2015年東大日本史(第3問)入試問題の解答(答案例)と解説
目次
江戸の消費都市化と西廻り航路の物流戦略
江戸時代、江戸という都市は政治の中心であると同時に、全国から物資が集まる「消費都市」でもありました。
では、全国から物資が集まるとはいっても、どのような商品が、どこから、どうやって江戸に運ばれていたのでしょうか?
そして、例外的に一部の商品が運ばれなかったのはなぜでしょうか?
2015年の東京大学日本史第3問は、この点を「物流」と「地域間分業」という観点から問うものでした。本記事では、与えられた資料①〜④を順に分析しながら、設問A・Bの解答根拠を整理していきます。
設問要求の確認
- 設問A:なぜ繰綿・木綿・油・醤油・酒の5品目が大量に江戸に送られたのか。その理由を、生産・加工と運輸・流通の特徴から説明する。
- 設問B:なぜ炭・薪・魚油・味噌と米は送られる量が少なかったのか。それぞれの物資の江戸の供給構造や地理的背景から理由を説明する。
(1)送られた商品・送られなかった商品と地域分業
資料⑴は、江戸幕府が1730年までの7年間、大坂から江戸へ送られた主要な商品の量をまとめたものです。この統計は「年平均」の数値であり、江戸時代中期の物流の構造と都市機能を知る上で貴重な資料です。一時点の特殊な数字ではなく、江戸前期の安定期における典型的な物流の平均像を俯瞰できるデータです。大坂(上方)を集積・中継拠点として、西日本の産物や加工品が江戸という巨大消費都市にどの程度流れたかを、品目別に可視化しています。
この表の最大の特徴は、商品ごとの送られた量の差が極端に大きいことです。一部の商品は圧倒的な数量で江戸に流入している一方、別の商品の数はわずか、あるいはゼロという記録になっています。ここに注目しましょう。
設問Aでも1の表だけではなくて、下の方の内容も使うので、結局全部読む必要があります。読み取りの基本方針は、表=出発点、資料⑵⑶⑷=理由づけと補強です。表だけで完結させず、なぜこの差が生まれたのかを後段資料で説明する姿勢が得点の鍵になります。
①送られた量が極端に多い商品群(江戸の外部依存が強かった物資)
資料⑴で顕著に多く送られている商品は以下の通りです。
酒219,752樽 綿織物95,737本 油62,619樽
木綿13,110箇 醤油3,186樽
後続資料で詳しく裏づけられますが、資料⑴の段階でも概観は見えています。「西日本で生産量が多かったり加工技術が優れている商品が江戸に送られている」ということです。
これらはいずれも、生活必需品であり、かつ東日本では十分に生産・加工できなかった物資に該当します。ひとつひとつ見ていきましょう。
- 綿織物・木綿:気候的に東日本での綿栽培は難しく、西日本の播磨・河内・和泉といった温暖な地域で生産されていました。これらは織物・糸として加工され、大坂に集まり、消費地である江戸に送られました。
- 油:菜種油・綿実油など、主に照明用・調理用として需要がありました。これも西日本、特に瀬戸内・摂津・播磨などで搾油業が発達しており、大坂経由で江戸に大量に輸送されました。
- 酒・醤油:いずれも発酵技術を要する加工品であり、京都・摂津・伊丹など「酒どころ」「醤油どころ」として名高い地域で製造されました。品質の高さも手伝って、江戸の庶民や武士層にとって欠かせない嗜好品・調味料となっていたのです。
これらの商品は、大坂に一度集められた後、西廻り航路(日本海経由)や南海路(太平洋経由)といった海運ルートを利用して、効率的に江戸へと送られていました。
つまり、江戸の都市生活を支えるために、「西日本で生産・加工 → 大坂に集積 → 江戸に大量輸送」という、流通上の地域間分業が成立していたのです。
②送られた量が極端に少ない/皆無の商品群(江戸が自力で確保できた物資)
一方、資料⑴には、ほとんど送られていない、あるいはゼロと記録されている商品も存在します。
味噌0 魚油60樽 炭447俵 新綿0 米19,218俵
しかしそもそも炭とか薪とかの話は(資料⑵⑶⑷には)書かれていません。すなわち、理由を表外(一般知識と論理)で補うしかないわけです。
注目すべきは、「炭」「味噌」「米」「魚油」など、生活に欠かせない物資であるにもかかわらず、大坂からの流通がごくわずかだという点です。これには、江戸周辺や幕府直轄地(江戸地回り経済圏)からの供給体制が成立していたことが背景にあります。
