2025年東大日本史(第4問)入試問題の解答(答案例)と解説
東京大学の日本史の設問を「リード文」「設問」「資料文」それぞれで分析しています。
目次
リード文の分析
珍しくリード文に説明があります。
史料として登場する文章の紹介文ですね。年号を確認した上で同年代の別の事件などを思い出すかもしれないなと注意して、チェンバレンについて何か知っていれば思い出せばよいでしょう。ただし、結果論ではありますが、チェンバレンについて特に知っていなくても解けてしまうと思います。東大入試では、超メジャーな人物については知識が必要になるものの、チェンバレンくらいの知名度なら、ほぼ知識がなくても解けてしまうことが多いですね。
一方、「お雇い外国人」については事前の理解が必要ですね。
明治になって近代化をするにあたり、日本は西洋の文化を取り入れようとしたわけですが、その時に「先生」として読んだ西洋人のことです。今回で言えば、唱歌の教育を根ざしていくにあたり、日本に西洋の唱歌の教育を教えてくれる外国人としてチェンバレンを雇ったわけです。
設問文の分析
設問A
メインの問いが、(1)に書いてある通り、当時の学校教育で唱歌を当面実施しないとされたのはなぜか。
サブとして、史料にあるチェンバレンの見解に留意するという条件が加わっています。
オマケ:資料と史料
今回「資料」として(1)~(4)が与えてありますが、「史料」も提示されています。漢字の違う「しりょう」が2種類あるわけです。
区別するために、資料は「すけりょう」、史料は「ふみりょう」と(慣習として)呼び分けることがあります。私立を「わたくしりつ」と意図的に読むのと同じですね。
さて、「史料」は現物そのものだと思って下さい。今回はチェンバレンが書いた文章をそのまま載せています。だから史料です。
もし東大の先生がチェンバレンの記述に対して「これはこういう意味のものだ」など解説を加えた文章を書いたとしたら、史料ではなく「資料」になります。
今回登場する(1)~(4)は、東大の先生が入試問題を作成するにあたり書き下ろしたものなので、史料ではなく資料なのです。
使うのは史料の方
以上を踏まえ、改めて見てみると、メインの問いで指定されているのは資料の(1)、サブで条件に加わっているのは史料です。
かといって、資料(2)~(4)も使うかもしれないので目は通さないといけませんので、忘れずに。
設問B
『小学唱歌集』から『尋常小学唱歌』への内容の変化は、どのような事情により生じたか、という問題。
『小学唱歌集』や『尋常小学唱歌』は知っておかないといけない知識ではなく、資料(2)と(4)を見て理解すればよいと思います。
なにやら内容の変化があるそうなので、内容に特に注目して資料文を読みましょう。
では、史料や資料を確認します。
史料や資料の分析
史料(チェンバレンの『日本事物誌』)
初めて読んだときビックリしました。
この史料に書いてあることを要約すると、日本の唱歌はダメ、ヨーロッパの音楽を何もわかってない、遅れている、関心がないetc・・・
ものすごくバカにされていますが、当時の国際的な価値観はこんなものなのでしょうね。差別はダメみたいな価値観が定着するのは、チェンバレンの時代よりかなり先のことです。
設問Aで使うことを想定すると、問われているのは「当時の学校教育において唱歌を当面実施しないとされた理由」ですから、日本の唱歌は未発達とか、ヨーロッパの音楽理論を踏まえていないとかそういうことになりそうです。
史料に書かれているように、「旋法をわきまえていない」とか「長旋法と短旋法の効果が欠けている」などのように具体的なダメなポイントを答案に書いても良いでしょう。(字数はかなり厳しいですが)
資料(1)
ほぼ設問文Aと同じことが書いてあります。
追加の情報としては「1872年に学制が定められた。」ということですね。他は設問文で書かれていた通りです。
ということで、ここでは「学制」について思い出せばよいでしょう。
江戸時代では日本全体で統一的に教育するシステムはありませんでしたが、明治からは日本国民に同じ教育を受けさせることになります。こうして私たちが受けたような学校のシステムの基礎がつくられました。
1871年に文部省が設置されて、1872年には学制が発布されています。1871年とか1872年なので、明治の改革としてもかなり早い方です。
廃藩置県は1871年、陸軍省と海軍省は1872年、内務省は1873年です。教育は重要ですし、時間がかかるものなのでいち早く手を付けたのでしょうね。軍事の教育も時間がかかるそうなので早いのでしょう。
学制はフランスの学校制度にならって、統一的な教育を施せるようにしようとしました。山川出版の日本史探求の教科書では
政府は、国民自身が身を立て、智を開き、産をつくるための学問という功利主義的な教育観をとなえて、小学校教育の普及に力を入れ、男女に等しく学ばせる国民皆学教育の建設を目指した。
とあります。
