1995年東大日本史(第3問)入試問題の解答(答案例)と解説
目次
なぜ江戸時代に「米の商品化」が進んだのか
今回の問いは、「米の商品化が進んだのはなぜか?」 というものです。設問では、
近世前期から中期にかけてのこの時期、米の商品化がこのように進展したのはなぜか。幕藩体制のしくみや生産面・流通面で生じた変化に触れながら、5行以内で説明せよ。
とあります。
- 江戸時代前期〜中期の時代背景を踏まえて
- 米の商品化が進んだ理由を
- 幕藩体制・生産・流通の三つの観点をバランスよく盛り込んで説明する必要があります。
さらに、資料文には、
大阪が全国最大の米の集散地で、諸国から米がどんどん集まってきて、大阪に米市場ができ、幕府が公認して取引が活発になった!…という背景が書かれていましたね。
この問題に挑むにあたって、問題文でキーワードとして据えられている「近世の大坂」という面と、設問文でキーワードとして据えられている「米の商品化」という面、これら両サイドから考えることで攻略を目指していきましょう。
【1】 なぜ大坂だったのか?
大坂がなぜ米の中心地となったのか?理由は大きく分けて三つあります!
①幕藩体制の仕組みと武士と米の関係
まず、江戸時代の社会構造を見てみましょう。
幕府や藩の武士たちは、「俸禄制」という制度のもとで米を給料として支給されていました。しかし、都市で生活する武士にとって、米だけあっても生活できません(お米がいくらあったとて、衣食住の衣・住問題は解決できませんものね)だから、米を換金する必要があったのです。
そのため藩は大坂に蔵屋敷を設け、年貢米を貯蔵・売却する拠点としました。蔵屋敷を通じて米を換金することで、参勤交代の旅費や江戸での藩邸維持費などをまかなったり、武士の生活費に充てたりしていたのです。
換金機能付き銀行ATMのようなものでしょうか。
こうして大坂は、武士たちが米を現金に換えて生活するための大事な場所になったわけです。
②交通の「ハブ」
大坂は西日本と東日本をつなぐ西回り航路の終着点でした。ゆえに、船で大量の米を安く、安全に運べたことがポイントです。
航路が整備されたおかげで、全国の米が大坂に集まりやすくなり、「天下の台所」として機能するようになったのです。
③幕府のお墨付き
17世紀末にできた大坂の米市場は、18世紀になると幕府の公認市場となります。
公認されたことで、取引の信頼性が増し、多くの商人たちが参加するようになり、さらに活気が出たのです。
【2】なぜ「米の商品化」が進んだのか?
ここからは、「米を売ったり買ったりするようになった理由」を見ていきましょう。
①米が余るようになった
江戸時代初期は人口が増加し続けていたため、作った米はほとんどが食べるための自給用でした。 でも、17世紀の終わりごろになると…
- 新田開発
- 農具や農法の技術革新
- 肥料(干鰯や油かすなどの金肥)の流行、
- 人口増加が鈍化
などによって余剰米が発生しました。
この余った米は「売る米」として扱われるようになり、商品化が進んでいったのです。
②お金が必要な社会に変わった
- 農民も肥料や道具を「買う」ようになり、貨幣経済が浸透。
- 武士は年貢米を「お金」に換えて都市で生活。
- 商人も「米の先物取引」などを通じて、利益を獲得。
こうして、江戸時代中後期は「米をお金のように使う」社会に変わっていったのです。
③流通インフラの進化
先述の通り、ここでも重要になってくるのが、海運です。西回り航路の整備によって、日本海側を通って米が大量に大坂へ、大坂からさらに江戸へと運ばれる、全国規模の物流網が完成し、「米を売る場所」=大坂、「米を使う場所」=江戸という構造ができあがったのです。
まとめ
次のように要素を整理できます
- 大阪に集めて換金する仕組み(蔵屋敷・市場)が整っていた
- 余剰米の発生
- 幕藩体制下の武士や農民が現金を必要とする社会構造
- 航路の整備による大量輸送の実現
【答案例】
【答案例1】(商品化に重点)
参勤交代が義務である幕藩領主や武士は主に都市で消費生活を送ったため、年米を換金して消費生活に利用するという米の商品化を伴う仕組みが構築された。さらに耕作地の拡大や技術革新など生産面の飛躍で余剰米が発生し、水運の整備によって長距離で大量の輸送が可能となったことで、米の商品化が急速に進展した。
【答案例2】(大坂に重点)
石高制の下で米納された年を換金して消費生活を送る幕藩領主や武士は、参勤交代の際に必要な資金確保のために大坂に蔵屋敷を立て年米を持ち込むようになった。西廻り航路が整備されると、耕作地の拡大や技術革新などで発生した余剰米が、大坂に大量に輸送されるようになり、米の商品化が急速に進展した。