2020年東大日本史(第2問)入試問題の解答(答案例)と解説
目次
山鉾巡行と16世紀京都の町衆自治」
今回は2020年の東大日本史第2問を扱います。テーマは京都の夏の風物詩「祇園祭」の 山鉾巡行に注目しながら、16世紀の京都において町がどのように自立的に運営されていたのかを読み解いていきます。
この問題はテーマとして身近で、祇園祭は現代でも知られる京都の一大行事ですが、実はその根底には、町の人々の自治的な地域運営があったのです。山鉾巡行は単なる華やかな行列ではなく、町の政治・経済・社会構造とも密接に結びついていた、ということを見ていきましょう。
設問要求の確認
設問は次のように問うています
「16世紀において、山鉾はどのように運営され、それは町の自治のあり方にどのように影響したのか。5行以内で述べよ。」
ここで問われているのは二点です。
- 運営方法(山鉾はどのように運営されたか)
- 自治への影響(そのことが町の自治にどのように関わったか)
生徒の答案を見ていても、運営と自治を混同している答案が多くありました。両者を明確に分けて論述することが重要です。
①祇園祭延期命令と町の対応
資料⑴には次のように記されています。
「1533年、祇園祭を延期するよう室町幕府が命じると、下京の六十六町の月行事たちは、山鉾巡行は行いたいと主張した。」
つまり、室町幕府が祇園祭そのものを中止・延期しようとしたにもかかわらず、町の代表者たちがこれに反発し、山鉾巡行を敢行しようとしたことが描かれています。
ここから読み取れるのは「幕府に対抗する町人の意志」と「町の代表(=月行事)による自治的決断」の二点です。
要点と解説
- 「月行事が中心となって祇園祭を再興。」
- 「中断されたものを自分たちで復活させてやっていく」
- 「幕府が禁止・延期を命じたが、それに反発してまで交渉している」
というのがポイントです。
要するに、「月行事=町の代表者層」が主体的に行動したということです。幕府の命令に従うのではなく、「山鉾巡行はやりたい」と強く主張し、結果的に祇園祭を自らの手で継続させたのです。
町の力が強くなり、幕府にお願いをして屈服させる、説得して意見を通す、という経験を積んでいくわけです。そうすると『次も幕府に行くぞ』とさらに自治の力が強まっていくことになります。
この時期の京都は、応仁の乱後の荒廃を経て、町衆が連合して都市の秩序を維持しようとしていました。幕府の権威は弱体化しており、その空白を埋めるように町人自治が成長していました。この資料は「祇園祭」という祭礼を通じて町衆の姿勢を読み取る手がかりなのです。
「山鉾巡行の運営構造が、そのまま町の自治のあり方に生かされている」と理解すると、この資料の意義がはっきり見えてきます。
②山鉾の費用調達に見る町の財政的自治
資料⑵には次のように書かれています。
「下京の各町では、祇園祭の山鉾を確実に用意するため、他町の者への土地を売却することを禁じるよう幕府に求めたり、町の住人に課課された『祇園会出銭』から『山の綱引き賃』を支出したりした。」
つまり、山鉾を維持・準備するために、町人が直接的に経済的な負担を担ったこと、さらに幕府に対して規制を要請することで運営を守ったことが示されています。
この資料は、祭礼の運営が「自治的な経済活動」と「幕府権威の戦略的活用」によって支えられていたことを明らかにしています。
要点と解説
町の住人に付加されていた祇園会出銭から祭礼運営の費用を支出した、と書いてあります。所属しているだけで会費みたいなものが徴収され、それを山鉾のために支出していたというわけです。
ここからわかるのは、単なる寄付や一時的な協力ではなく、町人共同体の構成員である限り、恒常的に経済的負担を引き受ける仕組みが存在したという点です。これは、現代でいえば自治会費や町内会費のようなものに近いでしょう。
また、土地売却禁止の要請の記述については、お金に困った人が土地を売ってしまうと山鉾巡行がうまくいかない。だからそれを幕府にやめてもらうよう要請したということになりますね。つまり、住民個人の経済事情よりも、町全体としての祭礼維持が優先されたのです。
このような「住民負担による自治財源」は、中世都市の自立性をよく示しています。町人は単なる祭礼の観客ではなく、自分たちで資金を拠出し、幕府に対しても規制を働きかける能動的な主体だったのです。さらに町人たちは幕府を屈服させる場面もあれば、利用する場面もあるわけです。16世紀の町が高度な自治財政機能を有していたことの証拠です。
