2014年東大日本史(第2問)入試問題の解答(答案例)と解説
目次
応仁の乱がもたらした文化の移動 〜武士はなぜ文化の担い手となったのか〜
今回は室町時代後期、応仁の乱(1467〜1477年)という大きな内乱をきっかけに、どのようにして中央の文化が地方に広がっていったのかを考えていきたいと思います。
この時代は、ただの戦乱の時代ではありませんでした。文化という視点から見ても、日本の歴史の中で非常に重要な転換点だったのです。では、順を追って見ていきましょう。
【1】前提~概観の確認~
(1) 応仁の乱と京都の荒廃
「応仁の乱」と聞いて、どんなイメージを持ちますか?
「戦乱が長く続いた」「室町幕府が弱体化した」……その通りです。実際に10年以上も続いたこの戦いは、京都を中心に甚大な被害をもたらしました。建物は焼かれ、町は破壊され、治安は極端に悪化しました。
乱以前の京都は、政治・文化の中心地であり、多くの武士、公家、僧侶、そして芸術家たちが集っていました。しかし、戦乱によって彼らの多くが京都を離れざるを得なくなったのです。
このとき、文化も人と一緒に「移動」したんですね。
(2)武士たちの地方移住と文化の拡散
さて、移動していった者たちの中で今回注目したいのが「武士」です。武士というと、刀を振り回す戦う人というイメージが強いかもしれませんが、室町時代の武士は文化人としての側面も非常に大きかったのです。
例えば、五山の禅僧と交流し、詩文や書道、茶道にも親しんでいました。足利義満や義政などの将軍たちも、積極的に文化を保護しました。義政が後に東山文化を築くきっかけとなるのも、このような武士の文化の受容や関心が背景にあります。
京都に住んでいた教養のある武士たちが、応仁の乱によって、京都から地方へと移り住みます。すると、自然と彼らが慣れ親しんできた中央の文化も、地方へと持ち込まれていくのです。
(3)城下町の成立と文化の根付く土壌
移動した武士たちは、その地で自らの居館を中心に「城下町」を形成していきます。
そして、そこに文化を実践する施設である寺院、茶室、能楽堂などを設け、京都で体験してきた文化を再現し、根付かせていきました。
たとえば、越後では上杉氏が、加賀では前田氏が文化保護に力を入れました。学問所を開き、文化人を保護することで、その地に新たな文化の拠点が形成されていったのです。
(4)文化の「移植」ではなく「融合」
重要なのは、文化が単に「中央から地方にコピーされた」だけではない、という点です。
地方に伝わった京都文化は、その地の風土や伝統と融合しながら新しい形へと変容していきます。つまり、地方は中央の文化を受け入れる受動的な存在ではなく、独自の文化を創造する舞台になっていたのです。
「僧侶」や「連歌師」などの文化人が地方で保護され、活動の場を得たことで、各地に文化サロンのような場が広がりました。
以上を踏まえて史料と問いの確認をしていきましょう。
【2】各資料文の確認
(1)応仁の乱以前の武士と在京制
応仁の乱以前、遠国を除き、守護は原則として在京し、複数国の守護を兼ねる家では、守護代も在京することが多かった。乱以後には、ほぼ恒常的に在京した守護は細川氏だけであった。
ここでは、応仁の乱以前の守護の在京制について述べられています。守護は原則として京都に常駐しており、複数国を領有する守護であっても、守護代を通して支配をしていました。この原則によって、武士たちは政治だけでなく、京都という中央文化にも触れる機会を持っていたのです。
例外として挙げられている細川氏に関しては本筋と逸れるため、後述します。
(2)応仁の乱直前の武士と文化人との交遊
1463 年に没したある武士は、京都に居住し、五山の禅僧や中下級の公家と日常的に交流するとともに、立花の名手池坊専慶に庇護を加えていた。
1463年に没した武士が、京都で禅僧や中下級の公家と日常的に交流していたこと、立花の名手(池坊専慶)と交わっていたことが記されています。
ここから、武士がただ軍事的な存在であるだけでなく、文化サロンの一員として教養人・文化人と親しくしていたことがわかります。彼らは詩歌、連歌、花道、そして書や茶といった分野にも通じており、まさに皆さんの目指す「文武両道」だったのです。素晴らしいですね。
