2015年東大日本史(第4問)入試問題の解答(答案例)と解説

都市化×マスメディアが日本の政治と社会運動をどう作り替えたか

今回は2015年第4問、テーマは「都市化×マスメディア=大衆化」です。
第一次世界大戦を契機として、戦時景気で都市に人と資本が集まり、新聞・雑誌・ラジオ(1925開始)などのマスメディアが情報を爆速で拡散できるようになり、日本社会は急速に「大衆化」への道を歩み始めました。農村から都市へ人々が流入したことで、労働者・中間層・女性など、従来政治に参加しえなかった層が社会の表舞台へ登場します。同時にもたらされる生活の変化はやがて政治的要求を伴うようになり、「民衆の声が政治を動かす」時代が訪れたのです。以下では、設問Aでは政治制度の変化、設問Bでは国際的潮流と連動した社会運動の広がりを見ていきます。

【設問要求の確認】

設問A:社会の大衆化と政党政治の進展
設問要求では、「社会の変化が政治の仕組みをどのように変えていったか、大正時代の終わりまでについて述べなさい」とあります。大正時代における社会の変化・大衆化と藩閥政治から政党政治への転換についてが盛り込まれていればよさそうです。この質問に対して、資料文の内容を受け入れるための下準備をしておきましょう。
大正期の変化は、まさに「民意の政治化」という流れによって推し進められました。第一次世界大戦末期、1918(大正7)年の米騒動はその象徴です。全国各地で米価高騰に抗議する民衆暴動が起こり、政府は強い社会的圧力を受けました。この事件は、従来の藩閥政治では国民の声に応えられない現実を浮き彫りにし、政党政治への転換を促しました。

その結果として誕生したのが、同年の原敬内閣です。原は立憲政友会を基盤とする「本格的政党内閣」を組織し、議会を通じた政治運営を実現しました。これは、政党が国民の代表として政策を担うという点で、大日本帝国憲法体制下における画期的な転換でした。
しかし、政党政治は必ずしも安定したわけではありません。財閥や官僚勢力との対立、政友会と憲政会との党争などが続き、1922年の原の暗殺以後、再び非政党内閣の台頭や、1924年の第二次護憲運動による閉塞の打破という乱高下がありました。さらに1925年には、ついに普通選挙法が制定され、25歳以上の全ての男子に選挙権が与えられます。これにより、政治参加の裾野は大きく広がり、名実ともに「大衆政治の時代」へと突入しました。つまり、米騒動から普通選挙法に至るまでの過程は、社会の大衆化が政党政治を押し上げ、政治制度の民主化を促した流れとして理解できます。

設問B:国際的性格をもった社会運動の展開と国家の対応
設問要求では、社会の変化が、国際的な性格を持った社会運動を生んだ、その内容とこの動きに対する当時の政権の政策について説明しなさいとあります。大正時代における社会の変化・大衆化についてと、労働運動と女性運動に対しての政府のアメとムチが盛り込まれていればよさそうです。この質問に対して、資料文の内容を受け入れるための下準備をしておきましょう。
社会の大衆化は国内の政治制度だけでなく、国際的な思想や運動とも結びついていきました。その中心をなしたのが労働運動と女性運動です。

第一次世界大戦後、ヨーロッパ各国では労働者が社会的権利を主張し、国際労働運動が高揚します。1917年のロシア革命や1920年に結成されたコミンテルンは、世界的な社会主義運動の拡大に拍車をかけました。この潮流は日本にも波及し、1920年の第1回メーデー開催を契機に、労働組合が各地で結成されます。労働者は賃金引き上げや労働条件の改善を求めてストライキを行い、国際的な階級意識を共有するようになりました。
また、もう一つの大きな潮流が女性運動です。1920年に新婦人協会が設立され、平塚らいてうや市川房枝らが女性の参政権や職業上の平等を訴えました。彼女たちの運動も欧米の影響を強く受けたものであり、日本社会における性の平等の意識を広める契機となりました。

しかし、こうした国際的性格をもつ社会運動に対して、政府は一貫して「部分的容認」と「強い抑圧」を併用しました。労働条件を改善するため工場法の施行を進め、普通選挙法で一定の民主的制度改革を行った一方で、社会主義思想や労働運動の広がりを危険視し、治安警察法による集会・結社の規制を強化、1925年には治安維持法の制定で思想・結社の統制を徹底します。さらにこの時期、特別高等警察(特高)が設置され、思想弾圧体制が確立されました。
つまり、社会運動が国際的連帯を背景に広がるほど、国家は秩序維持を名目に統制を強めるという、二面性をもった対応をとったのです。

