全集中 「合格の呼吸」参ノ型〜 禁 言〜【毎月10日掲載】

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「ペンは剣より強し」という諺がある。東大合格者数日本一の開成学園の校章ともなっていることは、有名である。

ペンが剣より強きものであるのなら、ペンは剣より深く相手を傷つけられることを意味する。

ペンが表す言葉は、刃物よりも鋭利になりえ、その傷の治療法は確立されていない。

剣が刺せるものは、手で触れることのできる部位だが、 言葉がえぐる場所は、触れることのできない心なのだ。

だから、言葉には魂が宿るほどの重さがあり、だから、言葉は慎重に使わねばならない。

厄介なことに、言の葉は無意識に発せられることが多い。それゆえに、相手のこころを傷つけていることにも気付きにくい。気付いた時には手遅れになっていることが、おうおうにしてある。

親や恋人など心を許した相手から投げかけられる言葉の暴力が深刻な傷を生み出すことはよく知られている。人を殴れば自分の拳にも痛みを感じるだろう。だが、口から軽々しく発せられた言葉は、相手にしか痛みを与えない。つまりは、自省する機会すら与えられないから厄介なのだ。

そして、その「刃」は、時として、己の心を無意識に蝕むことさえある。

たとえば、「苦手です」「部活で忙しい」「時間が足りない」「自分はバカだ、能力が足りないんだ」「ねむいな〜」「家だとやる気が出ない」・・と口にしたことはないだろうか。

こうした無意識に発せられた言葉が、知らず識らずのうちに積もり積もって、意欲や自己肯定感、さらには自尊心に毒牙を向けるのである。

それゆえ、志望校合格のために先ず為すべきは、負の言葉を駆逐することである。以下、代表的な禁言を十句ご紹介したい。まさしく十戒である。

〜 十 戒 〜

① 「〇〇が苦手です」

→ 「苦手」という言葉を幾度も発すると、自身の耳を介して、心の底に澱みのように積もり積もって、その科目から逃避しようとする心理が生まれる。その結果、嫌だ嫌だと自己防衛本能が働くこととなる。

そこで、「苦手」という言葉に代わり、「コツを知らない」と
言い換えることを強く勧めたい。「コツ」を知らないのであれば、コツを知りさえすれば突破口が見えてくるわけだ。しまいには、コツの存在に希望さえ感じられるようになろう。その結果、学びに一工夫を加えたり、人に質問をするなどして、コツを知ろうとする意欲が芽生えることとなる。

② 「家だと勉強できません」

→ それなら、図書館でもスターバックスでも構わない。

だが、「家だと勉強できません」という場合、赤ん坊が四六時中泣き叫んだり、工事車両が引っ切りなしに往来したり、爆音が鳴り響くという物理的な要因ゆえのものではなく、概して、周囲に「誘惑」が多いからという精神的な要素に起因するところが多い。寝っ転がれるソファーやベッドがある、漫画やゲームや携帯がある、お菓子が近くにある・・といった誘惑が多いから「家だと勉強できません」と口にするのだ。

昨今、コロナ禍で外出がままならない状況下のなか、「家だとテンションが上がらず、勉強できなかったから受験で落ちてしまいました。」と情けない言葉を口にする受験生が多い。

ハッキリ言おう。自室を刑務所のごとく、何もない部屋にし、窓も塞いで、たった一冊英単語帳だけが目の前に置かれ、ドアには外から施錠され、他になにもできない状況に置かれたならば英単語帳を読み始めるのが人間というものである。

もちろん、それを直ちに実行せよと申し上げるつもりはないが、合格者はそのような鬼気迫る気持ちに自分の精神をもってゆく。それができなくば、リビングなどに勉強場所を変えてみる、自室の誘惑を全て撤去することなどを始めると良い。誘惑はどこにでも転がっている。図書館にも有料自習室にもカフェにも誘惑は転がっている。誘惑から逃げるのではなく、誘惑を断ち切ることが肝要である。

