2005年東大日本史(第1問)入試問題の解答(答案例)と解説
目次
嵯峨天皇の時代 ― 政治と文化が交差した平安国家の原点
今回は、平安時代初期、嵯峨天皇の治世が日本の政治史・文化史においてどのような意味を持ったのかを考えていきます。設問にもあるように、この時代は「政治の安定」と「文化の展開」という二つの大きな流れが交錯しているのが特徴です。まずはその背景を整理した上で、年表の流れに従って時系列順に内容をひとつひとつ見ていきましょう。
設問要求の確認
設問は次のことを問うています。
- 嵯峨天皇が藤原薬子の変を経て安定した政権を築いたこと
- その政治安定が30年にわたって続いたことの歴史上での意味
- この時代が律令国家の変容と文化の発展の上で持つ意義
そしてこれらが「安定した政治権力の確立」「文化の展開」とどのように連動して進んだのか、律令国家体制の転換期としてどんな意味を持つのか、を説明することが求められています。
各年号
①809年 嵯峨天皇即位
まず嵯峨天皇が即位した背景を確認しましょう。
奈良時代の終盤、律令国家体制は大きく揺らいでいました。班田収授制の形骸化、農民の逃散、荘園の拡大などが進み、律令の枠組みでは対処できない問題が噴出していたのです。
桓武天皇も改革に尽力しましたが、依然として政争や財政問題は残されていました。そうした中で即位したのが嵯峨天皇です。政治と文化の新たな展開が始まります。
余談ですが、嵯峨天皇は、同時期の桓武天皇と同様に改革者としての性質が強いです。それゆえか、東大生から尊敬する人物としてこれら2人の天皇の名前を耳にすることがしばしばありました。こういった話題の際に古代の人物の名前が出てくるのはやや珍しい気がしませんか?それほどに為政者としての功績が認知されており、また評価が高いわけです。大学側もそうした功績をまとめさせています。一個人の人生にフォーカスして経歴を辿らせているようなものです。そう聞くとより一層深く学ぶ気になりませんでしょうか。
②810年 藤原薬子の変と蔵人所の設置
即位直後、嵯峨天皇は大きな事件に直面します。これが藤原薬子の変です。異母兄の平城上皇が復位を図り、藤原薬子・仲成兄妹とともに反旗を翻しました。(薬子は内侍として強い権力を握り、仲成は太政官の高官に就いていました。)
しかし嵯峨天皇は迅速にこれを鎮圧し、政権の主導権を確立します。そして翌年、天皇直属の側近機関である蔵人所を設置し、私的に有能な貴族を政治に登用しました。これは天皇親政体制の強化を象徴するものであり、ここから天皇中心の新たな政治が始動します。
③812年 空海『風信帖』を記す
この頃、文化面でも重要な動きが現れます。空海が『風信帖』を書いたのが812年です。嵯峨天皇は空海・最澄らと交流し、仏教や漢文化の受容を積極的に進めました。これが後の唐風化政策の基盤となっていきます。
Q:そもそも風信帖とは?
A:空海が最澄に宛てた全3通の手紙の総称で、平安前期の書と仏教交流を象徴する国宝です。王羲之の書のスタイルを模倣しているとされています。
④814年 『凌雲集』成立
さらに文化政策として、勅撰漢詩文集『凌雲集』が編纂されます。嵯峨朝では、漢詩文が官僚や為政者にとっての政治的教養や文化的権威の源泉となりつつありました。これも唐文化の積極的受容の一環です。
⑤816年 検非違使の設置
治安維持の面でも重要な改革が進められました。816年に検非違使が設置され、京都の治安や裁判事務が整備されていきます。これも政治の安定を下支えする仕組みでした。
⑥818年 唐風文化の制度化
この年には平安京の通りや建物の名称が唐風に改称されるなど、唐風文化の受容が加速し、実体化していきます。同年、『文華秀麗集』も編まれ、漢詩文集の編纂が継続されました。嵯峨天皇は自らも三筆の一人と称されるほど書の才能に秀で、文化統率者としての役割も果たしています。
⑦820年 『弘仁格式』『弘仁式』成立
政治制度の面でも改革は進行します。律令制の形骸化が進む中、嵯峨天皇は現実に即した法整備を進めました。820年には律令の補完法典として『弘仁格式』『弘仁式』が成立します。これらは既存の律令の不備を補い、現実政治に対応する柔軟な運用指針を示すものでした。
⑧821年 内裏式の成立・勧学院設置
唐の制度を取り入れた儀式次第書『内裏式』はこの頃成立しました。宮中儀礼の整備が進み、朝廷文化の格式が高まります。さらに一族の末長い繁栄を志して藤原冬嗣が勧学院を設置し、貴族子弟の官僚としての教育機関が整備されていきました。ここでは漢文・儒学が学ばれ、後の国風文化形成の下地が養われていきます。これらのことを大学別曹といい 貴族一族ごとに設けられた私的教育機関 を指します。
勧学院は藤原氏の大学別曹、学館院は橘氏の大学別曹、他にも和気氏の弘文院などがあります。国家の官立教育機関である「大学寮」と区別して、「大学別曹」は貴族家の子弟養成所のような位置付けです。
⑨823年〜827年 嵯峨天皇譲位と『経国集』編纂