この情報から、設問AとBに答える要素を探るのはかなり厳しいでしょう。資料(2)~(4)まで全て見ながら、連想してくことになると思います。
設問Aの答案について
設問Aの設問文には、史料と資料(1)が登場しています。通常の問題であれば、設問文に登場する資料名さえ見れば答えられることが多いです。
ということでこの段階で設問Aの答えを考えてみると、
史料に書かれていたように、日本人の音楽がヨーロッパ式ではないという要素が挙げられ、資料(1)からは核心を突くような要素は見つからないと思います。これだけで答案を作っても良いのですが、実は資料(2)~(4)まで読むことで、隠れた要素が連想できるようになります。設問文に登場する資料名だけではなく、他の資料まで目を通させる形式はやや珍しいと思いますが、こういうこともありますので気を付けましょう。
ということで、設問Aの答案を提示せず、資料(4)まで解説を続けます。
資料(2)
伊沢修二から始まる日本の音楽教育の歴史が書かれていますね。
設問Aについて
設問Aで問われている要素として取り出せそうなのは、「伊沢を指導したメーソンを招いて唱歌教育の整備を進めた」ということでしょうか。
資料(1)で登場した学制は1872年、伊沢が唱歌教育の整備を進めたのは(明確に書いてありませんが)1879年より後のことだと思われます。1879年になっても唱歌教育の「整備を進めた」に留まっているわけですから、学制を導入してから少なくとも7年は何もできていないのでしょう。
ということで設問Aで問われている、唱歌を実施しなかった理由としては「整備されていなかった」という要素が分かるわけですが、「整備って何?」となってしまいます。どのような点で未整備だったのかが不明瞭なので、もう少し具体的に指摘したいところです。
設問Bについて
一方、設問Bでは『小学唱歌集』から『尋常小学唱歌』への内容の変化を見るわけですが、変化前である『小学唱歌集』について説明がありますね。『小学唱歌集』に掲載された唱歌の過半数は西洋の歌を原曲とするものであった、とのことです。これをよく覚えておきながら、資料(3)以降も読み進めましょう。
資料(3)
資料(2)の続きの歴史が書かれています。
設問Aについて
ここで、設問Aに関わる要素を考えてみますが、注目すべきは「1887年に東京音楽学校が設立されたということ」です。東大の日本史では「へ~、学校ができたんだ」みたいに、書かれた情報を読み取るだけではいけません。書かれている情報から、書かれていない情報を読み取るのです。
日本で音楽教育をする学校ができたということは、日本人でも音楽を学ぶ土台ができて、音楽に長ける人材が輩出されるようになったということです。その証拠として、1901年には卒業生の滝廉太郎が「荒城の月」を発表したと書かれています。この段階に来て、やっと日本人が作曲するようになったわけです。
そういえば、資料(2)には『小学唱歌集』には西洋の歌を原曲とするものが過半数だと書かれていました。そこから日本にも音楽の学校ができて、日本人が校長に就任して、日本人の卒業生が作曲するようになったわけですから、日本に音楽教育がだんだん浸透しているのが分かりますね。先ほど「未整備」だけだと具体性がないと書きましたが、だんだん具体性を帯びてきました。
設問Bについて
資料(3)だけでは、要素は読み取れないと思います。
資料(4)
設問Aについて
この資料だけでは明確な要素は取り出せませんが、日本人によって作詞・作曲された唱歌のみが掲載されたという部分がやや大事です。日本人だけでここまでできるようになったんですね。
答えるべきは「唱歌を実施しない理由」ですが、資料(4)には「唱歌の教育が実施できそうな要素」が書かれていますから、裏返して使いましょう。
設問Bについて
『小学唱歌集』と『尋常小学唱歌』との違いを書いてくれています。最大の注目ポイントです。
内容としては、チェンバレンがダメ出しした音階や旋法の面では、どっちもあまり変わらない!!では何が変わったかというと、日本人によって作詞・作曲された唱歌「のみ」が掲載された点。資料(2)では『小学唱歌集』に掲載された唱歌は過半数が西洋の原曲だったと書かれていました。つまり、音楽性は同じだけど、作り手が西洋人から日本人に変わったということなのです。
答案を書く前に考えること
では、以上の内容を踏まえて、答案の構成を考えてみましょう。
設問Aについて
当時の学校教育において、唱歌教育が「未整備」だったことを資料(2)で確認しました。しかし「未整備だ」と書くだけでは、なにがどう整備されていないのか、その具体的な内容が分かりません。そこで各資料を踏まえて検討していきましょう。
まずチェンバレンの史料から、日本人が西洋式の音階や旋法に無知だったことが挙げられます。しかし、これだけでは学校で唱歌を実施しない理由としてはやや遠い。もう少し行間を埋めるような要素が欲しいです。
そこで、「学校教育を実施する」という点について、もう一歩踏み込んでみましょう。