(1)社会の大衆化

まずは両方の答案に必要な起点となる社会の変化についてみてみましょう。
第一次世界大戦のころ、日本社会では都市化が急速に進みました。戦時景気によって重化学工業や輸出産業が発展し、それに伴って労働力と資本が都市に集まったのです。しかし、ここで大切なのは「都市化=人口の集中」だけではありません。人々の生活のフォーマットそのものが変わったことで、政治参加の条件が整っていったという点です。

・生活の変化

まず空間の面では、鉄道網の拡充や電車通勤の普及によって、都市内のさまざまな地域が生活動線で結ばれるようになりました。通勤のために同じ路線を行き来する人々が増え、駅前や公園、広場といった「人が集まる場」が生まれました。こうした空間は自然と、演説や集会、デモの舞台として機能していくようになります。
さらに時間のあり方も変わりました。工場労働や事務職の拡大によって「始業」「終業」「週末」といった定時のリズムといった、近代的な、定量的にとらえる時間の枠組みが社会全体に共有され、同じ時間帯に人々が活動できるようになります。これによって集会を開くにも人を集めやすくなり、社会運動の広がりを後押ししました。
お金の流れも定期化します。月給や週給といった形で現金給与が一般化し、人々は余裕をもって新聞や雑誌を定期購読したり、組合費を払ったりできるようになりました。情報を得て意見を持ち、さらに行動に移す経済的基盤が整っていったのです。
住まいの面では、近代的な集合住宅が広がりました。そしてそこで掲示板や張り紙、回覧板などを通じて情報が上下にも横にも素早く伝わるようになり、人々のつながりがこれまでよりも密になりました。このように「集まる場所」「共通の時間感覚」「支払えるお金」という三つの条件がそろったことで、都市の人々は政治や社会への参加を現実のものとしていったのです。

・メディアの急成長

さらに、この時期に急成長したマスメディアも世論の形成に大きく関わります。新聞や総合雑誌が発行部数を伸ばし、読者が意見をもち、それが投書などを通じて紙面に反映されるようになったのです。当時の主流メディアは出版物です。当時の出版物は主に4つですね。
1つ目はこの設問にも大きく関わる「中央公論」です。東大教授の吉野作造がデモクラシーを民本主義と翻訳したことなどで有名です。絶妙な翻訳技術ですよね。
2つ目は設問Bに関わる「改造」です。社会主義者の活躍の場です。円本のはしりとしても有名ですね。
3つ目は講談社の「キング」です。(1925年創刊)大衆雑誌として登場し、幅広い層を読者に取り込みました。これらの媒体は政治や社会の話題をわかりやすく伝え、人々の関心を公共的な方向へと導いていきます。
4つ目はプロレタリア文学の諸々で、大戦景気によるサラリーマン増加の後、戦後恐慌で苦しむことからも理解できます。これら4冊は大正デモクラシーでの社会運動と連動しています。
また1925年にはラジオ放送が始まり、全国の人々が同じ時刻に同じ情報を聞くという新しい経験を共有しました。この「同時性」は、社会に共通の話題を生み出し、世論を育てる強い力となりました。

・海外からの思想流入

これらに加えて、海外からの思想や理念の流入も日本社会を揺り動かしました。留学や翻訳、国際会議の報道を通じて、自由主義・民本主義・社会主義・女性解放・平和主義といった新しい考え方が紹介されます。たとえば吉野作造の民本主義は、「政治の運用は民に本づくべし」として、政党内閣の実現や議会中心の政治、民意尊重の重要性を訴えました。社会主義や労働法思想の流入は「労働時間の短縮」「最低賃金の保障」「団結権の確立」などの要求を形にする助けとなり、労働運動の理念的支柱を作りました。さらに女性解放や平和主義の運動も、参政権要求や、軍縮をめぐる国際運動と連動しながら、日本の社会改革を促していったのです。こうして「海外の思想が翻訳され、それが運動や要求へと結実していく」という連鎖が生まれました。

・大衆の誕生

こうした流れのなかで、「大衆」と呼ばれる新しい社会主体が誕生します。情報にアクセスして意見を持つ「読者」、広告や商品を通じて社会の理想像を内面化する「消費者」、職場で団結して行動する「労働者」、そして選挙で意思を表明する「有権者」。これらが重なり合うことで、人々は国家や社会を構成する能動的な存在へと変わっていきました。