③洛中洛外図屏風に描かれた山鉾巡行
資料③には次のように記されています。
「上杉本『洛中洛外図屏風』に描かれている山鉾巡行の場面をみると(図1)、人々に綱で引かれて長刀鉾が右方向へと進み、蟷螂山、傘鉾があとに続いている。」
ここで注目すべきは、洛中洛外図屏風という絵画史料を使い、山鉾巡行の実際の様子を視覚的に確認している点です。長刀鉾が先頭を進み、後続の山や鉾が整然と続いている場面が描かれています。
つまり、町ごとの山鉾が秩序をもって巡行していた様子が表現されているといえるのです。
要点と解説
どこになにが描かれているのかは大した問題ではありません。重要なのは、街同士で協力し、行列が整然と進み、山鉾が連なっていることを読み取ることができるかです。
この資料は具体的にどの鉾かを識別することよりも、何かしらのルールが存在していて、町がそれに従いながら山鉾を分担し、全体で秩序だった巡行を実現していたことを把握することに意味があります。
この「協力」「整列」「ルールの存在」という三要素は、山鉾巡行を通じて町の結束が強まっていたことを示す根拠になります。
この屏風絵が描かれた16世紀前半の京都は、先述のように応仁の乱後の復興期であり、都市機能を町人自治が担っていた時期です。
山鉾巡行が秩序立って行われていたという事実は、町同士が単なる隣人関係を超えて、共同体として連帯し合っていたことを物語ります。
当時から現代の祇園祭まで続く町同士の協力体制が確認できる資料でしたね。
④町名の存続と共同体の継続性
資料⑷には次のように記されています。
「図2に、月鉾町・蟷螂山町・長刀鉾町などの町名がみられ、山や鉾の名が町名に取り入れられている。」
つまり、16世紀に山鉾を担当していた町の名前が、現代まで町名として残されているという事実です。
これは一見すると単なる地名の説明に思えるかもしれませんが、町共同体の結束と自治の持続性を示す重要な証拠となります。
要点と解説
通りを挟むように町名が連なり、その中には16世紀にさかのぼる町名も見えます。山鉾の名を冠した町名が、現在も残っているというのが一つのポイントです。
要は、後々まで同じ名の共同体として存続するほど、強固な自治を行っていたことを示しているわけですね。
ここで強調しておきたいのは、単に昔の行事があった、という一時的な事実ではなく、地縁的結合が数百年単位で持続してきたという歴史的な重みです。
中世京都では、町は物理的な居住単位であると同時に、宗教的・経済的・自治的な共同体でした。山鉾を担当することで町は責任と役割を共有し、それが町のアイデンティティそのものとなりました。
その証拠であるのがまさに「町名の存続」です。「長刀鉾町」「月鉾町」「蟷螂山町」といった名前が現代まで残っていることは、共同体が単発の組織ではなく、恒常的な自治組織であったことを物語ります。地縁的結合を後世にまで残したほどに自治の基盤が強固であったのですね。
図1・図2との関連とおさらい
図1(洛中洛外図屏風)と図2(京都町名地図)は、ここまで見てきた資料の内容を視覚的に補強しています。このような形式の問題は珍しいですね。念のため改めて触れておきます。
- 図1では、町民が山鉾を引いて巡行する様子が描かれ、町民の能動的な参加が視覚的に確認できます。
- 図2では、町と山鉾が一体化していたことが、町名としての定着を通じて読み取れます。
このように、視覚資料も山鉾巡行が町民による自治的な運営だったこと、そしてその記憶が町の構造や文化に深く刻まれていることを示しています。
16世紀の山鉾巡行は、町の代表である月行事の主導のもと、町民が費用や労力を出し合って運営されていました。
幕府の命令に抗う姿勢や、町が自前で山鉾を保有・管理していた実態は、京都の町が強固な自治体制を築いていたことを示しています。
また、山鉾の名前が町名として残るほど、山鉾巡行は町の誇りであり、地縁的結合の核でもあったと考えることが出来ます。宗教儀礼ではなく、町のアイデンティティと自治の象徴だったのです。
以上のことから答案を作成してみます。
【答案例】
山鉾巡行は月行事が中心となり運営し、山鉾は町単位で用意された。運営に必要な経費は各町が分担し、幕府へ要請して住人による土地売却を禁止したことなどから地縁的な結合を強め、幕府による延期命令には反対するなど独立した性格を帯びたことで、後々まで同じ名の共同体として存続するほど強固な自治を行った。




