2019年東大日本史(第2問)入試問題の解答(答案例)と解説
目次
講義テーマ「承久の乱と皇統分裂、幕府の朝廷支配」
2019年東大日本史第2問を題材に、「承久の乱から始まる朝廷と幕府の関係変化」について学んでいきます。鎌倉時代前期から中期にかけて、朝廷の内部に生じた変化と、そこに対する幕府の対応が問われる問題です。
ポイントは、「幕府の支配体制の確立」と、「持明院統と大覚寺統の対立がなぜ幕府を巻き込むことになったのか」という2点です。
設問要求の確認
設問A
後鳥羽上皇が隠岐に流される原因となった事件について、その事件がその後の朝廷と幕府の関係に与えた影響にもふれつつ、2行以内で説明しなさい。
ポイント:
● 「原因となった事件」=具体的な事件名が必要
● 「その後の朝廷と幕府の関係に与えた影響」に必ず触れる
設問B
持明院統と大覚寺統の双方から鎌倉に使者が派遣されたのはなぜか。次の系図を参考に、朝廷の側の事情、およびAの事件以後の朝廷と幕府の関係に留意して、3行以内で述べなさい。
ポイント:
● なぜ「双方から」なのか?(皇統分裂の背景を踏まえる)
● 「朝廷の事情」と「Aの事件以後の朝廷と幕府の関係」の両方に言及
①後鳥羽上皇の帰京提案と幕府の拒否 幕府優位を可視化
資料(1)の文章はこうでした
「1235年、隠岐に流されていた後鳥羽上皇の帰京を望む声が朝廷で高まったことをうけ、当時の朝廷を主導していた九条道家は鎌倉幕府に後鳥羽上皇の帰京を提案したが、幕府は拒否した。」
この資料が示しているのは、「後鳥羽上皇の隠岐配流という事態が朝廷内では依然として関心が高く、復帰を望む声も存在していた」という事実です。
それに対し、幕府が明確に「拒否」という姿勢をとったことは、当時の権力構造を象徴しています。
● 設問Aは「後鳥羽上皇が流された原因となった事件」と、その事件後の朝幕関係の変化を2行で説明する問題。資料①は、まさに事件後の関係変化(=幕府優位の確立)を示す情報です。
● 設問Bでは、両統からの使者派遣の理由(=皇位継承の実質決定権が幕府側へ)を述べますが、その前提となる「Aの事件以後の朝幕関係」を証する根拠としても資料①が効きます。Aの核心=「承久の乱の勝利 → 幕府優位の確立」を、この一文が具体的に裏づけています。
ここで押さえるべき要点
「朝廷が提案」→「幕府が拒否」。この意思決定の最終権限が幕府にあるという構図が大切です。資料①の意味を朝幕の力関係の可視化として読み解きます
設問Aは「原因となった事件+その後の影響」です。資料①は事件“後”の具体的現象を記すため、事件それ自体の特定(=承久の乱)を別途自分の知識で補う必要があります。
承久の乱とは何か?
後鳥羽上皇は、かつて天皇を退いた後、上皇として院政を行っていました。
その中で、政治的に力を増していた鎌倉幕府に対し、強い危機感と敵意を抱いていたのです。
当時、幕府は東国だけでなく、朝廷の官位任命などにも関与し始めており、朝廷側の政治的主導権が徐々に奪われつつありました。
これに不満を抱いた後鳥羽上皇は、「院政による朝廷支配を再強化するため」、つまり幕府による干渉を排除し、再び朝廷中心の政治を取り戻すために、武力行使に踏み切ったのです。
それが承久の乱です。後鳥羽上皇は西国の武士たちに呼びかけて倒幕の兵を挙げましたが、鎌倉幕府は東国武士を動員し、京に進軍。圧倒的な戦力差によって上皇側は完敗しました。
承久の乱後の処分と構造の変化
この敗北の結果として、後鳥羽上皇は隠岐に、土御門上皇は土佐に、順徳上皇は佐渡にと、それぞれ配流されます。
さらに幕府は、ただ単に上皇を処罰するだけではなく、政治体制そのものを再構築しました。
そのなかで1つ重要なのが、六波羅探題の設置です。これは、京都における幕府の出先機関であり、朝廷の監視・朝廷官人の人事管理・反乱の未然防止などを目的としていました。
この時点で、幕府が優位にある上下関係が実質的に確立されたのです。
“因果の取り違え”に注意(誤答例)
「監視や皇位継承への介入をしたから、幕府が朝廷より優位になった」
としてしまうのはありがちな誤りで、因果関係がおかしいので注意です。
→ Aのロジックは「承久の乱の勝利→優位確立」→(結果として)監視・介入が日常化。ここを崩さない。
優位確立の中身を肉付けする知識(答案に“入れてもよい”周辺要素)
資料①自体は「帰京拒否」で優位を示すものですが、自分の知識で答案の補う一案として、西国への支配拡張(新補地頭の設置など)に触れても良いでしょう。
しかしこれはあくまでサブ要素です。他に必要な項目を満たしたうえで要素が足りない場合に補うくらいでが良いでしょう。
事件の特定→影響の提示の順で、因果を崩さずにまとめましょう。
②皇統分裂 持明院統と大覚寺統の誕生
資料(2)の文章はこうでした
「後嵯峨上皇は、後深草上皇と亀山天皇のどちらが次に院政を行うか決めかねていた。そのため、後嵯峨上皇の没後、天皇家は持明院統と大覚寺統に分かれた。」