この変化を1914年から1925年までの年表でたどると、その「動き」がより分かりやすいものになります。

● 1914–18:第一次世界大戦(戦時景気)。都市への人口・資本集中、産業構造の重化学化。

● 1918:米騒動 -民衆の同時行動が政局を動かす力に。

● 1919:国際連盟・ILO発足(国際規範が国内議論の物差しに)。

● 1920:第1回メーデー、新婦人協会(女性の政治的権利要求を組織化)。

● 1923:関東大震災(都市改造・再編、秩序言説の強化の契機)。

● 1924:第二次護憲運動→護憲三派内閣(議院内閣制の定着)。

● 1925:ラジオ放送開始/普通選挙法/治安維持法(拡大と統制が同時に進む節目の年)。

こうして1910年代後半から1920年代半ばにかけての日本は、都市化・マスメディア・海外思想の流入を背景に、「大衆」が政治と社会に関わる新しい時代へと歩み出していったのでした。

(2)設問A「政治の仕組みはどう変わったかについて」

(1)で見たように、都市化×メディア×海外思潮は、社会変化を生み、世論が「同時性」を伴って形成され始めました。この世論の圧力が、いよいよ政局そのものを下から動かし始めます。それが設問Aの後半部につながります。

設問要求のパートで軽く触れたとおり、まず第一次世界大戦以後の社会主義の動きといえば当然ロシア革命です。設問Bの要素にもなりますが、Aもここから理解したいと思います。ロシアも第一次世界大戦に参戦していましたが敗戦が続き、苦しい生活を送る国民の不満は高まっていたため戦争を続ける政府や、専制政治を行う皇帝に対し、レーニンの導きでロシア国民が革命を起こし社会主義政府 を樹立したというわけです。

大衆が政治に影響を与えた米騒動

これを受けてシベリア出兵が行われます。日本史の用語では「シベリア出兵」と習うため、単に兵隊を派遣しただけのような印象を受けますが、実態は「ロシア革命干渉戦争」とでもいうべきものです。ロシア革命が世界中に広がると、とんでもない混乱につながると予想されたため、アメリカやイギリスなどと共にシベリアまで出兵をしたのです。しかしながら、失敗に終わります。

これにより社会主義の進出を阻むことができなくなり、日本にも社会主義が本格的に流入して来ることになります。例えば、1922年にはコミンテルンの日本支部として日本共産党が結党されることとなりました。

そのシベリア出兵で米の需要が高まることを見込み買い占めが行われたため、米価の急騰を招き、引き起こされたのが1918年の米騒動です。米騒動は、日本の近代政治においてのひとつの転機となりました。第一次世界大戦期の戦時景気によって物価が高騰し、とりわけ米価の上昇が庶民の生活を直撃します。暮らしを支える主婦たちの抗議は、瞬く間に全国へと広がります。背景には「戦時物価高」への怒りがあり、当時の新聞報道などマスメディアの発達がさらにこの運動を同時的に全国へと拡散させました。最終的にこの一連の米騒動は、寺内正毅内閣を総辞職へ追い込みます。

ここで初めて、庶民の一斉行動が政局を動かすほどの力を持つことが可視化されたのです。まさに「メディアによる社会の同時化に支えられた民衆の一斉行動」が、政治に直接的な影響を及ぼすことが明らかになった瞬間でした。米騒動は、大衆が政治の舞台に登場する“デビュー戦”だったといえるでしょう。なんだか現代のSNSと政治の関係について意識されている気がして来ます。

徐々に進む政党政治への道

この動きの延長線上に登場するのが、同じ1918年に成立した原敬内閣です。彼は立憲政友会を率いて、日本初の「本格的政党内閣」を組織しました。従来の藩閥・官僚・軍人による支配から、議会の多数党が政権を担うという新しい政治運営の形がここで定着し始めます。閣僚には党人を積極的に登用し、政党が政策に対して直接責任を負う仕組みが整えられました。また、政権を維持するためには衆議院での多数派確保が不可欠となり、「議会中心の政治」への転換が進みます。これにより、選挙の結果がそのまま政権の命運を左右するようになりました。民意が政治の中枢と直接つながったのです。

