2020年東大日本史(第1問)入試問題の解答(答案例)と解説
(編集部より)2026年7月に、大幅に加筆修正しました。
目次
木簡から見る文字の受容
今回のテーマは「古代日本における文字文化・書の受容と定着」です。つまり、中国大陸で生まれた毛筆による書の文化が、どのようにして日本列島に伝わり、根づいていったのか、そしてそのプロセスにおいて国家や天皇家がどんな役割を果たしたのか、ということを問うている問題です。
一見すると「書道の歴史」というニッチな話に思えるかもしれませんが、実はこの問題、古代日本という国家がどうやって「文字を使う社会」へと変貌していったのかという、文明史的なスケールの大きい問いです。原始時代的な状態から文字を読み書きできる状態になるということは、法律を運用し、税を管理し、外交文書をやりとりし、仏教経典を理解するための大前提です。つまり「書の定着」とは、律令国家の根幹そのものに関わるテーマなのです。この視点を持って読み解いていきましょう。
設問要求の確認
設問A
中央の都城や地方の官衙から出土する8世紀の木簡には、『千字文』や『論語』の文章の一部が多くみられる。その理由を2行以内で述べなさい。
設問A で注意すべきは、「木簡」に「教科書として使われた文章の一部」が書かれている理由を聞いているという点です。木簡は実務的な用途に使われる書写材料ですから、そこに『千字文』や『論語』の一節が書かれているということは、官人たちがそれらを使って何かしらの訓練をしていた、ということを示唆します。
設問B
中国大陸から毛筆による書が日本列島に伝えられ、定着していく。その過程において、唐を中心とした東アジアの中で、律令国家や天皇家が果たした役割を4行以内で具体的に述べなさい。
設問B はスケールが大きく、書の「伝来」と「定着」の二つの段階それぞれにおいて、律令国家と天皇家がどう機能したかを、資料文の情報を活用しながら具体的に論じなければなりません。「唐を中心とした東アジアの中で」という限定があるので、遣唐使による書の将来や、唐の制度を模倣した律令制度の整備といった、国際的な文脈を意識することが求められています。
では、各資料文を順に分析していきましょう。
資料の分析
資料(1)「千字文」初学者の国際標準テキスト
『千字文』は6世紀前半に、初学の教科書として、書聖と称された王羲之の筆跡を集め、千字の漢字を四字句に綴ったものと言われる。習字の手本としても利用され、『古事記』によれば、百済から『論語』とともに国に伝えられたという。
ここでは『千字文』という書物の性格が説明されています。『千字文』は6世紀前半に成立した、いわば「初学者向けの漢字教科書」であり、しかも書聖・王羲之の筆跡を集めて作られたものですから、「漢字学習」と「習字の手本」という二つの機能を兼ね備えていました。さらに『古事記』の記述を引いて、百済から『論語』とともに倭国に伝えられたと述べています。
ここから読み取るべきポイントは二つあります。第一に、『千字文』と『論語』は古代日本において「文字を学ぶための基本教材」であったということ。第二に、それらが朝鮮半島の百済を経由して日本に伝わったという伝来ルートです。つまり、日本における文字文化の出発点には、東アジアの国際交流があったのだ、ということをこの資料文は示しています。
この情報は設問A・B双方に関わります。設問Aでは「なぜ木簡に『千字文』や『論語』が書かれているのか」を考える際の前提として、それらが「習字と漢字学習の基本テキスト」であったという性格を押さえる必要があります。また設問Bでは、書が東アジアの国際関係の中で百済から日本に伝来したという大きな流れの起点として位置づけられます。
では、こうして伝わった書の文化は、その後どのように日本国内で受容されていくのでしょうか。
次の資料文(2)では、その中核的なルートである遣唐使の役割が語られます。
資料(2)唐太宗と遣唐使による模本の大量供給
唐の皇帝太宗は、王羲之の書を好み、模本(複製)をたくさん作らせた。遣唐使はそれらを下賜され、持ち帰ったと推測される。
資料文(2)は非常に短いですが、重要な情報が詰まっています。
ここで注目すべきは、書の日本への伝来が「私的な交流」ではなく、「国家間の公的な外交ルート」を通じて行われたという点です。遣唐使とは、日本の律令国家が国費を投じて派遣した公式の外交使節団ですね。そして唐の皇帝が模本を「下賜」するというのは、東アジアの国際秩序の中で、唐を頂点とする冊封的な文化伝播の構造があったことを意味しています。つまり、王羲之の書法という中国文化が遣唐使という国家的事業によって日本にもたらされたのです。