823年に嵯峨天皇は譲位しますが、上皇として引き続き政治に関わり続けました。これは後の院政の先駆けとも言える側面を持っています。827年には『経国集』が編まれていたことから、引き続き漢詩文の教養が重視されていたことがわかります。
⑩833年 『令義解』完成
833年には『令義解』が完成し、律令条文の注釈書が整備されました。これにより、律令法典の再編と現実政治への整合がさらに進みました。制度的な柔軟性を持ちながらも律令国家の枠組みを維持し続ける試行錯誤がここに現れています。
⑪842年 嵯峨天皇崩御
嵯峨天皇は842年に崩御しますが、約30年にわたる安定政権の時代はその後の日本の政治文化の原型を築き上げました。
以上で与えられた年表の確認が終わりました。次に答案作成に移らんとするわけですが、今回の大問は普段の形式とテイストが異なります。
「資料文があって設問がある。設問の意図に沿って資料文の該当箇所を抽出して盛り込み答案を作る。」こうした普段の流れに当てはまらず、形式的な素振り練習を繰り返していた場合、突然このようなビジュアルを目にして面食らってしまう人もいたかもしれません。しかし大切なのは、本質自体は同じであるということです。
年表の事項それぞれが資料文と捉えて考えます。普段与えられる資料の数からするとかなり多いです。一見、意図が掴みにくいものもあります。ですが、東京大学はもちろん不要なものは載せません。全てから要素を抽出するように取り掛かります。盛り込めないものも、載せた意図はあります。練習段階ではそこを考えてみてください。”私を”ではなくとも、”東京大学を”信じてください。逆に言えば、それらを自然な日本語にて繋ぎ合わせることができればいいのでは?と思うと、自分から出る言葉の介入の余地が少なく思えて心が楽になります。
治世についての概略
嵯峨天皇の時代は日本古代国家の大きな転換点でした。
- 政治面では、藤原薬子の変を乗り越え、天皇親政を確立し、律令制度の現実的運用を模索した時代であった。
- 文化面では、唐風文化の積極的受容と、貴族社会において官僚としての漢詩文の教養化が進み、後の国風文化形成への基盤が整った時代であった。
律令国家の動揺・限界を乗り越え、新たな政治文化の枠組みを形作った嵯峨天皇期は、日本史上で重要な意義を持つと評価できます。
盛り込みたい要素
その上で、盛り込む要素を探します。
【設問要求の確認】で語った3点を意識しましょう。
①からは、律令体制が揺らいでいたという前提、また、ここから以後のことを書くんだよ、余計なことはいらないよという意思表示を読み取ります。よって体制の動揺などの前提の記述は要りませんね。実質的にここ自体から抽出する要素はなしとなりますが、「律令体制がどのように変わったか」について書くべきであることはわかります。
②からは「天皇親政体制、天皇権力の強化」を抽出します。
③からは「天皇の唐の文化の受容」を抽出します。唐風化政策に繋がります。
④からは「朝廷での勅撰漢詩文集の編纂」「漢詩文の教養化」を抽出します。
⑤からは「令外官の設置」を抽出します。現実に即した律令体制への変革です。
⑥からは、③から始まった唐風化の流れでの政策内容について「平安京の通りや建物の唐風化」を抽出します。
⑦からは「格式追加」を抽出します。これもまた⑤と同質の施策で、現実に即した政治を目指すものです。
⑧からは、③から始まった唐風化の流れでの政策内容について「儀式の唐風化」を抽出します。
また、「貴族が子孫への教育機関として大学別曹を設置し、漢文や儒学が教えられたこと」「国風文化形成の下地となったこと」を抽出します。
⑨からは、嵯峨天皇が譲位した後も漢詩文の教養が重視される世の中であったことを読み取ります。内容的には④と同質です。一過性のことではなかったという理解ができればなお良いでしょう。
⑩からは「多様に理解し得た令の解釈について、一つに定めたこと」を抽出します。
また、嵯峨天皇が譲位した後も現実に即した政治運営が目指されたことを読み取ります。本質は⑤⑦と同質です。一過性のことではなかったという理解ができればなお良いでしょう。
⑪から盛り込む要素はありませんね。単にここで問題の対象となる歴史の範囲が終わりということです。国風文化の内容自体だったり、その他これ以後にまたがることを何か思いついたとしても書く必要はないという意図の表れでしょう。
これで指定の文字数には問題なく足りるでしょう。そして、ただこれを無思慮に繋げれば、余裕で超過することでしょう。上手いこと要素を繋ぎ合わせたり、不要そうな部分をカットしたり、重複する方向性の内容の主述関係を合体させたりすることで収めることとしましょう。無論、出来る限り綺麗で、平易で、採点官様が読みやすい日本語で!
【答案例】
嵯峨朝では令の解釈を統一させ実務の円滑化を図り、格式追加や令外官の設置により現実に即した律令体制が目指され、天皇権力の強化とともに貴族社会の構築が進んだ。宮廷では勅撰漢詩集が編集され平安宮の建物や儀式が唐風化し、貴族は教養として漢詩文を作ることが重視され、大学別曹にて子孫を教育したため、貴族が漢字文化に習熟していった。このことは後の国風文化の前提となった。