2005年東大日本史(第3問)入試問題の解答(答案例)と解説

江戸時代の軍事動員と石高制の関係

今回は江戸時代の「軍事動員の仕組み」について、その制度の背景にある「石高制」に注目しながら考えていきます。

江戸幕府というのは、約260年間も続いた非常に長い政権でした。その間、大きな戦争もなく、平和な時代が続いたというイメージがありますよね。でも、だからといって軍隊なんていらなかったというわけではなく幕府は全国の武士や農民から兵や労働力をしっかり動員できる体制を整えていました。

では、どうやって「全国から」「公平に」「効率よく」兵を集めていたのでしょうか?

今回はそのカギとなる制度「石高制」に着目して、資料文を一つ一つ読み解いていきましょう。

設問要求の確認

今回の設問は、次の内容でした。

このような統一基準を持った軍事動員を可能にした制度について、江戸時代の支配の仕組みに触れながら、5行以内で説明しなさい。

まず押さえておくべきなのは、「このような」という指示語が何を指しているのか、ということです。これは資料文(1)~(3)全体を踏まえた内容だと考えましょう。

そして、求められているのは以下の3点です。

  • 「統一基準」とは何か?
  • どうしてそれが軍事動員を可能にしたのか?
  • 江戸時代の支配の仕組みとどのようにつながるのか?

それでは、この三つのポイントを意識しながら、資料文を一つずつ見ていきます。

資料文(1)軍事動員の仕組み

資料文(1)には、こんなことが書かれていましたね。

江戸時代、幕府の軍事力は直参である旗本・御家人とともに、大名から差し出される兵力から成っていた。大名は、将軍の上洛や日光社参には家臣団を率いて御供したが、これらも軍事動員の一種であった。

まず押さえておきたいのは、旗本・御家人(直参)と各地の大名についてです。彼らは江戸時代の軍事力の中心を担っていたことはもちろん、軍事以外のことも担っていました。

例えば、将軍が上洛(京都にのぼること。洛[らく]は京都の別称。)したり、日光東照宮にお参りに行ったりするときには、大名がその家臣たちを連れていきました。こうした儀礼的な行動も、広い意味での「軍事動員」とされていたこです。

このように、江戸時代の軍事動員というのは、ただ戦うためだけの仕組みではありませんでした。

では、何故これらのことを行っていたかというと、「将軍の威厳を支える演出」や「秩序の象徴」としての意味合いがあったわけです。

軍事行動をさせることで、将軍を頂点とした上下関係を再認識させ、幕府の体制の秩序を維持していたということなのです。

資料文(2)軍事動員における統一基準

資料文(2)では、こんな内容が示されています。

幕府は、動員する軍勢の基準を定めた。寛永年間の規定によると、知行高1万石の大名は、馬上(騎乗の武士)10騎・鉄砲20挺・弓10張・槍30本などを整えるべきものとされ、扶持米を幕府から支給された。

ここが、設問で問われていた「統一基準」に最も直接関わる部分です。

幕府は、大名の知行高(=領地の石高)をもとに、「これだけの兵士と武器を用意しなさい」と細かく基準を定めていたのです。

たとえば、1万石の大名なら「鉄砲20挺」「槍30本」といった具合に、石高に応じて負担すべき軍備が数値化されていたわけです。

そしてその見返りとして、大名には「扶持米(ふちまい)」が与えられることもありました。これは幕府が一方的に命令するだけでなく、中央からの支援とセットで行われていた制度だとわかります。

資料文(3)農民たちの動員にも基準があった】

資料文(3)では、旗本や大名に関する内容だけでなく村の百姓たちがどう関わっていたのかが示されています。

村々からは百姓が兵糧や物資輸送などのために夫役(陣夫役)として徴発された。たとえば幕末に、幕府の年貢米を戦場まで輸送した際には、村高1000石につき5人が基準となった。

ここでは、農民が直接戦うのではなく、兵糧や武器を運ぶ「陣夫役」として動員されていたことがわかります。

ポイントは、この場合でもやはり「村高=村の石高」に基づいて人員が決められていたということです。

つまり、大名も百姓も、石高という一つの共通指標によって動員の内容が決まっていたのです。

しかも、この「村高」は、全国的に行われた検地(=土地の実測調査)によって決まったものでした。幕府はこの検地をもとに、全国の農村の生産力を正確に把握し、その上で年貢や労役の割り当てを行っていたのです。

【まとめ】

では、ここまでの話を整理してみましょう。

江戸時代の軍事動員制度は、「石高制」という、土地の生産力を数値化した基準をもとに成立していました。

  • 武士には、その石高に応じて軍備と兵士を整える義務を課していた。
  • 百姓には、村の石高に応じて陣夫役としての動員を課していた。
  • 幕府→大名→百姓というピラミッド型の支配構造のもとで、全体が統一されたルールを用いて運営していた。

要するに、今から少し前の日本では「お米の取れる量」が、国を動かしていたということなんです。

これって、ちょっと面白くないですか?

【答案例】

5行以内という指定でした。

江戸時代には全国の土地の生産力を一律の基準に従って米量で表示する石高制が敷かれ、石高を基準に幕府が武士や百姓を支配する仕組みになっていた。武士は主君から知行された石高に応じて軍役を負担することが定められ、百姓は検地によって確定された村ごとの石高に応じて年貢や陣夫役を負担することが定められた。(146字)

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