やがて1924年には、政治構造をさらに前進させる出来事が起こります。清浦奎吾が政党を背景としない超然内閣を組織したことに反発し、憲政擁護を掲げる「第二次護憲運動」が全国的に広がりました。この運動を通じて、憲政会・政友会・革新倶楽部の三派が連携し、加藤高明を首班とする護憲三派内閣が成立します。これにより、「衆議院の多数党または多数連立から首相を出す」という原則、すなわち「憲政の常道」が始まりました。この理念は、議院内閣制的な運用を社会の“常識”として定着させ、大衆化の進展が政治制度の根幹を変えることを示しました。もはや「大衆化→議会多数→政権」という流れが、現代にも続く政治の自然なルールとなったのです。

そして1925年には、「選挙の大衆化」を象徴する普通選挙法が制定されます。この法律によって、満25歳以上の男子すべてに選挙権が与えられ、納税資格が撤廃されました。結果として、有権者数は従来の約3倍に膨れ上がり、都市のサラリーマンや労働者といった新しい層が政治参加の主役となります。これにより、政治家の政策も「教育」「社会福祉」「都市インフラ整備」といった庶民生活に密着した内容へと変化しました。また、選挙戦術も進化します。街頭演説や後援会の整備、機関紙の発行、広告宣伝の活用といった手法が一般化し、新聞や雑誌、そしてのちに登場するラジオ放送と相互作用しながら、選挙は全国的な一大イベントへと変貌していきます。(1)で触れた「同時性と反復性」をもつメディアの力が、ここでも再び政治を動かしました。人々が同じ情報を共有し、同じ時間に同じ選択を行うという構図のなかで、「選挙にも世論が大きくかかわる」という新しい現実が成立したのです。

(補足)ここまで気が回るとよい、民主化の限界

こうした民主化の歩みには限界もありました。障壁が内在していたのは、当時の政治機構です。近年、通称「知の巨人」と呼ばれるユヴァル・ノア・ハラリが書籍で論じたように、官僚制や政治機構の仕組みは我々にはわかりにくいものです。ですが、東京大学の文系学生には通暁が求められることは言うまでもありません。

当時は、貴族院という非選挙的な上院が依然として強い拒否権的役割を持ち、また元老による首相推薦や枢密院の審査など、議会外の伝統的要素も残存していました。加えて、憲法上の主権は依然として天皇にあり、内閣は「輔弼の責任」を負うという前近代的な枠組みも維持されています。つまり、「普通選挙が完全な民主化」とは言い切れません。同年に制定された治安維持法が象徴するように、民衆参加の拡大と同時に統制の強化も進んでいました。1925年はまさに“アメとムチ”の年であり、自由と抑制が並走する複雑な時代の節目だったのです。

(3)設問B「国際的性格をもつ社会運動と政府の対応について」

(2)で、世論が政権の担い手と選挙制度を動かしたことを見ました。
同じ大衆化のエネルギーが今度は社会運動を作ります。これが設問Bの後半部となります。では見ていきましょう。

(1)で見た「大衆化」による情報の同時化と参加意識の高まりは、やがて国境を越えた「国際性」と結びついていきます。この時期の日本では、三つの経路から国際的な影響が流れ込みました。

まず①は「国際規範の流入」です。1919年に発足した国際連盟やILO(国際労働機関)は、労働条件や人権に関する世界基準を示しました。「一日八時間労働」や「最低賃金の保障」といった概念は、このILOの原則が国内に取り入れられた例です。つまり、世界で認められた基準が、国内の運動を正当化する根拠として働くようになったのです。

②は「国際ネットワークとの接続」です。(2)で触れた1917年のロシア革命をきっかけに、世界各地で社会主義や共産主義の思想が広がり、1919年にはコミンテルンが誕生しました。その影響を受けて、日本でも1922年に日本共産党が非合法の形で結成されます。同時に、欧米で進む女性参政権運動の報道を通じて、日本の女性たちも国際的な潮流に呼応するように政治的権利を求め始めました。

③は「国際的運動との同期」です。5月1日の「メーデー」は、世界中で同じ日・同じスローガンのもとに労働者が行進する国際儀礼です。日本でも1920年に上野で初めて開催され、「八時間労働」「最低賃金」「団結権」を掲げる集会が開かれました。このように、都市空間でのデモやプラカードが視覚的なメッセージとなり、人々の共感を広げる装置として機能していったのです。