この資料文は設問Bにとって重要です。「唐を中心とした東アジアの中で、律令国家や天皇家が果たした役割」を問われているわけですから、遣唐使の派遣を通じて書の手本を入手したという事実は、まさに律令国家が書の「伝来」において果たした役割です。
さて、こうして海を渡って日本に届いた書の文化は、国内でどのように広められ、人々の技能として定着していったのでしょうか。
次の資料文(3)では、律令国家が書の教育と普及を推進した様子が描かれます。
資料(3)国家が“書く力”を制度化
大宝令では、中央に大学、地方に国学が置かれ、『論語』が共通の教科書とされた。大学寮には書博士が置かれ、書学生もいた。長屋王家にも「書法模人」という書の手本を模写する人が存在したらしい。天平年間には国家事業としての写経所が設けられ、多くの写経生が仏典の書写に従事していた。
資料文(3)は情報量が豊富です。まず大宝令のもとで中央に大学、地方に国学が設置され、『論語』が共通の教科書とされていたこと。
大学寮には書博士が置かれ、書学生もいたこと。
さらに長屋王家にも「書法模人」という書の手本を模写する専門家がいたこと。
そして天平年間には国家事業として写経所が設立され、多くの写経生が仏典の書写に従事していたこと。
これだけの情報が詰め込まれています。
一つずつみていきましょう。大宝令による大学・国学の設置は、律令国家が官僚養成のために全国的な教育制度を整備したことを意味します。そこで『論語』が教科書として採用されているということは、官人になるために漢文の読み書き能力が必須だったということですね。そして書博士や書学生の存在は、単に漢文の「内容」を学ぶだけでなく、「書くこと」そのものが専門的な技能として制度的に教育されていたことを示しています。
また、長屋王家の「書法模人」の存在は、皇族・貴族の家レベルでも書の模写・学習が行われていたことを物語っています。さらに写経所の設立と写経生の活動は、仏教の興隆という宗教的動機も書の技能を持つ人材の大量育成につながったことを示しています。
この資料文は設問A・B双方の核心に関わります。設問Aについて言えば、律令制度のもとで官人養成のために『論語』や『千字文』を使った習字・学習が全国の官衙で行われていたからこそ、木簡にそれらの文章の一部が残されているのだ、という因果関係が見えてきます。設問Bについて言えば、律令国家が書の「定着」において果たした役割、すなわち教育制度の整備、専門家の配置、写経事業の推進といった組織的な取り組みが、ここに具体的に示されているのです。
では、そもそもなぜ律令国家はこれほどまでに文字の読み書き能力を必要としたのでしょうか。
次の資料文(4)では、律令国家の行政実務が膨大な文書作成を伴うものであったことが示されます。
資料(4)律令行政の実務と文字使用の必然性
律令国家は6年に1回、戸籍を国府で3通作成した。また地方から貢納される調は、郡家で郡司らが計帳などと照合し、貢進者・品名・量などを墨書した木簡がくくり付けられて、都に送られた。
資料文(4)では、律令国家の具体的な行政実務が二つ紹介されています。
一つは戸籍の作成で、6年に1回、国府で3通作成されました。
もう一つは調の貢納に関する事務で、郡家で郡司らが計帳などと照合し、貢進者・品名・量などを墨書した木簡をくくり付けて都に送っていました。
ここで皆さんに想像してほしいのは、この行政実務がどれほど大量の「書く作業」を必要としたか、ということです。戸籍を3通作成するということは、全国の人口情報を手書きで3部複製するわけですから、膨大な筆写作業が発生します。調の木簡にしても、全国の郡家から都に届けられる物品一つ一つに、正確な文字情報を記した木簡が付けられるのです。つまり、律令国家の統治機構そのものが、文字を正確に書ける人材を全国規模で必要としていたのです。
この資料文は設問Aに直結します。中央の都城や地方の官衙から出土する木簡に『千字文』や『論語』の一節が書かれている理由は、まさにここにあります。律令行政の実務には正確な文書作成能力が不可欠であり、官人たちは日常的に『千字文』や『論語』を手本として習字の訓練を行っていたのです。噛みのない時代、木簡は手軽に入手でき、削って再利用もできますから、練習用の書写材料として最適でした。だからこそ、役所の跡地から習書木簡が大量に出土するのです。