資料(1)で「学制」について説明しましたが、これは「国民皆学」を目指すものです。つまり日本国民全員に教育を施すわけです。これを実施するために何が必要でしょうか。このヒントが資料(3)です。東京音楽学校が設立され、卒業生が作曲した。つまり、音楽を学んだ日本人が輩出される仕組みを「整備」したわけなのです。
余談になりますが、皆さんが住んでいる都道府県の(多分)全てに、国公立大学の教育学部があると思います。
日本の教育学部は、「教育学の研究」と同様に「学校の先生の育成」としての側面が強いです。経済学部に進学するとなると「経済を学びたいんだね」となると思います。しかし教育学部に進学するとなると、「教育学を学びたいんだね」とはなりづらいですよね。「先生になりたいんだね」となると思います。各都道府県に教育学部を設置して、その土地の学校の先生を育成し、学校教育を機能させようとしているのです。
話を戻して、日本に音楽学校が設置されたということは、音楽を発展させたいだけではなく、音楽の先生候補を育てることにもつながるのです。国民皆学を目指すなら、国民を指導する先生もたくさん必要です。つまり十分な先生の数が「未整備」だったとも考えられるのです。
設問Bについて
資料(4)に強いヒントが書かれていましたね。音楽性は同じだけど、作り手が西洋人から日本人に変わったということでした。
答えるべき点はこの変化が「どのような事情により生じたのか」というもの。つまり「作り手を日本人に変えた事情」を答えるわけです。
この要求ポイントは、実はどの史料や資料にも登場していません。なぜ、日本人が作詞・作曲した曲でないといけなかったのでしょうか。
「日本人への教育なんだから、日本人が作った曲の方がよいのは当たり前だろう」というのは、不十分です。なぜ「当たり前」なのかまで説明しなければなりません。
これを答えるには、日本史を覚えているだけでは不十分で、日本史を理解していなければなりません。
よく言われることですが、東大日本史では「〇〇年に△△さんが◇◇した」などという暗記をしてもだめです。「〇〇年に△△さんが◇◇した」のを覚えると同時に、なぜそのようなことをしたのか、その結果どのようなことが起きたのか、その時代はどのような状況だったのかなどを中心に覚えていく(理解していく)ことが大切なのです。
そこで、明治政府が唱歌教育をしようとした事情や背景について教科書を見てみましょう。山川出版社の歴史探求によると
明治初期には新政府がみずから先頭に立って近代化を推進することが多かったが、明治の中頃からは教育の普及や交通・通信・出版の著しい発達によって、国民の自覚が進み、国民自身の手による近代文化の発展をみるようになった。
とあります。
「国民の自覚」は、しばしば「愛国心」などと表現されます。つまり「自分は日本人だ」と思うということです。
そして「国民自身の手による近代文化の発展」と続きます。これは「日本人によって文化を発展させていこう」ということ。唱歌教育に置き換えれば、日本人が作った曲や詩で、日本人の教師によって教育していこうというような感じでしょうか。
最後にダメ押しで、帝国書院の資料集『図説日本史通覧』からも引用すると
伊沢修二は、帰属意識や連帯意識を高める教育を音楽に託し、米人メーソンと音楽取調掛を解説。唱歌科授業の最初の教材として、和洋折衷の方針で作成した『小学唱歌集』を発行した。
資料で確認した内容が端的に表現されていますね。
注目ポイントは下線を引いた「帰属意識や連帯意識を高める教育を音楽に託し」の部分です。
皆さん、学校で音楽の授業を受けたと思いますが、その原型として「帰属意識や連帯意識を高める」目的があったと知っていましたか?確かに、音楽の授業で日本の伝統的な音楽を習いましたし、クラスメイトと合唱させられたりしましたよね。こういう何気ない日常の一コマに対しても、歴史的な背景を知ろうとする意識も、東大日本史には重要かもしれません。
以上を踏まえて、答案例です。
答案例
設問A
答案例1(指導者数を入れない)
日本は、西洋とは旋法などに対する考えが異なるうえ西洋音楽に無関心だったため、音楽教育の環境を早急に用意できなかったから。
答案例2(指導者数を入れる)
日本と西洋の音楽は別物だったため、全国の小学校で西洋式の音楽教育を一斉に実施するには指導者や指導法が不十分だったから。
設問B
答案例1
当時は国民の帰属意識や連帯意識を高めるような音楽教育を狙った。始めは外国人教師や外国曲を選ばざるをえなかったが、西洋の音楽理論を学んだ日本人が育つと日本人が作った唱歌が掲載された。
答案例2
国家による教育の統制が強まり愛国心が強調されるのを背景に、音楽教育においても外国人による教育から日本人による教育が目指され、西洋音楽を学んだ日本人が輩出されるのを待って実行された。
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