そんなの人間らしくないと異論を唱える者が時々いるが、それならば食べて寝るだけの生活を送れば良い。それも人生である。

③ 「集中できないので勉強できません」「やる気が起きないから勉強できません」

→ 順序が逆である。集中できるから勉強できるのではなく、勉強するから集中できるのである。これを作業興奮と言う。

百マス計算でも簡単な因数分解計算でも漢字の練習でも音読でも構わない。先ずは5分、解けるレベルの問題を手を動かし口を動かし解くことから始めよ。脳にエンジンが徐々にかかってくるものだ。できるものから少しずつハードルを上げてゆくことがミソである。そうして徐々に加速した先に集中が待っている。

④ 「ねむいです。眠くて勉強できませんでした」

→ 陣痛で悶え苦しむ初産の妻の横で、「お腹が空いた」「観たいテレビ番組がある」と口にする夫がいるそうだ。耳を疑ったが、産婦人科医が仰るに一人二人ではないという。

志望校合格という高らかな目標を前に、「ねむいです」と宣う者は、欲望に支配された上記の夫となんら変わりはない。

眠ければ、5分間仮眠を取ってまた始めれば良い。それでも眠ければ、スクワットや散歩をすれば良い。それでも眠ければ、氷水を頭からかぶればよい。

このように話すと、「そんなのひどい!ねむいのは生理現象なのだから、眠りすら許されないだなんて奴隷と変わらないじゃないですか」と反論する者がいる。だが、そのセリフは奴隷のように勉強して初めて口にする資格があるものなのだ。そして、貴方の家族の誰かは、貴方のために眠い目こすって奴隷のように家の仕事をしている事実を忘れてはならない。さらには、貴方が眠っている間に、貴方のライバルは眠い目こすって勉強しているという事実から目を背けてはならない。苦しいのは貴方だけではない。

もちろん、病気になるくらい睡眠を削れというわけではない。1日に7時間眠るとして、24ー7=17時間は勉強に充てられるはずなのである。それでも眠いというのなら、睡眠時無呼吸症候群でもない限りは、ただの怠慢と堕落に精神支配をされているに過ぎないのである。恥ずべきことである。

少し話を変えよう。ロシアにとある死刑囚がいた。濡れ衣を着せられた彼は死刑執行の前に、5分間だけ好きなことをして良いと看守に言われた。

最初の2分で家族や友人に感謝の祈りを捧げ、次の2分で今日まで自分に生きるチャンスを与えてくれた神に感謝の祈りを捧げ、最後の1分で人生を走馬灯のように振り返るなか嗚咽を上げて泣き続けたという。

だが、最後の最後で政府の要人が駆け寄り、「その死刑執行は中止せよ!」と叫んだそうだ。彼は釈放をされた。その後、彼は、この5分間のことを永遠に忘れまいと誓い、5分、また5分と、自分の命の時間を噛みしめるように生涯を過ごした。彼の名は、『罪と罰』で有名な文豪 ドフトエフスキー。

5分後に寿命を終えるとしよう。その時、「ねむいです」と言えるのか。おそらくは、アドレナリン全開で、その5分間を必死に生きることだろう。

そう、それが「生きる」ということなのである。明日に延ばしてはいけない。貴方が生きている世界は、「いま」この瞬間だけなのだから。

⑤ 「部活で忙しくて勉強できませんでした」

→ 現役生がよく口にする言葉だ。先ず始めに申し上げたきは、社会で活躍する偉人の大半は、部活動と勉強を両立しているという事実である。なぜ、それができるのか。それは、「工夫」をしているからなのだ。同じ24時間という時間の中で、本当に無駄な時間はなかったのか考えよ。移動時間を有効活用できたのか、食事やお風呂を貴族階級のようにゆったり楽しんではいなかったのか、自問自答せよ。

部活が忙しくて、お手洗いにも行けず、食事も摂れず、お風呂にも入れなかったというのなら、その忙しさはホンモノである。だが、部活が忙しくて、勉強だけができなかったのなら、それは、勉強の優先順位を低く位置付けた怠慢に他ならない。

「工夫」を試みない者が、部活動を辞めたとしても、概して勉強に勤しむことはない。ゲームやSNSの下僕に成り下がるだけである。だが、「工夫」を試みた者が、部活動と勉学の両立をできたなら、眼界に広がる景色が一変するだろう。

