2025年(令和7年)東大日本史を当日解いたので、所感を書いてみた。
【科目全体の所感】
総合難易度 標準
パッと見てテーマを確認しただけの人にとっては、「変な問題」とか「細かいところを突いた問題」となる問題。
第1問は飛鳥時代の仏像が出て、第2問は土一揆に対する「徳政令や鎮圧以外の」対応方法、第3問は江戸幕府の東海道整備、第4問は近代の音楽について。
どれも、ど真ん中の歴史を勉強していても触れないテーマ。知識に頼っている人にとっては、「期待外れ」の問題に見えたことでしょう。
しかし過去問をしっかり分析して、求められる知識レベル、読解レベルを理解していた人にとっては、「想定内」となるはず。
問題文や資料文から何を問われているのか、そしてその問いに対して資料がどのように効果を発揮しているのか、丁寧に考察すれば、他の年度と同じ問題だったと感じるはずです。
第一問
難易度 標準
623年に作られた法隆寺金堂釈迦三尊像から始まり、奈良時代の鑑真までの仏教史が大雑把に書かれています。
これに対し「中国文化の受容のあり方」と「担い手」について、どのように変化したのか、その背景に何があったのかを答える問題。
「中国文化の受容の方法」ではなく「あり方」なの、どうにかなりませんかね。どうにでも取れる表現を書かれると、問題を解く側は色々考えてしまいますよね。
この「受容のあり方」と「担い手」については、資料文に概ね書いてあると思ってよいでしょう。はじめは、形式を問わず何らかの理由で来日していた渡来人や渡来人の技術を使って仏像が作られています。「北魏様式」や「インド的」とあるように、元になる地域に幅が見られ、仏像やお寺を作ることで文化を受容していたということでしょう。
それが、700年頃に一転します。
資料(3)で書かれているように、日本は国号を「日本」とし、(少なくとも形式上は)唐と対等な国になります。そして、朝貢。朝貢をするというのは、決して唐より下の立場になるわけではないですよ。日本から唐に朝貢したとき、儀礼として皇帝に臣下の礼を取りますが、これは友達の家に行って玄関を上がるときに「お邪魔します」と敬語を使うのと同じようなものです。自分が下になったわけではなく、皇帝に謁見するんだから、礼儀はしっかりしておくというだけです。
では朝貢とは何かといわれると、回答が面倒にはなるのですが、ここでは「文化的な交流を伴う貿易」くらいに思っておけばよいと思います。
奈良時代になり、仏像を作ったりお寺を作ったりは継続しますが、「戒を授かってない」など文句を言う人が出てきます。これも「受容のあり方」の変化でしょう。また経典を持ち帰ったり、戒律をもたらしたりと、持ち込んでくるものも多様化します。さらに鑑真がわざわざ日本に戒律を伝えるために死に物狂いで来日したりと、文化の伝授を目的に担い手が来るようになるなど、テンションもだいぶ変わってますね。
あとは「背景」。
先ほど国号が日本になって朝貢する話もしましたが、それ以外にも中国大陸の動乱が飛鳥時代に落ち着いたこと、日本が律令体制に入って鎮護国家思想の下、仏教の保護を行ったことなども含められそうですね。
字数は150字ですから、このくらいの内容をまとめていくと、すぐに埋まりそうです。
なお、2009年第1問の焼き直しみたいな問題でしたね。15年以上前の問題ですが、15年くらいはさかのぼって解いても十分効果がある証拠ですね。
また2024年第2問(去年)でも、東大寺の技術についての問題が出ました。これも近いテーマです。注意しておきましょう。
知識レベル:3
読解レベル:4
記述レベル:4
☆過去問重要度:5(2009年第1問とほぼ同じ問題です)
※答案を作成する前に評価したものです。今後の考察によって変化する可能性があります。第2問以降も同様です。
第二問
難易度 やや易
続いて、土一揆に対する幕府の対応についての問題。
教科書で習うような、鎮圧とか徳政令ではない対応についての問題ということに加え、よく習う土一揆とも関係なさそうです。1428年正長の徳政一揆、1429播磨の土一揆、1441嘉吉の土一揆の3つよりも後の時代の資料文なので、事前知識で受験生に差はあまりないことでしょう。
問いは「徳政令や鎮圧軍のほか、どのように対応したか」で、条件が「(1)(2)と(3)(4)にみえる土一揆の構成や基盤の違いにふれながら」です。
(1)(2)については、
土一揆の構成や基盤:東寺領内の者、山科七郷の住民(未遂かも?)
