2015年東大日本史(第2問)入試問題の解答(答案例)と解説

設問の分析

設問A

御家人の所領が(1)のように分布することになったのはなぜか。鎌倉幕府の成立・発展期の具体的なできごとに触れながら2行以内で述べなさい。

まず(1)のような分布というのを確認します。
資料文中には陸奥国、河内国、紀伊国、肥前国といった地域が見られます。
このことから相模国の三浦半島を本拠にする東国御家人であるはずの三浦氏が東北や西日本といった遠隔地の所領を有している、ということがわかります。

もちろんこれは考えたら違和感のあることです。そして当然彼ら御家人も全てを自らの一族で管理してたかというと、必ずしもそうではありません。やはり不都合が出てくると思いませんか。そのことも各資料文には記されており、後ほど出てきます。

ではなぜこのように飛び飛びの地域を所有していたのでしょうか。それはもちろん鎌倉幕府の封建制度が理由です。
御家人が所領を増やしていく過程にあるのは、新恩給与です。鎌倉幕府は戦いに参加した御家人たちに対しての恩賞として敗戦の相手方から没収した土地を与えていたわけです。それゆえに地縁的に関連のない色々な土地も当人の所領となったわけですね。

さてここで「鎌倉幕府の成立・発展期」といった時期設定に注目します。この時期の鎌倉幕府の所領拡大というと、パッと浮かぶのは治承・寿永の乱による平家没官領や奥州平定による奥州藤原氏の所領や承久の乱により上皇方から没収した所領の新恩給与が想起されます。

ここで一つ疑問なのが、平家没官領を答案に盛り込むかどうかについてです。睦国名取郡が奥州平定の際に獲得した所領であることは明らかですが、河内国・紀伊国・肥前国に関しては、これらが承久の乱にて後鳥羽上皇方から得た所領のみであるのか、そのなかに平家没官領が含まれているのかがはっきりとはわからないわけです。

まず前提の所見としては(1)の資料文にある三浦氏の所領には平家没官領が含まれていないと考えます。ここで検討すべき点は、「御家人の所領の(1)のような分布」の扱いについてです。これが 具体例として三浦氏の所領が各所にある理由と読み解くのか、単に一般論として御家人の所領が点在している理由と読み解くのかということの判断になるため、「成立・発展期」と添え書かれていることからも、後者と判断して平家没官領を含めた方が良い。という判断を基本線とします。

ただし、東大の論述(相対評価)の採点方針に関しては、他の解答者の一般的な正解答案から逸れる(変に目立つ)と減点要素となるケースが多いと考えられ、それに加えて平家没官領を書くことで特別な加点がハッキリと見込めるかが怪しいと思われます。文字数の都合も考えると、書かないと判断することも決して否定は出来ません。

このことを踏まえた上で答案を作成していくわけですが、解答の方針は「御家人の所領が点在しているのは〜→〜の際に獲得した所領を幕府が戦功に対して新恩給与をした。」の答案骨格の中で、”点在”の因果ををきちんと示せるような展開にしていきましょう。具体的には、ただ獲得したということを書き示すより、離れた地で戦乱が行われ、その都度所領を得た、ということを含みたいところです。

設問B

(1)のような構成の所領を御家人たちはどういった方法で経営したか。また、それがその後の御家人の所領にどのような影響をあたえたか。4行以内で述べなさい。

先ほどの設問でも触れたように、現実的に考えて、所領が点在しているために自分自身で全てを管轄するのはもちろんのこと、一族を起用して管理することも難しいケースがあるというわけです。

それでは、どのように経営をしたのか。第三者を起用する場合にはどのように行っていたか。これを資料文から抜粋していきましょう。
そしてまた、その後の時代で御家人にどのような影響を与えたかにも論じます。教科書ベースの知識でいえば、「一族の惣領と庶子での分割相続→所領の細分化→御家人の困窮→所領の質入れ、売却→永仁の徳政令→さらに御家人が困窮するようになる→幕府の崩壊」というようなものです。この解答の骨格をベースに答案を形成していきます。どの要素を拾うかを資料文を読みながら考察していきましょう。

資料文の分析

資料文(1)

(1)相模国三浦半島を本拠とした御家人三浦氏は、13世紀半ばまでには、陸奥国名取郡・好島西荘、河内国東条中村、紀伊国石手荘・弘田荘、肥前国神埼荘など全国各地に所領を有するようになっていた。