※米についての特別な注意:表の「不足」をどう読むか
ここでの落とし穴は、“大坂経由の米が不足”=“江戸の米が不足”と短絡してしまうことです。大坂からの米では人口分が賄えていません。だから『大阪以外にも』米が来て、需要を満たした。つまり、資料の“大坂→江戸”の一経路に限定された数値以外にも実際の江戸は東北・北陸・幕領の蔵米など多経路で補われていたということです。この理解は、のちの設問Bでのポイントになります。
このように、「送られた商品」と「送られなかった商品」のあいだには、ただの数量の違いではなく、背後にある経済構造・地理的条件・流通の差が反映されているのです。
③資料⑴の統計が示す全国物流網の現実
江戸時代中期には、すでに全国的な物流ネットワークが確立されており、地域ごとに異なる「生産能力」や「加工技術」の得手不得手に応じて、特定の物資が特定のルートを通って動いていました。
- 大坂は、商品流通の集積の中核地として機能。
- 江戸は、大消費都市として全国の産物を吸い上げて発達。
- その中で、輸送の効率化(積載効率の高い樽や俵など)や、季節に応じた運航の調整(例:冬季の西廻り航路→冬季の航行は、季節風や荒天の影響を受けやすく、リスクが伴ったため)も重視されていた。
資料⑴の表は、こうした「生産地」「集積地」「消費地」が分業する形で成立していたことを如実に物語っており、江戸の経済的成長が、地域分業と広域流通に強く依存していたことを明らかにしています。
資料⑴の読み取りが設問A・Bの土台となる
資料⑴が示す膨大な数値情報は、単なる統計データではなく、「なぜある商品は大量に送られ、なぜ他は送られなかったのか?」という問いに対する根本的なヒントを与えてくれます。
この視点を踏まえて、設問A・Bの論述では、単なる数量比較にとどまらず、「なぜそうなったのか?」という経済・地理・技術・流通の背景構造を読み解いていく必要があるのです。
⑵商品作物としての綿・油と地域的生産構造―温暖な西日本が担った供給基地としての機能
資料⑵では、江戸時代に生産されていた綿や油菜、すなわち商品として流通した「繊維原料」や「油脂原料」が、温暖な西日本を中心に栽培されていたことが述べられています。この事実は、設問Aで問われている「なぜ綿製品や油が大量に江戸へ送られたか?」という問いに対しての根本的な地理的・農業的な解答根拠を示しています。資料⑵は、資料⑴で見た大量輸送品の背景を、生産地の自然条件と需要の必然性という観点から説明している資料です。
では、この資料をもとに、当時の地域的分業の構造、そしてそれに支えられた物流の方向性を読み解いていきましょう。
①温暖な西日本の生産条件の優位
資料⑵が述べる通り、綿や油菜は、いずれも「温暖な西日本」で栽培されていた作物です。▶ 綿(綿花)
- 綿は、繊維製品(衣服・布団・帯など)の原料でありながら、非常に気候に敏感な作物です。十分な日照と生育期間が必要なため、栽培可能地域は河内(大阪)・播磨(兵庫)・和泉・備中・讃岐などの瀬戸内地域や、近畿・中国・四国の一部に限定されていました。
- これに対し、関東・東北・甲信越といった寒冷地や高地では、栽培が不可能か、もしくは経済的に有効な収穫量には達しませんでした。
▶ 菜種(油菜)
- 菜種は、種子から油を絞ることができる植物で、主に照明用(灯火)や調理用(食用油)として利用されました。
- 同様に、温暖で平坦な土地に適しており、綿と並んで西日本を中心に広く栽培されていました。
ここで押さえるべきは「気候条件が地域間の役割を分けた」ということです。これは設問Aに直結します。大量輸送品は「東では作れない、あるいは不十分にしか作れないもの」だからこそ、大坂を経由して江戸に送られたわけです。
②衣類と灯油の江戸での巨大需要
江戸をはじめとする東日本の地域では、これらの作物の生産は難しかったにもかかわらず、江戸は人口100万を超える消費都市で、衣料や灯りのための油は絶対に必要でした。生活必需品としての需要は非常に大きかったのです。
- 綿は、衣服・寝具・暖房用の掛け物など、生活全般に用いられる素材でした。寒冷な東日本でこそ防寒のために必要であり、需要はむしろ高かったのです。
- 油は、菜種油や綿実油として、日常生活における「照明」の燃料として不可欠でした。今でこそ電灯が普及していますが、当時の夜の生活や商業活動にとっては、油の安定供給は都市機能の根幹を支えるものでした。