この資料文は、日本における最大級の皇統分裂「両統迭立」の発端を、極めて簡潔に記述したものです。
この背後には、朝廷内部の構造と幕府の戦略が絡み合った政治状況がありました。
ここで押さえるべき要点
● 設問Bで直接問われる部分です。
「持明院統と大覚寺統の双方から鎌倉に使者が派遣されたのはなぜか。」
ここでは、「皇統がなぜ二つに分裂したか」を理解しておくことが、使者派遣の必然性を説明する前提となります。
● 設問Aの「事件以後、幕府優位が確立」という前提の上に、資料②の「皇統の分裂」を重ねると、分裂した皇統が、皇位継承を決める力を持つ幕府に働きかけるという構造が鮮明になります。
ここでBに対しての解答作成フローを考えてみます。
(a) 皇統分裂の発端
持明院統と大覚寺統が皇統をめぐって対立していた
→ ここで「二つの統」が並び立つ状況が整理されます。
(b) 幕府の存在
ただし、皇位継承の実質的な決定権は幕府が握っていた
→ これにより、両統はただ争うのではなく、幕府を“審判役”として仰ぐしかなくなった。
(c) 双方から使者が派遣された理由
だからこそ、両統が自派の系統に皇位を継承してもらうため、幕府へ積極的に働きかけた
以上から考えたとき、資料⑵は「皇統が二つに分かれた」という事実を押さえるための根拠です。
これだけではまだ「なぜ使者が派遣されたか」までは答えられません。資料⑶と組み合わせて、「幕府が決定権を持ったから、両統が働きかけた」という流れに接続しましょう。
③“鎌倉=幕府”が裁く皇位継承
資料(3)の文章はこうでした
「持明院統と大覚寺統の双方からはしばしば鎌倉に使者が派遣された。そのありさまは『競馬のごとし』と言われた。」
非常に短い記述ながら、この資料は幕府と朝廷の関係性の本質を突いた、極めて重要な情報を含んでいます。
ここで押さえるべき要点
設問Bは「なぜ両統から鎌倉に使者が派遣されたのか」を、系図とAの事件後(=承久の乱後)の朝幕関係を踏まえて説明せよ、という問いです。両統が競うように使者を送ったこと を示すと同時に「鎌倉=鎌倉幕府」が裁定権を持っていたことを読み取らせます。この際に、鎌倉というのは鎌倉幕府のことだ、という読み替えが必要となります。
両統からの使者派遣という事実の意味
資料文の冒頭にある「持明院統と大覚寺統の双方からはしばしば鎌倉に使者が派遣された」という記述。これは単なる挨拶や礼儀的な派遣ではなく、自らの皇統から天皇を出すことを幕府に認めてもらうための「政治的交渉使節」です。
つまり、朝廷側(持明院統・大覚寺統)にとって、幕府は「皇位継承の裁定権」を握る存在であり、自分たちの皇子を天皇として即位させるには、幕府に対して強くアピールする必要があったというわけです。
この背景には、すでに資料(2)で見たように、皇統の分裂(両統迭立)があり、事態は動かず、最終的な決定権を幕府が握っていたことがありました。
そのため、両統は幕府の支持を得ようと、頻繁に使者を鎌倉へ送ることになったのです。
なぜ「競馬のごとし」なのか? 比喩に込められた意味
資料文の後半にある「そのありさまは『競馬のごとし』と言われた」という一節は、非常に印象的です。この表現からは以下のような含意が読み取れます。
1. 両統が幕府に対して激しく競い合っていた
→ 使者の派遣頻度や熱量が並大抵ではなかったことを示す
2. 幕府に対し、朝廷側が完全に従属していた構造
→ まるでレースの勝敗を「裁定員たる幕府」に委ねるような姿勢。政治的な主導権が朝廷ではなく、幕府にあるという事実の比喩的描写
「競馬のごとし」という言葉は、両統が皇位継承の幕府裁定をめぐり、先を争って鎌倉(=幕府)へ使者を送った状況を思い浮かべさせます。承久の乱後の幕府優位という構造の証拠になっているというわけです。
【解答の目付と答案例】
設問A:承久の乱後の幕府と朝廷の関係
以上を踏まえた解答の目付
Aで大事なのは“承久の乱によって幕府の優位が確立した”と必ず答えることです。さらに具体的に、朝廷監視とか、皇位継承への介入が日常化した、というようなことを書いていけばいいでしょう
● 事件名を出す(承久の乱)。
● 幕府の優位が確立したことを必ず入れる。
● 具体例:朝廷監視(六波羅探題)、皇位継承介入。
設問B:両統分裂と幕府の役割
以上を踏まえた解答の目付
● 皇統分裂(持明院統と大覚寺統)。
● 承久の乱後、皇位継承の実質決定権は幕府にある。
● 両統は幕府に承認を求めて競って使者を送った(=競馬のごとし)。
以上のことから答案を作成してみます。
A 後鳥上皇が挙兵し幕府に敗れた承久の乱の後、朝廷に対して幕府の優位が確立し、朝延監視や皇位継承介入などが日常化した。
B 持明院統と大覚寺続が皇統をめぐって対立していたものの、皇位継承の実質的な決定権は幕府が握っていたため、両続が自らの系統に皇位を継承してもらえるように幕府へ積極的にはたらきかけた。