(3)武士は文化の実作者でもあった
応仁の乱以前に京都で活躍し、七賢と称された連歌の名手には、山名氏の家臣など3人の武士が含まれていた。
応仁の乱以前に活躍していた連歌師の中に、室町幕府の中枢を担う四職家の一つである「山名氏の家臣」など、実際に武士が含まれていたことが記されています。
これは武士は文化の支援者として振る舞っていただけでなく、自らも文化の実作者として活動していたことを示しているのです。
(4)応仁の乱後の変化と地方への文化伝播
応仁の乱以後、宗祗は、朝倉氏の越前一乗谷、上杉氏の越後府中、大内氏の周防山口などを訪れ、連歌の指導や古典の講義を行った。
応仁の乱後、京都の混乱から逃れた文化人(ここでは連歌師宗祇が例に出ています)が地方を巡りながら講義や指導を行ったことが述べられています。宗祇は越前の一乗谷(朝倉氏)、越後府中(上杉氏)、周防山口(大内氏)などを訪れています。
つまり、京都の荒廃によって、文化人たちが地方へ流出し、彼らの受け皿であった地方に中央の文化を広め、また、その土地の武士たちや戦国大名は文化を保護する立場だったということです。
【3】設問の主旨
設問では「武士の果たした役割はどのようなものであったか?」を、「応仁の乱前後の変化」を意識しながら論じなさいと求めています。
(1)武士の果たした役割
中央文化の伝播者・支援者・担い手として、地方に文化を広める役割を果たした。
応仁の乱後、武士は移住した地方において、文化人を保護し、中央文化を根付かせる存在となりました。従来の享受者という立場を超えて、文化を地方に伝え、実践する役割を担ったのです。
(2)応仁の乱前後における武士と都市(京都)との関わりの変化
〈前〉武士は京都に在住し、政治・文化の中心に深く関わっていた。
〈後〉武士は京都を離れて地方に移り、地方から文化を支える存在となった。
乱前は守護やその家臣が京都に常駐し、文化人と日常的に交わっていましたが、乱後は京都の荒廃によって地方へ移動し、今度は地方で文化を受け入れ、支える立場に変わったのです。
【答案例】
在京守護やその家臣は積極的に僧侶や公家と交流していたため、次第に武士たちも中央文化の中心的な担い手になった。応仁の乱後にほとんどの守護が下国し城下町を形成したため多数の武士が地方に移り、また荒廃した京都から逃れ経済的に困窮していた文化人を守護たちが保護したことで、中央文化が地方の一部でも栄えた。このように武士たちは中央文化を地方へ移植する役割を担った。
【備考】例外として述べられている乱後の細川氏の在京~なぜ細川氏は在京し続けたのか?~
1. 室町幕府の権力中枢にいたから
細川氏は三管領(細川・斯波・畠山)の一角で、将軍を補佐する管領職を世襲する立場にあり、在京は単なる「駐在」ではなく、幕政を担う義務と特権だったのです。
- 管領は、将軍に代わって政務を行う「副将軍的存在」
- 京都にいなければ、政務や人事に関与できない
そのため、細川氏が京都にい続けることは、権威と利権を維持する意味を持ちました。では、なぜ三管領の中で細川氏だけなのでしょうか。
2. 応仁の乱の勝者として実権を握り続けたから
応仁の乱では、東軍の細川勝元が主導者の一人で、結果的に勝者の立場となりました。
乱後、対抗馬である西軍の山名氏や畠山氏は没落し、細川家は幕府内で最大の権力者になりました。
- 勝元の死後も、養子の政元が権力を継承
- 将軍任命(足利義澄)にも関与 → 将軍を「傀儡」にするほどの影響力を持つ
つまり、京都にとどまることで権力を行使できるという実利があったのです。
3. そもそも京都から全国支配を出来た構造上の理由
細川氏は複数国の守護であり、京都にいながら全国に命令を出す体制を維持しました。細川氏は領国支配を重臣(家宰など)に任せる分権体制を確立していたため、当主が京都にいても支障がありませんでした。
- 京都にとどまる=中央政権の中核にいて、命令を全国に出せる
- 自領に下向するよりも、政治的影響力が強かった
さらに在京衆という存在も大きく、京都で政治活動を行う家臣団を基盤として、京都に政治と軍事の中枢を置いたまま地方の領地までを統治できたのです。