2017年東大世界史(第二問)入試問題の解答(答案例)と解説
目次
設問別の答案例や解説
問1(a) 14世紀後半から15世紀までのポーランドの状況とその後衰退した背景
解答例
解答例①
中央集権化の進展後、リトアニア=ポーランド王国が成立し、ドイツ騎士団を倒してその南進を阻んだ。後に選挙王政となり、貴族間の対立に諸外国が干渉して、国内政治が乱れ、衰退した。
解答例②
カジミェシュ大王の元で中央集権化に成功した後、リトアニアと同君連合を結んでドイツ騎士団を破り隆盛した。だが、王朝の断絶で選挙王政となり、貴族の内紛に諸外国が干渉し国内政治が乱れた。
問題の要求
この問題では、「14世紀後半から15世紀までのポーランドの状況とその後衰退した背景」について述べることが求められている。
問題を見た瞬間、少しマイナーなところが問われたなといった印象を受ける人が多いのではないかと思う。対策した部分が的中して喜ぶ人もいれば、対策が手薄な部分が出て落ち込む人もいるだろう。ただ、問われていること自体は、ただのポーランドの一国史である。教科書に書かれていることを指定字数内でまとめあげれば十分に合格点の取れる答案になるはずだ。まとめ方に難があるわけではなく、ただの知識問題である。マイナーな範囲が問われているとはいえ、確実に合格点を取れるようにしたい。ちなみに、東大はしばしば大国に翻弄された地域を出題してくる。本問のポーランドの他にも、エジプト・イラン・朝鮮・バルカン半島・アフガニスタンといった地域の典型論点は押さえておきたい。
解説
答案を作るうえでの要素となる部分を教科書で確認していきたい。
東京書籍 『世界史B』(2022 旧課程版)
14世紀には、ポーランド女王がリトアニア大公ヤゲウォと結婚して、ヤゲウォ朝リトアニア=ポーランド王国が成立し、国教にカトリックを採用して広大な地域を支配下に置いた。
帝国書院 『世界史B』(2022 旧課程版)
ポーランドは、植民を進めるドイツ騎士団に対抗するため、14世紀末にポーランド女王とバルト系のリトアニア大公が結婚してヤギェウォ(ヤゲロー)朝リトアニア-ポーランド王国となった。(中略) ポーランドでは、16世紀後半、ヤギェウォ(ヤゲロー)朝が絶え、選挙による王政に移行していた。ポーランドは、16世紀から国際分業の底辺に組み込まれたため、貴族は穀物を増産し、西ヨーロッパに輸出した。このため、貴族の力が強まる一方、農民は重い賦役に苦しめられた。また商業は貿易相手である外国人ににぎられたため、国家としてのまとまりを欠き、外国の干渉を受けるなど、政治は混乱した。
山川 『新世界史B』(2022 旧課程版)
ポーランドは貴族が国王を選出する選挙王政に移行した。(中略) 近世初頭、この地域の大国はポーランドであった。ポーランドはヤギェウォ(ヤゲロー)朝の開明的な君主のもと、イタリア=ルネサンスの成果を導入すると同時に、カトリック国でありながらプロテスタントやユダヤ人にも信仰の自由を保障して、宗教改革にともなう対立をまぬがれた。16世紀後半に王朝がたえてからは貴族主体の立憲的な選挙王政に移行し、西欧の絶対王政とは異なる政治体制をとった。だが16世紀の末に即位した新国王はイエズス会の支持者であり、スウェーデン王も兼ねて同君連合をなして、北東ヨーロッパのカトリック化に乗り出した。このためスウェーデンのルター派の反乱をまねき、スウェーデン王の地位を失った。王はまたロシアに進出したがギリシア正教徒の反攻に敗れた。こうしたあいつぐ戦争で財政が破綻したうえ、中央集権化に遅れてもいたポーランドでは、1683年の第2次ウィーン包囲戦で活躍したヤン3世のような有能な君主も出たものの、18世紀後半に国政の実権を握っていた貴族の間で内紛が起こり、これに乗じたロシア・プロイセン・オーストリアによって国土が分割されることになる。