設問Bとの関連で言えば、律令国家の行政実務が書の技能を必要とし、それが全国的な書の定着を促進したという構造を読み取ることができます。
さて、ここまでの資料文(1)~(4)で、書が東アジアの国際交流を通じて日本に伝わり、律令国家の制度と行政実務を通じて全国に普及・定着していった流れが見えてきました。
最後の資料文(5)では、天皇家が書の文化の受容と継承においてどのような役割を果たしたのかが示されます。
資料(5)天皇家による書の尊重・保存と文化的継承
756年に聖武天皇の遺愛の品を東大寺大仏に奉献した宝物目録には、王羲之の真筆や手本があったと記されている。光明皇后が王羲之の書を模写したという「楽毅論」も正倉院に伝来している。平安時代の初めに留学した空海・橘逸勢も唐代の書を通して王羲之の書法を学んだという。
資料文(5)には三つの重要な情報があります。
第一に、756年に聖武天皇の遺愛の品を東大寺大仏に奉献した宝物目録に、王羲之の真筆や手本が含まれていたこと。
第二に、光明皇后が王羲之の書を模写した「楽毅論」が正倉院に伝来していること。
第三に、平安時代初期に留学した空海・橘逸勢も唐代の書を通じて王羲之の書法を学んだこと。
まず聖武天皇が王羲之の真筆や手本を所蔵していたという事実は、天皇家が書の最高峰の作品を収集・保存する文化的パトロンとしての役割を担っていたことを示しています。これは資料文(2)で見た遣唐使による書の内容と直結する話です。遣唐使が持ち帰った王羲之の模本は、まず天皇家のもとに集まり、そこから貴族や官人たちに書の手本として広がっていったと考えられるのです。
次に光明皇后が自ら王羲之の書を模写していたという事実は、天皇家の人々が単なるコレクターではなく、自ら書の実践者として書法の習得・継承に努めていたことを物語っています。皇后という最高位の人物が書の模写に取り組む姿は、宮廷全体における書の文化的価値の高さを象徴するものです。
そして空海・橘逸勢が唐代の書を通じて王羲之の書法を学んだという記述は、遣唐使による文化交流が奈良時代だけでなく平安初期まで継続し、書の伝統が途絶えることなく受け継がれていったことを示しています。
この資料文は設問Bにおける「天皇家が果たした役割」の部分に直結します。天皇家は、遣唐使を通じて入手した書の名品を収集・保存し、自らもその書法を学び模写することで、書の文化を日本において守り伝える中心的な担い手となったのです。
まとめ
さあ、ここまでの分析をもとに、解答を組み立てていきましょう。
設問Aの解答の方向性について整理します。
資料文(1)から『千字文』と『論語』が漢字学習・習字の基本教材であったこと、
資料文(3)から律令制度のもとで官人養成のための教育が行われていたこと、
資料文(4)から律令行政の実務に正確な文書作成能力が不可欠であったこと、
これらを因果関係で結べばよいのです。
すなわち、律令国家の行政実務には文書作成能力が求められたため、中央・地方の官衙で官人たちが『千字文』や『論語』を手本に習字の訓練を日常的に行っており、その練習の痕跡が木簡として残された、という論理になります。
設問Bの解答の方向性について整理します。
こちらは「伝来」と「定着」の二段階に分けて考えると整理しやすいでしょう。
「伝来」の段階では、律令国家が遣唐使を派遣して唐から王羲之の模本などの書の手本を入手し(資料文2)、
天皇家がそれらを収集・保存した(資料文5)こと。
「定着」の段階では、律令国家が大学・国学を設置して『論語』を教科書に定め、書博士を置くなど書の教育制度を整備し(資料文3)、
戸籍作成や調の管理といった行政実務を通じて全国的に文字の読み書き能力を必要とする体制を築いた(資料文4)こと。
そして天皇家自身も光明皇后のように書の模写を実践して書法の継承に努めた(資料文5)こと。
これらを具体的に盛り込んで論じればよいのです。
【答案例】
A: 律令国家では行政文書の作成能力が官人に求められたため、官衙において千字文や論語を手本とした習字の練習が行われていたから。
B: 天皇家は遣唐使を派遣し王羲之の書の手本を入手、保存、模写するなど書法の実践と継承の担い手となった。また戸籍や調の貢納など律令行政の文書主義が興り、律令国家は大学や国学を設置し論語を教科書に定め書の教育を制度化した。