これについては設問の解説で述べたとおりです。

資料文(2)

1223年、御家人大友能直は、相模・豊後国内の所領を子供たちに譲った際、幕府への奉公は惣領の指示に従うことを義務づけていた。しかし、のちに庶子のなかには直接に幕府へ奉公しようとする者もあらわれ、惣領との間で紛争が起こった。

鎌倉時代の惣領制について軽くおさらいします。将軍(鎌倉殿)と御恩と奉公の封建制度によって繋がっているのが惣領です。その惣領をトップとして本家の庶子らや分家の庶子らなどの一族で団結する体制でした。
そして大友能直は相模国の出身なわけです。豊後国は大分にあるわけなので地理的にかなり離れていますね。
幕府への奉公は先述の体制のなかでトップである惣領の指示に従うようにありますが、庶子の独立の動きが強まっていたことがわかりますね。その大きな原因は分割相続にあります。代が進むほど所領が細分化され、相続する土地が無くなってきたため、惣領制の解体が始まり、嫡子単独相続へと転換していきます。さらに惣領側が庶子の支配する土地を没収するようになってきたことで庶子側の不満は高まります。そして対立していくわけです。それならば、ということで鎌倉幕府に直接奉公する庶子も現れるわけです。これが庶子の独立です。

資料文(3)

(3)1239年の鎌倉幕府の法令からは、金融業を営む者が各地の御家人の所領において代官として起用され、年貢の徴収などにあたっていたことがうかがわれる。

一族で経営をする中で、各地に多く散財する所領を経営し年貢徴収を円滑に行うために、庶子が赴任することなく会計財政に明るい借上を代官として起用するケースがあったわけです。御家人は借上との金融的な付き合いがあったわけなのでそこから上がった年貢を借金の返済に充てたケースもあります。

資料文(4)

1297年、鎌倉幕府は、御家人が所領を質入れ・売却することを禁じ、すでに質入れ・売却されてきた所領は取り戻すように命じた。ただし、翌年にはこの禁止令は解除された。

永仁の徳政令についての記載ですね。
なぜ永仁の徳政令が発布されたのでしょうか。もちろん御家人の困窮です。御家人の困窮の理由は、分割相続による所領の細分化と貨幣経済の浸透と元寇が防戦であったことによる恩賞不足(封建制度が揺らいだ)などが挙げられます。これらは東京大学でも頻出のテーマですね。

では次にそもそもの永仁の徳政令の内容について確認しましょう。
一つ目は、資料文にもあるとおり、御家人の所領の質入れと売却の禁止です。
二つ目は、御家人が御家人に売却した土地は20年以内のものである場合返却することです。(当時の武家社会で通用していた二十箇年年紀法に基づく)
三つ目は、御家人が非御家人(借上などの金融業など)に売却した場合はいかなる場合でも返却することです。
四つ目は、金銭の貸借に伴う訴訟の棄却と越訴の禁止です。
ですがもちろんご存知の通り、これ以降御家人が金融業から借りることができなくなってしまい却って困窮することになったため、解除されたわけです。

答案例

設問A

幕府が平家没官領や奥州平定で得た東北の所領や承久の乱で得た上皇方の畿内や西国の所領を各戦乱の恩賞として新恩給与したため。

設問B

御家人は各地に点在する所領を一族で分割相続していた。その際、年貢の徴収や経営を円滑に行うため借上を代官として派遣する場合もあった。その後、分割相続が進み所領が細分化して困窮するようになると庶子の惣領からの独立や所領の質入れや売却を招いた。

まとめ

Aの平家没官領の件が良い例ですが、どうすべきか迷うことはあると思います。
ですが各々が設問文に対して適切な国語的な読解に則って解答を作れば、不正解と断定されることはないはずです。よって自分の決断に自信を持つとともに設問文に対しての現代文のようなアプローチが大事なわけです。

Bでは武士の困窮というテーマで永仁の徳政令の資料文があることから、元寇の防戦や貨幣経済の浸透なども書きたくなるわけですが、やはり文字数が足りません。いい行数設定にしていると思います。「設問文には所領の経営方法を問うたうえで、またそれが所領にどのような影響を与えたか。」という聞かれ方であるために「所領の経営と所領がどうなっていったか」にフォーカスして答案の軸を作ることが大切です。

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