このように、教科書ごとに情報量の大きな差がある。合格点を取れるレベルの答案を作るためには、複数の種類の教科書を利用して世界史の勉強を進めていく必要があることがわかると思う。14世紀後半から15世紀までのポーランドの状況としては、14世紀後半に、カジミェシュ大王の死後、ドイツ騎士団に対抗するため、連合王国としてリトアニア=ポーランド王国が成立した。この中でもヤゲウォ朝の時にとても栄え、1410年にはタンネンベルクの戦いでドイツ騎士団を破り、その南進を阻んだ。なお、当時は、ドイツ騎士団領がポーランドの北側にあったことから、「南進」という表現を用いている。その後、ロシア・プロイセン・オーストリアによって国土が分割される18世紀後半まで国は衰退していくことになるが、国内と国外の問題の両方の原因があった。国内では、ヤゲウォ朝断絶後、選挙王政に移行し、貴族が穀物増産で力をつけたこともあり、シュラフタと呼ばれる貴族層が国内政治に関して大きな影響力を持つようになった。彼らが対立するようになり、国内政治が乱れたことが衰退の原因の1つとなった。国外の問題としては、ウクライナのコサックやスウェーデンからの侵入を受けたことが挙げられる。諸外国の国内政治への干渉が、その後のポーランド分割へとつながっていった。
これらをもとにすると、「14世紀後半から15世紀までのポーランドの状況」としては、「カジミェシュ大王の死後に、リトアニア=ポーランド王国が成立したこと」「タンネンベルクの戦いでドイツ騎士団を破り、その南進を阻んだこと」の2つが挙げられる。「ポーランドがその後衰退した背景」としては、「選挙王政となり、シュラフタ(貴族層)が対立して国内政治が乱れたこと」「ウクライナやスウェーデンなど外国の侵入を受けたこと」の2つが挙げられる。これらを指定字数の範囲内でまとめあげればよい。
まとめ
この問題は、ポーランドという世界史においてマイナーな国の一国史について問うものであった。それもあって、知識不足から答案を書き上げにくかった受験生も多くいただろう。だからといって、落ち込む必要はない。逆に言えば、東大の出題傾向を分析したうえで、地域史の知識をしっかり充足していけば、合格に一気に近づくということである。諦めずに知識の充足に努めてほしい。伸び代があるとポジティブに捉えよう。
また、ポーランドの衰退ということで、ポーランド分割について書きたくなる人もいるかもしれない。しかし、問題文中にポーランド分割についての記述があることもさることながらこの問題で問われているのは、「衰退した背景」である。ポーランド分割は、どちらかといえば「衰退した結果、起こったこと」である。よって、ポーランド分割についてよりもその原因となったポーランドの国内外の情勢について述べるべきである。
問1(b) ドイツ帝国の南部に存在した有力な少数者集団と彼らへの政策
解答例
解答例①
カトリック教徒。ビスマルクは文化闘争を進めて、説教での政治言及を禁じるなどカトリック勢力を弾圧し、政教分離を進めた。
解答例②
カトリック教徒に対して、ビスマルクは説教壇の政治利用禁止や宗教学校への監督強化などの文化闘争を展開し、政教分離を図った。
問題の要求
この問題では、「ドイツ帝国の南部に存在した有力な少数者集団がどのような人々であるのか」と「ドイツ帝国の彼らに対する政策」の2つについて述べることが求められている。
この問題は該当する有力な少数者集団が何のことを指しているのかわかれば、解けたも同然だろう。逆に、気付けない場合はこの問題を丸々落とすことになる。「プロイセンの主導でドイツ人の統一国家が成立した際」という部分から1871年に成立したドイツ帝国の話をしていると把握し、「いかなる政策が彼らに対してとられたか」という問題文の一部からドイツ帝国の宰相であったビスマルクがその少数者集団に対して何らかの支援なり弾圧なりを行ったということを推測したい。教科書に載っているビスマルクの政策を列挙できれば、自ずと解答の方向性は定まってくるはずである。
この問題は、東大に合格するようなレベルの学力の持ち主なら確実に合格点を取ってくる問題である。問題に答えるための知識を持ってはいたが、問題文を読んでドイツ南部のカトリック教徒たちのことが問われていると気付けなかった人は東大世界史の過去問の研究不足である。もっとたくさんの過去問を解いて、東大世界史の問われ方に慣れてほしい。
解説
ドイツ帝国の宰相ビスマルクは、カトリック勢力の社会的な影響力を減らし、少数派差別によって彼らを抑圧して、多数派をまとめて愛国心を育てようとした。そんなビスマルクのカトリック勢力への弾圧に対して、彼らは抵抗を続けた。これが文化闘争である。具体的には、ビスマルクはカトリック勢力に対して、説教での政治への言及を禁じ、聖職者の政治参加の抑制、宗教学校への監督強化などを行った。これらは政教分離を進めることが目的であった。なお、ドイツ帝国内のカトリック勢力は、主にポーランド人とドイツ南部の人々であった。これらの内容をまとめればよい。