幕府の対応:土一揆の加担者がいないか調査を命じる。土一揆に参加した住民がいたら、その村を処罰すると通達。
(3)(4)については
土一揆の構成や基盤:(細川氏を含め、細川氏以外の)守護たちの家来が首謀者。
幕府の対応:細川に処罰を求める(しかし拒否された)。守護に対し、配下の地侍が土一揆に参加するのを禁止する命令を出す。
といったところでしょうか。確かに、(1)(2)と(3)(4)で、土一揆の構成や基盤は違う人ですね。
これをまとめていけば良いのかなと思います。
知識レベル:2
読解レベル:3
記述レベル:3
第三問
難易度 標準
設問Aが「関ヶ原の戦いの後」とあり、恐らく資料(1)~(3)の3つ、設問Bは(3)(4)の両方を使うということでしょう。
まず設問Aに関して。
家康の行動として、①伝馬の制度を定めた、②各地に譜代大名を配置した、③京都と江戸を往来して政務をとった
です。③に応じて、④大名が京都や江戸に参勤した、ということも書かれています。また、②で配置された譜代大名の場所をよく見ると、近江や伊勢、三河など、東海道沿いであることが分かります。
つまり、将軍や譜代大名が東海道を使って江戸と伏見を頻繁に行き来したのだろうということが分かります。家康の意図としては、政務を執ることと、家康への忠誠を誓わせることの2点が書かれていますね。
伝馬に関しても、往来をしやすくする制度であることを習うでしょうから、これで1本筋が通ったと思います。
設問Bに関してですが、
(3)では家康への忠誠心を示すとかかれているのに対して、(4)では儀礼的な対面を重んじたとあります。これもかなり大きな意識改革です。
儀礼と言えば、(3)では突然の命令に対して参勤することが書かれているのに対して、(4)では武家諸法度で明文化され、隔年で参勤することが定められています。(つまりルール化されている)これも違うでしょう。
最後に「家格に応じた行列を準備して」も、かなり儀礼や対面を意識した行動です。
2行問題なので、この辺りをまとめればよいのではないでしょうか。
知識レベル:3
読解レベル:3
記述レベル:3
第四問
難易度 標準
出ましたね。かなりビックリしたのではないでしょうか。
東大受験生は文化史を嫌う傾向にあると思いますが、第1問(実は文化史って感じでもなかったが)に加え、第4問も文化史っぽい雰囲気です。
リード文を読み「ふんふん、お雇い外国人のチェンバレンね」と思って、史料を読み進めると、日本の「音楽」について、ボロカス言っている文章が載っています。
恐らくこれにもビックリしたことでしょう。
余談中の余談ですが、2022年の国語第4問で、フランス人がインドネシアの音楽に触れたときに「新資源(ニューソース)だ」と表現する問題が出ていましたね。フランス人にとってインドネシアの音楽は、自分たちの理論や体系とは全く違うものに見えたのですが、その異質な音楽でさえ彼らにとっては「新資源」、つまりフランスの音楽に組み込むための単なる素材として捉えました。自分たちの音楽理論や体系に沿っているかどうかで判断するという点において、類似した文章でしたね。
さて、設問Aですが、唱歌を実施しない理由についてです。
学制といえば、全国で画一的な国民皆学を目指したものとして習いますね。これは知っておきたい知識。
その上で、唱歌を実施するとしたら、どのような不都合があるでしょうか。チェンバレンは「日本には音楽がない」くらいのことを言っていますが、その通り。日本の伝統的な歌には唱歌にふさわしい曲が無かったのでしょう(資料(2)でも、まずは西洋の歌を原曲にするものを唱歌にしたと書いてあります)
さらに想像すれば、西洋式の唱歌を教える人もいなかったことでしょうね。今でも、新課程だ、旧課程だとカリキュラムが変更されたとき、リスニングを教えられる先生がいないとか、統計的な推測を勉強したことがないとか、(実は)大騒ぎになります。先生の確保も重要な点でしょう。
2行問題なので、この辺りをまとめればよいのかなと思います。
設問Bは『小学唱歌集』から『尋常小学唱歌』への内容の変化はどのような事情により生じたか、という問題。
『小学唱歌集』は資料(2)で登場するもので、『尋常小学唱歌』は資料(4)で登場しますね。
資料(2)では、伊沢修二によって文部省に音楽取調掛が設置され、ルーサーなんちゃらっていう音楽教育者を招くことで、唱歌教育の整備を進め、1884年に『小学唱歌集』が発行されたとな。ここまでが『小学唱歌集』が出来た背景の話。中身は過半数が西洋由来の曲だと書いてあります。
続いて資料(3)では東京音楽学校が設立され伊沢修二が初代校長になったこと。1901年には卒業生の滝廉太郎が「荒城の月」を発表したと書いてあります。
少し読み解くと、音楽教育を施す学校が出来たことで、音楽の先生や作曲家、作詞家などが育成されたことが分かりますね。滝廉太郎という目立つ卒業生も輩出され、ちゃんと運営されていたこともわかります。
そして資料(4)。
義務教育が6年になって『尋常小学唱歌』が発行。わかりやすく、「音階や旋法は以前と変わらない。変わったのは日本人によって作詞・作曲された曲のみが掲載された」と書かれています。そう、日本人によって作られた詞と曲のみが掲載されているのです。これはわかりやすい流れ。資料(3)のところで補足したように、作詞作曲できる人が育成されたので、やっと日本式の唱歌が出来たということでしょう。
知識レベル:3
読解レベル:3
記述レベル:3