立ちながら英文音読、シャワーを浴びながら音読、食事中や電車移動の時にリスニング、学校の休み時間や授業中に先取り学習・・題材はいくらでもある。覚えなければならない事項を自分で読み上げたものを録音して、それを隙間時間で聞き返す子もいた。自分の声だから、気恥ずかしさも相まって記憶に残るのだという。勝者は工夫をしている。工夫できるものが勝者である。

⑥ 「東大や医学部に合格する人は特別な人だけ。天才だけ。」

→ 大人になっても、多くの者はかように唱える。そうした者は、鏡に映る自分の姿から目を背けているだけである。自分自身が傷つきたくないだけである。だから、他者を僻み、妬み、羨み、憎しみもする。口にするのは他者のことばかり。あたかも己の人生が他者に支配されているかのようである。

成功者は、如何に自らを高め、工夫し、成功するかを常に考える。限りある命の時間を、すべて自分の価値向上に繋げているのである。東大や医学部に合格するために必要な才能が一つだけあるとするなら、それは努力である。努力の天才になれば良い。東大や医学部に合格するのに必要なものは、それ以上でもなければ、それ以下でもない。

「私は絶対に受かる。私こそ、受かる人間だ。俺が受からなければ、誰も受からない。」と口にせよ。それが壱ノ型でも述べた「覚悟」に繋がるのである。

⑦ 「受験に間に合いますか。時間がありません。間に合う気がしません。」

→ 正直言おう。その質問をしている時間がもったいない。間に合うかどうかではなく、間に合わせるのである。間にあわせるために、徹底した自己分析と戦略が求められるのである。

何名かの東大教授にうかがったところ、かつては、東大や医学部に一発で受からなければ「家業を継げ、出稼ぎをしろ」と条件を課される子供が多かったそうである。それゆえに、しのごの言わずに、絶対に間に合わせなければ!と自らを奮い立て、本気で勉学に励んだとのこと。

この理は、今も昔も変わらない。徹底した現状分析・過去問分析。それを元にして学習優先度のランク分け、そして時間資源を投下。ただ、これだけである。もちろん、良質な情報が遍在している実情はある。だからこそ、知恵の館を立ち上げた。そして、いま、貴方は知恵の館でこの記事を読んでいる。それは、貴方の運命が大きく変わろうとしていることを物語っている。

「間に合いますか」ではなく、「間に合わせてみせる!」と口にせよ。さすれば、世界は大きく変わる。

⑧ 「また忘れてしまいました・・」

→ 人間は忘れる動物である。忘れるという特性を持っているのだ。ゆえに、そうした特性と向き合うことから始めねばならない。忘れることは罪ではない。覚え直そうとしないことが罪なのである。

4日で忘れたなら、3日目に復習をすればよい。翌日に忘れたなら、当日の夜にもう一度復習をすればよい。忘却曲線を意識し、イメージや理屈と共に覚える工夫をせよ。

そうした反省や改善の工夫こそ合格力なのである。ここに「反復こそ絶対的正義」の核心がある。

⑨ 「勉強が面白くありません・・」

→ ここで、気合いを入れろ!とだけ申すのも芸がないので、別の角度から意見を述べるとしたい。

ゲームをしているときは楽しいと思える人が多いことだろう。なかなかクリアできないステージに差し掛かって、SNSや書店で攻略法を探しまわる人も多いと聞く。頭を冷やしてから、別のアプローチでステージクリアできないか試行錯誤を重ね合わせるともいう。

実のところ、偏差値80〜90の人も、全く同じことを勉強に対して行なっている。たとえば、点と直線の距離の公式を素早くに証明するにはどうしたらよいだろうかと思案する。手持ちの参考書に載っていなければ、ググって別解を探す。YoutubeやSNSでも聞き回り、大きな本屋さんに行って複数の参考書の該当ページを読み比べたりもする。そうして試行錯誤の末、自分なりに納得のゆく理論体系を構築していくのだ。

