2025年東大国語 第3問(漢文)雲棲袾宏(うんせいしゅこう)『竹窓二筆(ちくそうじひつ)』現代語訳
取り急ぎ、暫定版の現代語訳です。
こちらもご参照ください。
2025年(令和7年)東大国語を当日解いたので、所感を書いてみた。
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2025年『竹窓二筆』現代語訳現代語訳
人はいつも執着(してしまうこと)を心配する。
しかしやはり、(すべての執着を)一まとめにして評論するべきではない。
(なぜなら)本当に、学びは好むことで成し遂げられ、学びを好むことの究極を執着と呼ぶからです。
羿は弓を射ることに執着し、遼はお手玉に執着し、連は琴に執着したなあ。
そもそも、囲碁に執着する者は、仕切りや垣根、窓などすべてに、びっしりと黒と白(の囲碁の石)の形勢が見えるようになり、
書道に執着する者は、山中の木や石が何でも(墨で書いた書の)黒に見えるようになり、
馬を描くことを学ぶ者は、寝台の間〔≒夢〕に馬の姿が見えるようになる(ほど専念する)ものです。
そもそも、こうして初めて、その技芸によって天下に名を轟かせ、後世に名声を残す(ことができる)のです。
どうして仏道を学ぶことにおいてだけ、それを疑う必要があるでしょうか。いや、ありません。
そういうわけで、禅を学ぶ人は、お茶を飲んでいてもそのお茶を知覚せず、
食事をしていてもその食事を知覚せず、
歩いていても歩いていることを知覚せず、座っていても座っていることを知覚せず、
箱を開けて閉め忘れたり、便所から出て着物を(直し)忘れたりする(ほどに禅に没入するべきな)のです。
念仏を唱える人は、目を開けても閉じても、眼前に仏を観想〔=対象に心を集中し、静かに思いをこらすこと〕し、
心を集中させても散漫になっても、その念は常に(念仏)一つにまでなるのです。
本当に、感情が極まって志が一つに専念して、
修行の功が深まり、力が(十分に)到達して(初めて)、
知らず知らずのうちに、深く集中した(悟りの)境地に入るのです。
(これも)また、まるで火打石を擦る者が、火打石を擦るのを止めずに火を起こしたり、
鉄を鍛える者が、鉄を鍛えるのを止めずに鋼を生成したりするようなものです。
一般的に、自分が執着してしまうことを心配して、のんびりゆったりと気ままに(仏道を)学ぼうとするのは、
水が石を浸すようなもの(で、時間をかけてもほとんど学びは吸収できない)。
非常に長い年月をかけても、いったい何の利益があるだろうか。いや、まったく利益は無い。
このため、滞って成長もない執着は持つべきではありませんが、
(学びを好んで専念して)持ち続ける執着は必要です必要不可欠です。
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