天皇機関説の説明

塾生から良い質問が来たので、回答をここに書いておきます。
今後の受験生の学びになりますよう。

【質問内容】

Q、ある参考書に書かれていたのですが、天皇機関説について「つまり、国家を天皇より上位におき、天皇の権力に限界があることを主張した」とありますが、どういう意味なのでしょうか?

これは答えるのが大変なので、いくつか段落に分けて説明します。

 

1、国家とは何か。

まず、国家とは何かを理解しなければなりません。

「国家」という言葉を聞くと、日本国全体のことだから、天皇も国家の一部なのではないかというように思うかもしれませんね。

実は、国家と天皇は違います。
国際法上では、国家には3要素があるとされており、領域、国民、政府です。(領土、国民、主権、と並べることもありますが、あえてこちらを採用します。)

 

2、(国内での)主権とは何か

ここで大事になるのは主権という言葉です。

主権というのは、国外と国内に分けて考えると分かりやすいのですが、ここでは国内に向けての主権のみに絞って説明します。

主権というのは、もともとジャン・ボダンが王権神授説で使った言葉で「地上において神の権力を代行する力」を意味していました。これが国内における主権です。

それぞれ勝手なことをする貴族を掣肘してヨーロッパの王権を強化する際の根拠となった概念です。王は自分の王国内において神の代行者ですから、領土はもちろん、そこに住む人民を家畜のように扱おうと自由でした。

 

3、戦前の「主権」

一方、日本は明治維新後に立憲君主制を立ち上げる際に、ジャン・ボダンのような意味での主権という概念を必要としませんでした。

「主権」という言葉を使うまでもなく、日本は伝統的に「君民共治」の国であって、天皇が国民を奴隷のように扱うこともなければ、国民も天皇の(宗教的)権威を重んじて、天皇の下に従う国でした。

そのため、大日本帝国憲法以下、戦前までの日本の国内法では、主権という概念を条文上は用いていません。
「主権」という言葉を用いなくても、「統治権」という言葉で十分でした。

「戦前は天皇主権だった」という説もありますが、そんな言葉は条文上には存在しません。(なぜ天皇主権という言葉が出て来たかは、後で説明します)

 

4、天皇機関説

では、天皇機関説とは何かというと、
「天皇は儀式を行う存在であって、実際の統治権は臣下が代わって行使し、天皇に政治的責任を負わせてはならないとする憲法学の通説」です。(by美濃部達吉)

天皇は日本の本来の統治者なのですが、その国内の統治権を臣下に預けてしまい、天皇は直接的な政治を行いません。

つまり、上述した(国内の統治権と言う意味の、いわゆる)「主権」を天皇が手放して、臣下に預けているということになります。

戦前の、天皇が統治権を預けた臣下というのは、大日本帝国(国家)です。
つまり、大日本帝国は天皇の代わりに国内を統治していた(いわゆる主権を及ぼしていた)ということになります。

 

5、質問への回答

では、質問への回答です。
もう一度質問を書いておきましょう。

Q、ある参考書に書かれていたのですが、天皇機関説について「つまり、国家を天皇より上位におき、天皇の権力に限界があることを主張した」とありますが、どういう意味なのでしょうか?

もう分かった方もいるかもしれませんね。

「4、天皇機関説」での説明では、国家と天皇の上下関係については触れていませんでしたので、矛盾するような気がするかもしれません。

恐らく、質問者の持っている参考書では、統治権を行使する主体を国家にした、という意味で、「国家が上、天皇が下」と記述してあるのだと思います。

また、「天皇の権力に限界があることを主張した」の部分に関しては、天皇がもつ統治権(しつこいですが、いわゆる主権)を国家に預けたわけですから、天皇が政治的権力を自由に行使できるわけではありません。

また、天皇主権説に則ると、天皇の主権は際限がないと解釈されるので、機関説では制限が生まれます。

よって、確かに天皇の権力に限界があるといえると思います。

天皇機関説の中身を理解すれば、ハッキリとは言えなくても、おぼろげながら理解できると思います。

6、天皇主権とは何か

では、天皇主権とは何なのでしょうか。
この言葉は、1910年代に穂積八束や上杉慎吉らが唱えた「天皇主権説」によるところが大きいでしょう。
天皇主権説とは、天皇が主権者であり「天皇即国家」「天皇は現人神」とする立場です。

この学説は1910年代に否定されています。
具体的には、天皇機関説を唱える美濃部達吉と、天皇主権説を唱える穂積&上杉が論争になり、美濃部が大多数の支持を得て、圧勝しています。
これにより、美濃部の天皇機関説は通説となり、憲法体制の一部とされ、政党内閣制の根拠となっていました。

つまり天皇主権説は支持されていませんでした。

 

7、天皇機関説問題

しかし1930年代になり、「天皇機関説問題」が勃発します。

細かいことはすっ飛ばしますが、平沼派(枢密院、検察、政友会の鈴木喜三郎派)が、陸軍の皇道派と手を組み、斎藤内閣を倒閣します。

続いて攻撃の対象としたのが岡田内閣で、その作戦が「天皇機関説問題」です。

既に統治機構の一部となっていた「天皇機関説」を問題として蒸し返し、憲法体系の基礎を上杉節に変えてしまおうとしたのです。
これに、中身をよく知らない議員や軍人、右翼活動家などが、「天皇を機関呼ばわりするとは何ごとか」とか、「天皇を機関銃にたとえるとはけしからん」と騒ぎまわり、言いがかりをつけます。

天皇機関説を唱えていた美濃部は、議会で弁明し、不敬罪で取り調べを受け、最後には美濃部の憲法学の代表的著作も発禁処分になってしまいます。

とにかく岡田内閣を倒閣すれば、自分に政権が転がり込んでくるかもしれないと、政友会の鈴木喜三郎は先陣を切って天皇機関説を批判しまくります。

結果、岡田首相は論争に負けて、「天皇機関説は我が国の国体に悖るものである」という「国体明徴声明」を三度も出します。

これまで政官界が立法や法解釈の前提としていた美濃部説が葬り去られると、「天皇親政」を主張する上杉説がが再び脚光を浴びることになったのです。
しかし、上杉説が通説として残るかというとそうではなく、採用されたのは清水澄説でした。
上杉説ではムチャクチャ過ぎて使えなかったので、美濃部の弟子だった清水の説が採用されます。また、憲法学上では機関説が正しいと解釈され続けたようです。

つまり、天皇機関説問題というのは、学説の正しさや精緻さ、有力性の争いなどではなく、政争の道具だったということです。

ちなみに、天皇機関説は、憲政の常道を守り、いつか再び政党内閣に戻すための最後の砦だったのですが、天皇機関説が否定されたことによって、戦前の日本は二度と政党内閣制に戻れなくなった、というオチがついています。
しかし、官僚統治の技術論である清水説を採用したことで、官僚機構は機能できたのでした。

8、まとめ

以上、長々と説明してきましたが、お判りになったでしょうか。詳しく説明されないところですので、参考になれば幸いです。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)