2013年東大日本史(第3問)入試問題の解答(答案例)と解説
目次
江戸幕府の支配体制と武士社会の変容
江戸幕府は約260年にわたって安定した支配体制を維持しましたが、その根底には、大名・天皇・武士たちを巧みに位置付けた支配構造がありました。
今回は江戸幕府がいかにして権力の安定を実現したのか、そして武士社会がどのように変容していったのかについて考え、設問AとBを、それぞれで使用する資料文に沿って読み解いていきます。
設問要求の確認
まず今回の設問を整理しておきましょう。
設問A
(1)(2)の時期に、幕府は支配体制の中で大名と天皇にどのような役割を求めたか。
→ 大名・天皇それぞれに求めた役割・位置付けを具体的に述べる。
設問B
武家諸法度を改めたのは、武士の置かれた社会状況のどのような変化によると考えられるか。
→ 武家諸法度の内容の変化を具体的に読み取り、その背後にある武士社会の変化を指摘する。
(1)の表では、大量に送られた商品とそうでない商品との差が明瞭である。繰綿・木綿・油・醤油・酒の5品目が大量に送られているのは、どのような事情によるか。生産・加工と運輸・流通の両面に留意して、3行以内で述べなさい。
【設問A】幕府は大名と天皇にどのような役割を求めたか?
この設問では資料文⑴、⑵を活用しましょう。
資料文(1)
江戸幕府は、1615年の大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼした後、伏見城に諸大名を集めて武家諸法度を読み聞かせた。その第1条は、大名のあるべき姿について「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」と述べていた。
<解説>
1615年の「大坂の陣」で豊臣氏を滅ぼした後、幕府はただちに諸大名を統制する新たな法令として武家諸法度元和令を出しました。この法度は幕府支配体制の根幹となるもので、戦乱の再発防止・豊臣家再興の防止・諸大名の行動統制・幕府中心の武家政権の秩序確立を目的としています。
第1条で「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」と定め、大名に対し、武芸や学問に励むことへの専念を命じています。つまり、大名には私的な戦を起こさず、幕府の命令に従いながら、地方統治の実行部隊として武力と教養を備えた忠実な支配者であることを求めました。
資料文(2)
ついで幕府は、禁中並公家諸法度を天皇と公家たちに示した。その第1条は、天皇のあるべき姿について、「第一御学問なり」と述べ、皇帝による政治のあり方を説く中国唐代の書物や、平安時代の天皇が後継者に与えた訓戒書に言及している。
<解説>
同1615年に幕府は天皇・公家向けに禁中並公家諸法度を制定しました。その第1条では「第一御学問なり」→まず何より学問に励むこと、とされ、天皇に対しては政治的関与を排除し、学問と文化の象徴として存在することを求めています。ここでの学問とは中国古典や平安時代以来の訓戒書などであり、皇統の伝統と文化的権威を幕府が巧妙に利用していることがわかります。
つまり、天皇は政治から隔離された象徴的存在として、幕府の支配の正統性を裏付ける後ろ盾の役割を担わされていたのです。
- 大名に求めたのは「学問と軍事力と忠誠(従属)」→地方統治の担い手としての役割(幕藩体制の維持)を求めた。
- 天皇に求めたのは「象徴的権威の保持と非政治的存在であること」
つまり、幕府は自らが軍事・政治の実権を握る一方で、大名にはその実行部隊を、天皇にはその正統性の裏付けを担わせ、巧妙な支配構造を築いていたわけですね。
【設問B】武家諸法度の変化から武士社会の変化をどう読み取るか?
この設問では資料文⑶、⑷を活用しましょう。
資料文(3)
1651年、新将軍のもとで末期養子の禁が緩和され、1663年には殉死が禁止された。これらの項目は1683年の武家諸法度に条文として加えられた。
<解説>
ここには、江戸幕府の支配に対する姿勢の変化が表れています。
1.「末期養子の禁緩和」
そもそも末期養子 とは当主が死ぬ間際(末期)になってから、急いで養子を迎えることです。
つまり、自分の跡継ぎが決まっていないまま病に倒れたり、不慮の死を迎えたりした時に、断絶を避けるために急いで養子縁組を結ぶこと。
江戸幕府は当初、この末期養子を原則として禁止していました。なぜなら、養子を取られると、諸大名の家が自力で断絶回避できてしまい、幕府による統制力が弱まると考えたからです。よって「養子を取るなら事前に幕府に届け出て許可を取れ」というのが基本姿勢だったわけです。
では、なぜ緩和されたのでしょうか?