ポイントとしては、「ポーランド人以外の有力な少数者集団がドイツ南部に住むカトリック教徒たちであること」「ビスマルクが文化闘争を進めて、説教での政治への言及禁止や聖職者の政治参加の抑制、宗教学校への監督強化などカトリック勢力に対して抑圧策をとり、彼らを弾圧したこと」「政教分離を進めようとしたこと」の3つである。「文化闘争」と「政教分離」という2つのキーワードはしっかりと答案に入れておきたい。
まとめ
有力な少数者集団が誰のことを指しているのかわかれば、かなり答えやすい問題であったのではないだろうか。具体的な弾圧内容までは書けなくとも、ビスマルクが南ドイツのカトリック教徒を弾圧したことくらいは書けるだろう。教科書に載っているような基本的なことはしっかりと書けるようにしておきたい。
問2(a) 清朝が藩部を掌握するためにとっていた政策
解答例
理藩院が統括し、中央の監督官のもとで、現地の支配層が統治を行う間接統治が行われた。各民族の宗教や慣習には寛容だった。
問題の要求
この問題では、「清朝が藩部を掌握するためにとっていた政策」について述べることが求められている。
これも比較的解答を書きあげやすい問題ではないだろうか。教科書をどれほどしっかりと読み込んできたかどうかが答案のレベルの差に直結するだろう。このような答案を作りやすい問題を落としているようでは、東大合格は見えてこない。
解説
ここで一度出版社ごとに教科書の記述を見ていきたい。
東京書籍 『世界史B』(2022 旧課程版)
清の広大な版図は、故郷の満洲(直轄地)を別として、北京周辺の直隷省(現在の河北省)や各省などの科挙官僚が統治した地域(直轄地)と、藩部(非直轄地)に分けて統治された。藩部には、モンゴル、青海、チベット、新疆が含まれ、中央に藩部を管理する理藩院が置かれて、モンゴルの王侯、チベットのダライ=ラマ、また新疆のウイグル人有力者(ベク)などを通じて、現地の習慣や宗教を尊重する間接統治を行った。(中略) 地方では、明代中期以来の総督・巡撫を制度化し、漢人を比較的多くあてたが、漢人は満州や藩部の統治にはかかわれないのが原則であった。
帝国書院 『世界史B』(2022 旧課程版)
内陸の藩部地域に対してはチベット仏教の保護者として、また漢人および朝貢国に対しては儒教を奉じる皇帝としてのぞみ、広大な領域を統合した。統治の基本方針は、満州人による支配を柱としながら従来の支配層・統治方式をほぼ引きつぐという現実的なものであった。このため、中国統治にあたっては明末の官制をほぼそのまま流用し、科挙を実施して儒教を尊重する姿勢をとった。藩部においては、モンゴル王侯やチベットの仏教指導者、ムスリム有力者など現地の支配層に統治をゆだね、中央に理藩院をおいて事務を担当させた。
山川 『新世界史B』(2022 旧課程版)
それ以外の、モンゴル・青海・チベット・新疆は、理藩院の統轄する藩部とされ、現地の勢力に地方支配をゆだねる方式をとった。モンゴルではモンゴル王侯、チベットではダライ=ラマ、新疆ではムスリムの在地有力者(ベグ)が、清朝の派遣する監督官とともに、それぞれの地方を支配した。
このように、今回の問題に関しては、教科書間で記述量の大きな差はない。よって、どれか1冊の教科書の記述内容を指定字数の範囲内でまとめあげれば答案ができあがるということである。
ポイントとしては、「理藩院が藩部支配の中心であったこと」「各地の族長が中央から派遣された監督官のもとで統治するという間接統治が行われたこと」の2つである。字数に余裕があれば、「清朝が藩部の宗教や慣習には寛容な姿勢を見せたこと」についても触れられるとより厚みのある答案になるだろう。
まとめ
どうだっただろうか?教科書を軸に勉強していくことの重要性がわかる問題だったのではないだろうか?東大に合格するレベルの受験生は、この手の問題では確実に合格点を取ってくる。解答例に示したような答案をさらっと書けるようにしたい。
問2(b) シンガポール独立の経緯
解答例
マレーシア連邦としてイギリスから独立を果たすも、多数派を占める中国系住民がマレー人優遇政策に反発し連邦から分離独立した。
問題の要求
この問題では、「シンガポール独立の経緯」について述べることが求められている。「シンガポールの多数派住民がどのような人だったかについて触れながら」という問題文中の条件も忘れてはいけない。これもしっかりと明示する必要がある。