つまり、生産と消費の地域的乖離があったわけです。生産可能な地域(西日本)で大量に作られ、消費が集中する地域(江戸・東日本)へと、長距離輸送を前提とした商品流通網が必要だったのです。
※商品作物の副次的効果
こうした綿・油といった商品作物は、単なる農作物にとどまらず、流通・加工・金融を巻き込んだ複合的な経済活動を生み出していました。
- たとえば、綿は「繰屋」で種子を取り除かれた後、糸や織物として加工され、市場に流通します。
- 油は「搾油所」や水車を使った大規模な生産施設によって大量生産され、品質の良いものが都市部に送られました。
これらの作物は、そのまま売られるのではなく、加工と流通を前提とする商品作物であり、工程の工場などを西日本に集中的に立地することで集約的な経済圏を形成していたのです。
そのため、幕府も西日本(特に上方)を物資の供給地域として重視し、定期的な物資の供給状況を調査するなど、流通の統制に力を入れた背景があります。
資料⑵の視点から設問Aを解釈する
このように、資料⑵は「なぜ大量の綿製品や油が江戸に送られていたのか?」という疑問に対して、
- 大量に送られた商品(綿・木綿・油・醤油・酒)は、西日本の自然条件に基づく生産の優位性を背景に持っていたこと
- 江戸はその地域から遠く離れていながら、生活必需品として強い需要を持っていたこと
- 西日本では、これらの作物の大規模かつ効率的な生産・加工体制が整備されていたこと
という三重の視点から解答の根拠を与えています。
重要なのは、「地域間分業」という発想の起点がここにあるという点です。綿や油は単なる農作物ではなく、商品経済を支える柱として、大坂・播磨・摂津といった西国地域から大量に供給されていたのです。
資料⑵は、「生産される場所」と「必要とされる場所」が異なることによって、どのように流通網と経済の役割分担が形成されていったのかを理解する重要なヒントを提供しています。
まとめ
- 綿・油などの生産は、気候条件・農業技術・加工インフラが整う西日本に集中。
- それらを必要とするのは、寒冷で人口の多い消費都市・江戸。
- 江戸への輸送は、大坂からの長距離航路によって可能となり、綿製品や油が大量に供給された。
⑶綿花・木綿の流通と商人ネットワーク
資料⑶では、「綿花」から「綿」を取り出す過程、つまり「種子が入った綿実」から種を取り除き、繊維として利用可能な状態にする工程に注目しています。これには「繰屋(くりや)」と呼ばれる業者が用具を使って行う専門的な作業が必要でした。生産=農民、加工=綿繰屋、流通=商人、消費=都市住民というふうに、一つの商品が複数の段階を経て江戸に届くことが示されています。
ここでの焦点は「生産地と消費地をつなぐ商人の存在」にあります。
この情報から、単なる農産物の生産だけでなく、加工と流通を担う人々の役割が浮き彫りになります。
①江戸は「消費地」であると同時に「中継地・再分配地」でもあった
先述のように、西日本で生産された綿や木綿製品は、大坂にいったん集積されたあと、江戸へと大量に運ばれました。ここで重要なのは、「なぜ江戸まで送られたのか?」という点です。
江戸はもちろん人口100万人規模の巨大都市として、自らが多大な繊維需要を抱える一大消費地でした。しかし、それだけではありません。
江戸はまた、綿を生産できない地域(たとえば東北地方)への中継・再流通の拠点としても機能していたのです。
当時の物流ネットワークにおいて、江戸は「終着点」ではなく、「ハブ(中継地)」でした。西から大坂経由で江戸に届いた綿製品は、そこからさらに北へ 、すなわち奥羽地方(現在の東北)などへと再び船や陸路で輸送されていたのです。
実際、北前船や東廻り航路といった海運ルートが整備されていたこともあり、江戸は単なる消費の場を超えて、「全国物流の再分配拠点」として重要なポジションを占めていたことがわかります。
②加工地・商人ネットワークとの連携
さらに重要なのは、資料⑶の中で「東北地方などの綿栽培がされない地域に向けて、商人を介して綿織物や木綿が送られた」と記されている点です。これは、江戸という都市機構が単独で物流を担っていたのではなく、商人たちのネットワークと連携しながら、綿製品の「東日本内陸部への供給拠点」としても稼働していたことを意味します。