1651年(慶安4年)に末期養子の禁が緩和された背景には、家の断絶、つまり支配体制の不安定化を防ぎたいという幕府の思惑があったのです。
大名家が断絶すると、その領地(藩)は幕府の直轄地(天領)に組み込まれたり、他家に転封されたりします。しかし、頻繁な断絶は、領民・家臣団に混乱をもたらし、地方統治の安定を損ないます。安定した「家」の存続は、領国支配の安定、ひいては幕藩体制の安定に直結するからです。
この変革断行のきっかけのひとつであるのが 由比正雪の乱(慶安の変、同じく1651年!)です。順を追って説明します。
◆ まず、由比正雪の乱(慶安の変)とは
- 首謀者:由比正雪(ゆいしょうせつ)→ 兵学者(軍学の知識を教える人物)
- 目的:幕府転覆計画
- 内容:由比正雪は浪人(失業した武士)たちを集めてクーデター計画を企てた。その背後には、浪人層の増大という社会問題が存在していた。
◆ 由比正雪の乱が起きた背景
- 3代将軍家光の死(1651年)
将軍交代の直後で政権が不安定になりやすいタイミングだった。 - 浪人の大量発生
武断統制・改易(領地取り潰し)により多くの大名家の家臣が失職し浪人化。 - 家の断絶リスク
当主急死・跡継ぎ不在で断絶する大名家が増えると、浪人もさらに増加。
◆ 幕府の危機管理:末期養子の禁緩和へ
由比正雪の乱は「浪人問題の爆発」を象徴的に示した事件でした。この事件を受けて幕府は「家の断絶 → 浪人化 → 社会不安 → 政変リスク」を痛感し、そもそも大名家が断絶しない仕組みを整えれば良い、と考えたわけです。
+α: 武士社会が「家」を単位とする社会だった
この当時の武士社会は「家単位の身分秩序社会」です。個人の死よりも、「家」が続くことが重視された時代背景があります。だからこそ、「当主が死んでも養子を立てて家を残す」仕組みを容認する必要があったのです。
2.「殉死の禁止」
これは、従来の主従関係が「個人的な忠義(命を賭ける)」から「家として幕府に仕え、秩序を支える」方向へと変質していることを示します。もはや忠義とは、命を投げ出すことではなく、長く仕えて社会を、すなわち江戸幕府を支えることへと意味が変化していくのです。
忠義のあり方そのものが、より制度的・集団的なものに転換されていったのです。
資料文(4)
1683年の武家諸法度では、第1条は「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべき事」と改められた。
<解説>
1683年改定の武家諸法度では、第1条が「文武忠孝・礼儀」の励行を求める条文に改められます。これは武士が単なる軍事的存在から、礼節や教養を備えた支配秩序の維持者へと変化したことを表しています。
この背景には、幕府による儒学(朱子学)の重視がありました。
◆儒学の採用理由:秩序・礼儀・忠誠の強調
社会構造の変化の中で、幕府が重視したのが「儒学」でした。特に17世紀半ば以降、朱子学が正学(幕府公認の学問)とされます。
儒学(特に朱子学)は、君臣の別、父子の別など身分秩序を明確に規定し、忠(主君への誠)・孝(親への敬)・礼(礼儀作法)を重んじ、安定した封建的秩序の維持に適していたため、武士にふさわしい道徳として奨励されるようになりました。
「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべき事」という条文に見られるように、武士が教養や礼節を備え、主君に対して忠誠を尽くすことが「徳目」とされました。君主と臣下との関係を理論化する点でも、幕府の支配理念と親和性が高かったのです。これにより幕府は支配の正統性を儒学によって裏打ちし、将軍を頂点とする体制を正当化しました。
ということで、江戸時代前・中期の支配体制というのが制度と象徴をうまく利用した統治システムだったことが見えてきたと思います。このような構造をもとに、江戸幕府は260年にわたる安定政権を築き上げたのです。
【答案例】
設問A
A大名には幕府支配を軍事的に支える役割、天皇には政治権力を奮わず伝統的な君主として幕府を権威づける役割を求めた。
設問B
B戦乱が起こらなくなったことで戦場で主君に奉公することより主君の家に奉公することが求められるようになった。また儒学が重視され、身分の上下や礼儀を弁えることが求められるようになった。