では、なぜ、多くの人は勉強にはゲームの時のような熱量を以て接することができないのだろうか。それは、目的意識の欠如による。

人間は、類人猿の頃、狩りの精度を高めるため道具をつくり、自分より何倍も大きなマンモスを倒すためトラップやチームプレーの術を工夫していった。目的があるからこそ、手段の研究に勤しんだのである。工夫の結果得られた経験や知識が、自分を取り囲む世界に変化をもたらせることを知った人類は、他の動物とは決定的に違う進化を遂げることができた。

話を現代に戻すとしよう。プラモデルの説明書を読んで面白いのは、プラモデルをつくる目的があるからである。ゲームの攻略本を読んで面白いのは、そのゲームを制覇したいという目的があるからである。

だが、知らないゲームの攻略本を暗記しろと言われても、頭に入らないし面白くもない。縁もゆかりもない学校の生徒名簿を渡されて覚えろと言われても覚えられはしない。目的意識もなく、ただ漫然と頭の中に入れた知識はゴミ同然で無価値なものとなってしまう。

このことから、「勉強が面白くありません・・」との発言は、志望校合格という目的意識の希薄さを自白しているようなものでもある。もちろん、教える側にも問題はあるだろう。興味を持てるような教え方ができない先生は星の数ほどいる。だが、昔と異なり、様々な参考書やネット情報を入手できる現代にあって、興味を持てるよう自分から情報収集に努めたのか問いたい。情報という「獲物」を捕獲するために、工夫をしたのか問いたい。

中学高校の頃に歴史が大嫌いだった人でも、社会人になり大河ドラマを見てから歴史が好きになる人は多い。それは歴史を新しい切り口から知ったからである。

微分積分がイヤイヤで仕方がなかった人でも、社会人になり医学部再受験をするにあたり、真剣に取り組んで1ヶ月でマスターする人もいる。これは強固な目的意識が伴ったからである。

では、「勉強が面白くありません」と宣う者は、どうだろうか。多くは愚痴をこぼしているだけである。面白い視点をググろうともせず、誰かに質問するわけでもなく、志望校でどれくらいの割合で出題されるか調べようともしていない。

それはなぜか。合格しようという「覚悟」が足らないからである。改めて、何のために勉強をしているのか再確認をされたい。ここを疎かにすると、たとえ東大や医学部に進学したとしても留年するのが関の山であろう。

⑩ 「私にはムリです」「俺にはムリだ」

→ その根拠は何だろうか。模試の成績だろうか。学校の評定だろうか。仮にそうだとしたら、訓練を積めば偏差値など短期間に一気に爆上げすることができることを知ってほしい。そもそも、数字の罠に惑わされてはいけない。数字とは客観的な指標のように見えて、実は一定のバイアスがかかった恣意的なものであることが多い。我々は数字の奴隷ではない。数字に怯える必要はないのである。

そもそも、「お前にはムリだ」と神が示したわけではない。法によって進学可能性が閉ざされたわけでもない。貴方自身が、自ら手枷・足枷を嵌めているのである。貴方自身が、可能性の芽を摘んでしまっているのである。

貴方は誰かの判定に怯えながら生まれてきたわけではない。貴方は、この世の誰とも自分自身を比較してはいけない。それは、貴方自身に対する侮辱である。「私にはムリだ」ではなく、「私にならできる!」を口ずさもう。苦しい時ほど、何度も何度も大声で叫ぼう。「私にならできる!」と。

以上が、受験生の大敵である十の禁言である。

言の葉は、記憶と共に魂に突き刺さることもあれば、魂を彩りもする。魂と言の葉は常に共鳴するのだ。記憶と言の葉は魂に刻み込まれ、決して消え失せることはない。そして、自らが発した言の葉を最も多く聴いている者は、己自身である。ゆえに、禁言を口にした者は、真綿で自らの首を締めつけているようなものなのである。

行動の変化は運命を変えるという。考え方の変化は行動を変えるという。そして、言葉の変化は考え方を変えるという。これ則ち、言葉の変化は運命をも変えるわけである。

禁言を胸に、己を律し、大事を成されることを切に願う。

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