先ほど、平城太上天皇の変を扱いましたが、元々もっていた権力を手放させるというのは、恨みを買います。それが多くの人の命を奪うことにもつながりかねません。また、政治運営ができる能力は誰にでも備わっているわけではありません。そこで、元々官僚のように仕事をしていた人に、そのまま新体制の時にも活躍してもらう方が良い面もあるのです。明治維新後も維新の功労者が政治の中枢にいましたね。
しかし、いつまでも特定の一族に権力を握らせているのが良いと言っているわけではありません。そこで、見てほしいのが資料文(4)です。
資料(4)
平安京に遷都すると、官司の統廃合が積極的におこなわれたとあります。
ではどう変更になったかというと「学問を奨励して、優秀な者は家柄によらず中央や地方の要職に採用する」とあります。つまり実力でポジションが獲得できるようになります。資料文にもわざわざ「家柄によらず」と書いていますから、変化が分かりやすいですね。
ただここで気を付けてほしいのは、単なる実力主義ではないということです。桓武天皇や嵯峨天皇の時期には令外官の設置がありました。特に嵯峨天皇は自分の側近として藤原冬嗣をを任命するなど、優秀な人を要職に就けています。こうして天皇の命令が即座にスムーズに現場に伝わるようになり、現実に即した政治が行われるようになるのですが、同時に天皇権力も高まります。設問Aでは、嵯峨天皇は権力を手放したと説明しましたが、それは上皇になったからであって、天皇権力事態を高めたのも、また嵯峨天皇だったのです。
ここでは「天皇と官人との関係の変化」を答えるので、「天皇の個人的な信任によって学問に秀でた貴族が中枢の官人として登用された」などと理解すれば良いでしょう。ココが難しいですね。
資料(5)
最後に資料(5)ですが、いわゆる唐風化政策について書かれています。
平安宮の門が唐風で呼ばれるようになったとか、唐の儀礼を参考に朝廷の儀礼を整えたとか、天皇に対する拝礼の作法が中国風になったとか。色々なものが唐風になります。なお余談ですが、嵯峨天皇は唐風文化を取り入れた最後の天皇だそうです。
さて、これだけでは、設問Aの「太上天皇の政治的立場」にも、設問Bの「天皇と官人の関係」にも関係ない資料のように思えてしまうかもしれません。
ところがどっこい、唐風化は官人の立場に大きな影響を及ぼします。というのも、様々な部分を唐風化することで、それまでの雰囲気を一新し、新しい貴族社会を作ることにつながるからです。古くから続く氏族が特権を握るという枠組みを取っ払い、新しい貴族社会にする気風が感じ取れます。
儀式の作法が唐風になれば、官人たちもその作法にならって儀式を行わなければなりません。そしてその儀式の儀礼が『内裏式』そして編纂され統一かが図られます。
また漢詩文を作ることが奨励されたのですが、これにより貴族たちが漢字文化に習熟し漢文を使いこなすようになります。また大学での学問が重視され、儒教を学ぶ明経道や、中国の歴史や文学を学ぶ紀伝道(文章道)が盛んになります。特に貴族は自分の一族の子弟を教育するために大学別曹という寄宿舎を設け一族の繁栄に勤しみます。
このように、唐風化政策は官僚制度を一新して充実させるための仕掛けの一部でもあったのです。
答案例
奈良時代までは、畿内の有力氏族が上級官人に就き、天皇に奉仕する関係が継続して採用された。9世紀前半以降は唐風化政策の下で従来の貴族社会が刷新され、学問や文学に秀でた人物が天皇の個人的な信任により上級官人に登用されるようになった。
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