2005年東大日本史(第2問)入試問題の解答(答案例)と解説

武士の法と公正―北条泰時の式目と朝幕関係

今回のテーマは、鎌倉時代の真ん中。北条泰時が執権を務めていた頃の、重要な文書について一緒に読み解いていきます。

ではさっそく、授業の中心となるのはこちらの史料です。

この式目を作るにあたっては、何を本説①としてちゅうし載せたのかと、人々がさだめて非難を加えることもありましょう。まことに、これといった本文ほんもん②に依拠したということもありませんが、ただ道理の指し示すところを記したものです。(中略)あらかじめ御成敗のありかたを定めて、人の身分の高下にかかわらず、偏りなく裁定されるように、子細を記録しておいたものです。この状は、法令③の教えと異なるところも少々ありますが、(中略)もっぱら武家の人々へのはからいのためばかりのものです。これによって、京都の御沙汰や律令の掟は、少しも改まるべきものではありません。およそ、法令の教えは尊いものですが、武家の人々や民間の人々には、それをうかがい知っている者など、百人千人のうちに一人二人もおりません。(中略)京都の人々が非難を加えることがありましたなら、こうした趣旨を心得た上で、応答してください。

(注)①本説、②本文:典拠とすべき典籍ないし文章 
   ③法令:律令ないし公家法

 これは、北条泰時が自らの弟である六波羅探題重時に宛てて送った書状の一部です。内容は、彼が制定した「御成敗式目」、つまり武士社会のルールブックをどんな意図で作ったか、その目的を語るもののようです。

泰時の意図

泰時は式目を作ろうと決心しました。そこでまず押さえておきたいのは、なぜ武士にとって独自の法律が必要だったのかという点です。

当時、朝廷にはすでに律令制という法体系がありました。しかし、現実の武士の世界では、それがあまりうまく機能していなかったのです。将軍との封建関係のもと武士たちは戦で土地を手に入れ、御家人として幕府に仕えるという社会的役割を担っていましたが、律令法はこうした武士社会の実態にはそぐわないことが多かったのです。

さらに史料に「武家の人々や民間の人々には、それをうかがい知っている者など、百人千人のうちに一人二人もおりません。」とあるようにそもそもほとんどの御家人たちはその内容すら知りません。

泰時はこれらの点をよく理解していました。だからこそ、朝廷の古い法典に頼るだけでなく、「武家の実情に合った、実際に使えるルール」を自分たちで整備する必要があると考えたのです。

【設問A】

この式目を制定した意図について、この書状から読み取れることを、2行以内で述べなさい。

ここで問われているのは、北条泰時がこの法を作った「目的」です。史料をよく読むと、彼はこう言っています。

ただ道理の指し示すところを記したものです。(中略)あらかじめ成敗のありかたを定めて、人の身分の高下にかかわらず、偏りなく裁定されるように、子細を記録しておいたものです。

つまり、彼が重視したのは「形式的な権威による縛り付け」ではなく、裁判における公平な「道理=理にかなった判断」です。朝廷の法律にはない、武士「人々が納得できる」ルールの方が大切だ、と彼は考えていたのです。

この意図をまとめるならば、武家社会の実情に即した、公平かつ道理にかなった裁判を広く実現するために制定した、と言えるでしょう:

【設問B

泰時はなぜこの書状を書き送ったのか。当時の朝廷と幕府との関係をふまえて、4行以内で説明しなさい。

ここにも背景があります。歴史を振り返ってみましょう。

この文書が書かれた頃、幕府は承久の乱(1221年)に勝利し、朝廷に対して政治的優位を確立していました。その後、京都に六波羅探題という幕府の出先機関を設置し、朝廷の監視と統制を強化していたのです。

でも、都(京都)はやはり「公家社会」で朝廷の権威が残っていました。でも、武士が京都にいたとて、武家の慣習は公家の慣習や律令とは異なります。だから泰時は、「武家の法は武士のためだけのものだから、朝廷の法と違っても問題ないんだ」という、あくまで公家側と共存しようとする意図をはっきり示すように弟に伝えていたのです。

では、この背景をふまえて整理してみましょう。

御成敗式目と朝廷の法との違いに戸惑う京都の人々や朝廷に対して、御成敗式目の目的と、そして京都でのルールに干渉するものではないことを説明させるための書状といえます。

【まとめ】

「御成敗式目」という日本初の武家法典が、どのような背景で、どのような意図をもって作られたのかを学びました。

ここでの要点は、形式ではなく「実情」、そして「理にかなった統治」です。北条泰時は、武士たちに公正な裁定が下される社会をつくるため、朝廷とは異なる新しいルールを提示しました。

武士の世が本格化する中で、「武士のための法」が整備されたということは、中世の政治体制が本格的に幕府主導になった証でもあるのです。

+α 鎌倉時代における朝幕関係の変容と「承久の乱」が果たした意義

鎌倉時代における「朝廷と幕府の関係」、すなわち「朝幕関係」の変容について整理するためには、解答に内容を盛り込む必要性はないものの承久の乱についても理解しておく必要があります。

中世日本史において、朝廷(天皇・上皇)と幕府(鎌倉政権)の「二元支配」は極めて重要な政治構造です。形式的には朝廷が日本の頂点であり続けた一方で、実質的な支配力は次第に武士たちに移っていきました。

その力関係の分岐点となったのが、「承久の乱」(1221年)です。これは後鳥羽上皇北条義時追討の宣旨を発し、幕府に対抗した政治的・軍事的反乱でした。

この乱の結果、幕府は軍事力と政治力を以て上皇方を打ち破り、後鳥羽・順徳・土御門といった上皇・天皇は配流され、朝廷の政治的な威信は大きく損なわれ、日本は幕府主導で進んでいく形になりました

重要な変化

1. 幕府の朝廷に対する優位の確立

  • 承久の乱以降、幕府は形式上ではなく実質的にも朝廷に対して優位な立場を明確にしました。
  • 朝廷に対する監視皇位継承への介入が制度化されました。
  • 上皇方、天皇方の所領が没収されました。

2. 「六波羅探題」の設置

  • 京都に幕府の出先機関として六波羅探題を設置し、朝廷を直接監視。
  • 西国における幕府の統制力が増し、武家政権の全国的支配体制が確立していきました。

3. 執権・北条氏の地位確立

  • 源氏将軍の断絶後、執権北条氏が権力を強化。
  • 承久の乱を契機に、鎌倉幕府の内部体制も安定

幕府の支配力強化が表れています。後鳥羽上皇の追討命令を幕府が拒否したこと、またその後の新補地頭の設置六波羅探題の派遣などが挙げられます。

また、皇位継承における幕府の影響力も重要です。後の時代には持明院統と大覚寺統という両統迭立の体制が生じ、幕府が優位に立ち皇位継承に関与する体制が定着していたことが入試にも取り上げられています。

まとめ

承久の乱は単なる政変ではなく、中世の政治秩序を決定づける転換点でした。鎌倉幕府が朝廷に対して実質的支配権を確立し、以後の武家政権の在り方を決定づけたのです。

【答案例】

設問A

律令や公家法を知らない御家人たちに、武士の道理に従う裁判基準を示すことで、公平な裁定が下される武家の秩序を作ろうとした。

設問B

承久の乱後、幕府は朝廷より優位になり朝廷政治に干渉したため警戒されていた。しかしあくまで朝廷と共存しながら幕府の運営を目論む泰時は、貞永式目の適用範囲が御家人に限り律令や公家法を否定するわけではないと強調することで朝廷の警戒を解こうとした。

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