この問題で問われているのは、現役生が苦手とする地域史であるうえに、現代史でもある。ただ、問題が作りやすく、問われやすそうなポイントではある。しっかりと過去問研究をし、地域史に関して多少なりとも対策を行った受験生にとっては、点を取りやすい問題かもしれない。しっかりと地域史の対策まで済ませているはずの浪人生にはバッチリ取ってほしい問題である。いずれにせよ、地域史に対する意識の高低が点数の高低に直結する問題と言える。
解説
早速だが、シンガポールには中国系住民が多い。これはなぜか?シンガポールは、マレー系住民が多数を占めるマレーシアから中国系住民が分離独立して成立した都市国家である。マレーシアはイギリスからマレーシア連邦として独立を果たした国であるが、多数派のマレー系住民と少数派の中国系住民が存在していた。しかし、マレー系住民より中国系住民の方が経済力があり、大きな格差があった。このような状況をマレー系住民は不満に感じ、政府が中心となって、マレー系住民を優遇する政策が実行された(のちに、この政策はブミプトラ政策として継続された)。これに対して反発した中国系住民は、マレーシアから分離独立してシンガポールという独自の国家を作った。
ポイントとしては、「マレー系住民を優遇する政策がマレーシアでとられたこと」「シンガポールは中国系住民を中心に成立したこと」の2つである。マレーシアの政府が中国系住民よりマレー系住民を優遇した(中国系住民が差別された)ことに中国系住民が反発してシンガポールを建国したという流れをしっかりと示したい。
まとめ
この問題は、知識として知っていれば答案を作り上げやすい問題と言える。ただ、そもそも対策できていない人も多い範囲であることを考慮すると、しっかりと対策してきた人にとってはとてもお得な問題である。近年、東大がアジア・アフリカ・太平洋といった非西欧地域の出題割合を高めていることに鑑みて、せめて共通テストレベルの知識だけでも頭に叩き込むようにしたい。
地理でも触れられている内容であるため、地理選択者は有利かもしれない。なお、京大2023では、「シンガポールが分離・独立した理由として住民構成の違いがあげられる。簡潔に説明せよ。」と問われている。
問3(a) ケベック州でフランス語を母語とする人が多くなった経緯
解答例
ケベックは仏領となってフランスの文化が持ち込まれ、フレンチ=インディアン戦争後のパリ条約でイギリス領になった。
問題の要求
この問題では、「ケベック州でフランス語を母語とする人が多くなった経緯」について述べることが求められている。
問題文で言及されているのがケベック州であることと英語以外の言語を母語としている人が多いという情報からケベック州がかつてフランスの植民地であったことと関連させて答えさせようとしていることを読み取りたい。ケベック州がかつてフランスに支配され、その影響を強く受けていたことを示せばよいため、フランスのケベック支配の歴史を本筋にして述べることになるだろう。
問題の難易度自体はさほど高くない。教科書で北米におけるフランスやイギリスの植民地支配の歴史をしっかりと読み込んで理解しておけば大丈夫だろう。解答に必要とされる知識レベルは標準的なものだ。地理選択者にとっては、典型的な論点でもある。
解説
フランスが北米における植民地支配に乗り出したのは17世紀まで遡る。17世紀初頭にブルボン朝のアンリ4世の治世に植民地としてケベックが建設された。その後、ヨーロッパで七年戦争が起きている間に、北米ではイギリスとフランスとの間でフレンチ=インディアン戦争がくりひろげられていた。この戦争後の1763年にパリ条約が結ばれ、イギリスがフランスからミシシッピ川以東のルイジアナとカナダ、スペインからはフロリダなどを獲得した。これにより、フランスの文化が定着した状態でカナダにあるケベックがイギリス領となった結果、フランス語が共通語とされる特異なイギリス領が成立した。これらの内容を指定字数内でまとめればよい。
ポイントとしては、「ケベックがフランス領となり、フランスの文化が持ち込まれたこと」「フレンチ=インディアン戦争後のパリ条約でケベックを含むカナダがイギリス領になったこと」の2つである。
条約名には主にその条約が締結された地名が用いられるため、同じ名前の条約が多数存在する。パリ条約も例に漏れず複数存在するため、「フレンチ=インディアン戦争後」「七年戦争後」といった時期を指定するワードを加えてほしい。もちろん、「1763年の」という具合に直接年号を書き加えてもよいが、年号を間違えてしまって減点されるというリスクも発生する。余計な減点を避けるという観点から、あまり年号は書かないほうがよい。書くとしても、「〇〇世紀前半の」というくらいにぼかしておくのがよいだろう。