次は、労働運動と女性運動を見ていきます。

A)労働運動

労働運動は、まさに国際規範の影響を最も強く受けた分野でした。1912年に鈴木文治が創設した友愛会は、1921年に日本労働総同盟へと発展し、職場単位での団体交渉や調停、争議といった行動が一般化します。1920年前後には、反動不況による賃下げ・解雇を背景に労働争議が全国的に多発し、1921年をピークに社会の注目を集めました。都市に張り巡らされた新聞・雑誌といったメディアが、争議の状況を広く報じることで、労働者の要求は「個別の不満」から「社会的な動き」へと転化していったのです。

B)女性運動

女性たちの政治参加を求める声も、国際的な流れとともに高まります。1920年に平塚らいてうと市川房枝が中心となって設立した新婦人協会は、婦人の政治的権利の拡大を訴えました。その成果の一つが、1922年の治安警察法第5条の一部改正です。これにより、女性が政治集会に参加することを禁止していた規定が緩和され、部分的ながら公の場で意見を表明できるようになりました。欧米の女性参政権獲得の報道は、こうした運動の正当性を支える「世界の後ろ盾」として作用しました。講演会や署名運動が各地で開かれ、女性の社会進出の扉が少しずつ開かれていったのです。

政府の対応:受容と統制の同時進行

これらの社会運動に対して、政府は「受け入れる政策」と「抑え込む政策」を同時に進めました。先述の“アメとムチ”の二面作戦です。

受容と制度化(アメ)としては、まず1925年の普通選挙法によって男子普通選挙が実現し、政治参加の枠が大幅に拡大しました。さらに、工場法(1911制定・1916施行)の運用改善や1926年の労働争議調停法などが整備され、労働者保護の枠組みが強化されます。女性の政治集会参加の制限緩和(1922年)も、国際的な女性運動に配慮した段階的対応といえます。

一方で、抑圧と統制(ムチ)の側面も見逃せません。1925年に制定された治安維持法は、「国体変革」や「私有財産制度否認」といった思想そのものを処罰の対象としました。1928年には特別高等警察(特高)が設置され、共産主義者や社会主義者への監視・検挙が本格化します。三・一五事件や四・一六事件では共産党関係者が一斉に逮捕され、思想統制の時代が始まりました。出版物の検閲や販売差止、集会の解散命令など、日常的な統制が社会の隅々にまで及びます。そして同年、ついには治安維持法改正による死刑追加と、制度は次第に統制色を強めていきます。

こうして見ると、1919年から1928年にかけての日本は、国際的な思想や制度を積極的に取り入れながらも、その拡張を同時に管理・制限しようとする「二重構造」のなかにありました。労働・女性・平和の運動はいずれも世界とつながり、社会の新しい主体を育てました。しかし同時に、国家はその力を恐れ、法と警察によって統制を強めていったのです。

言い換えれば、大正デモクラシーの成熟期とは、「国際化した大衆」が登場し、「民主化」と「統制」がせめぎ合う時代だったと言えるでしょう。最後に、また年表によって理解のシンプル化をしておきます。
※1919〜1928の動き
● 1919:国際連盟・ILO 発足(国際規範の流入)

● 1920:第1回メーデー/新婦人協会(国際的運動が可視化)

● 1922:治安警察法第5条の一部改正(女性の政治集会参加の制限を緩和)/日本共産党結成(非合法)

● 1924:護憲三派内閣(議院内閣制的運用の定着=政治に運動の“受け皿”が)

● 1925:普通選挙法/治安維持法/ラジオ放送開始

● 1926:労働争議調停法

● 1928:三・一五事件→大検挙/治安維持法改正、死刑追加(統制の加速)

以上を踏まえ、答案を作ってみます。

【答案例】

設問A(政治の仕組み)
都市化とメディアの発達で大衆が同時性をもって情報を得るようになったことで、大衆の世論形成を促し、米騒動による原敬内閣成立を皮切りに第二次護憲運動の発展、普通選挙法による有権者増加で藩閥・軍部主導から政党と選挙を軸にする政治へと転換した。

設問B(国際的社会運動と政策)
大衆化の最中、ILOの国際規範や共産主義、国際女性運動、メーデー等の国際的な思想・運動が国内に流入し、労働者や女性の権利の運動、反戦的な運動が展開した。政府は普通選挙法や労働争議調停法などで一部受容しつつも治安維持法・特高などで抑圧した。

 

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