まとめ
どうだっただろうか。一見何を問いたいのかわからなそうな問題ではある。ただ、カナダの話であること、ケベックで英語以外の言語が母語として使われていること、17〜18世紀の出来事について問われていることを踏まえると、フランスのケベック支配の歴史について問われていることが見えてくるのではないかと思う。このように、答案に必要な要素を選別する段階に至る前に、問題文で問われていることを正確に読み解く必要がある問題もある。過去問演習を積むことで、このような問題にもしっかりと対応し、見当違いの答案を作ることのないように訓練していきたい。
問3(b) 南北戦争後のアメリカ合衆国南部におけるアフリカ系住民への差別的待遇と是正のための法律の名称と法律成立時の大統領
解答例
公共施設で人種隔離する法律の制定や選挙権の制限。
公民権法
ジョンソン
問題の要求
この問題では、「南北戦争後のアメリカ合衆国南部におけるアフリカ系住民への差別的待遇の内容と、その是正を求める運動の成果として制定された法律の名称とその法律成立時の大統領の名前」の3つの事柄について述べることが求められている。
答えるべき事柄がたくさんあるが、漏れなく答案に組み込むようにしたい。内容的には、教科書に書かれているものであるし、過去問や模試などでもよく目にする内容ではあるため、大体の受験生が内容面で苦労することはないと思う。他の受験生と点差をつけるために凝った答案を作る問題というよりも、いかに短い時間で、ある程度の完成度の答案を作れるかが勝負になる問題と言えるだろう。問題に癖がなく、問われている内容が平易であることから、最終的にどの受験生も同じような点数を取ってくる可能性が高い。よって、いかに短い時間で答案を仕上げ、コスパ良く点数を稼ぐかが重要になる。時間をかけてでも答案を作るべき問題と、時間をかけずにさらっと答案を作り上げるべき問題を見分けられるようにして、短い制限時間内でより多くの点数を稼げるようにしよう。
解説
リンカーンによって奴隷解放宣言が出された南北戦争終戦後には、アメリカ国内では奴隷が解放されたが、南部では黒人に対する差別が依然として見られた。主なところとしては、秘密結社クー=クラックス=クラン(KKK)の存在である。彼らは、白人の優越を主張し、黒人に対する迫害を行った。また、解放されても、シェアクロッパー(分益小作人)となり、貧しいままの黒人も多かった。そして、1890年代からは、南部諸州で公共施設の利用を白人と黒人で分離する法律が制定され、有権者は識字テストに合格しなければ選挙権を行使できないなど、選挙においても制限が加えられた。このように、アメリカ南部では、奴隷解放後も黒人に対する差別は残り続けていた。20世紀半ばになると、国際的な人種差別に対する批判が強まり、アメリカ国内において、黒人の基本的人権を要求する公民権運動が盛り上がりを見せるようになった。これを受けて、ジョンソンによって公民権法が制定され、公共施設での人種差別が禁止された。これらの内容をまとめればよい。
ポイントとしては、「南北戦争後のアメリカ合衆国南部におけるアフリカ系住民への差別的待遇の内容」に関しては「公共施設の利用を白人と黒人で分離する法律が制定され、選挙などにおいても制限が加えられたこと」、「制定された法律の名称」は「公民権法」、「成立時の大統領」は「ジョンソン」となる。
まとめ
この問題はかなり答えやすかったのではないだろうか。先にも述べたように、問われている知識は教科書レベルのものであるし、答案をまとめるのに苦労するような問題でもない。こういったタイプの問題で、確実に点を取り、世界史で合格点を取れるようにしたい。
2017年第2問を振り返って
ポーランドやシンガポールなどの盲点となりがちな地域史が問われた問題があったものの、全体的に解きやすい問題が揃っていた年といえる。(1)(b)・(2)(a)・(3)(a)・(3)(b)といった地域史以外の問題は、問題を見た瞬間に書くべき内容が漠然とでも浮かんでこなければならないようなレベルのものであるし、地域史の対策をしている人ならば、地域史の問題も解けなければいけないようなレベルのものである。どれも教科書レベルの問題であるため、教科書を十分に活用して、世界史の対策を進めていくことが重要になる。
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