こうした「集積→再分配」の体制は、江戸の問屋や仲買が西日本の商人と提携して東北方面の販売網を築いていたことを裏付けるものであり、商品経済が広がる中で江戸が果たした物流上の中心的役割を象徴しています。
この視点を持つことで、設問Aの「大量に送られた商品の理由」について、単に江戸自身の消費のためだけでなく、「江戸を経由地とする広域分配システムの存在」も含めて理解することができます。
設問への橋渡し
- 設問A(大量に送られた理由)
木綿が大量に送られたのは、資料⑶が示すように、西日本の生産力+綿繰屋の加工+商人の流通ネットワークによって、江戸の衣料需要を満たす仕組みが整っていたからです。 - 設問B(少量にとどまった理由との対比)
炭や薪などが江戸近郊で自給できたのとは対照的に、木綿は「地域間ネットワークがなければ成立しない商品」であり、必然的に長距離輸送されました。
⑷油・魚油の質・量の差と物流構造
資料⑷は、江戸時代における灯火用の油の供給について記述しており、油に関する江戸時代の地域的な生産状況を示すものです。具体的には、摂津灘における菜種油の大規模生産と、魚油の存在が対比されています。摂津灘で大規模に油を生産する業者が現れたことと、魚油もあったが質が劣ったことを示しています。
つまり、同じ「油」でも、その品質・生産規模・用途の違いによって、江戸への流通量に大きな差があったことを示すのが資料⑷です。
① 油の用途と江戸都市生活における不可欠性
江戸時代における「油」の主要な用途は、現代のような調理油ではなく、灯火(照明)用の燃料でした。
江戸のような100万都市においては、武士・町人・商人・職人などさまざまな身分の人々が、日没後も仕事・学問・商売を続ける必要があり、夜間の活動を可能にする照明は生活インフラの要であり、江戸で大きな需要があったのです。
その需要を支えたのが以下の高品質な2種類の油です:
- 菜種油:主に西日本の温暖地で生産
- 綿実油:綿花の実(種子)から採取
これらの油は、灯籠・行灯・提灯など、当時のあらゆる照明器具に利用されており、油の安定供給は都市の機能維持に不可欠な要素であったといえます。
② 生産と加工の地域的分業:撫養の灘目や十七里浜に見る工業的体制
資料⑷では、「撫養の灘目」や「十七里浜」といった具体的な地名が登場し、そこにおいて大規模な搾油業が展開されていたことが述べられています。
- 撫養の灘目(現在の徳島県付近)では、水車を用いた油搾りが行われており、工業的な大規模生産が成立していた。
- 十七里浜(紀伊・摂津沿岸部の可能性)では、魚油の抽出が行われ、イワシなどを大釜で煮て油を取り出していた。
しかし、輸送量は少ないのです。その理由は次に進めばわかります。
③油の品質の違い
資料⑷の末尾では、「魚油も灯火に用いられたが、質が劣るものだった」とあります。これは、使われる油が消費者層によって異なる商品だったことを示唆しています。
- 菜種油・綿実油:煙や臭いが少なく、明るく長時間燃える
- 魚油:安価だが臭いや煙が多く、燃焼効率も劣る → 庶民層・貧困層など
魚油は量も少なく、質も劣っていたため、輸送する意義が小さかったということです。
魚油は菜種油に比べて光が暗く、臭気も強いため、都市生活での使用には適しませんでした。つまり、「同じ油」というカテゴリーでありながら、需要の質に合致していなかったのです。加えて、大坂から江戸までの長距離輸送を考えると、品質の劣る商品を高コストで運ぶ必然性は乏しい。このため、魚油は「とるに足らない量」にとどまったと理解できます。
このように、油の流通は単なる量の問題ではなく、品質・価格・用途の多様性に応じた流通戦略が必要だったと考えられます。
その結果、品質の高い上方の植物油だけが大量輸送に耐えるインフラと、大都市の需要に応える流通網によって江戸へ集中供給されたのです。
設問への橋渡し
- 設問A(大量に送られた理由)
菜種油は、摂津灘での大規模生産と品質の高さに裏付けられ、江戸の灯油需要を満たすために大量に送られた。 - 設問B(少量だった理由)
魚油は質が劣り、輸送コストに見合わなかったため、大坂から江戸に送る意義が乏しく、少量にとどまった。
以上のことから答案を作成してみます。
【答案例】
A 東日本で生産されていない商品や、西日本で生産量が多かったり加工技術が優れたりする商品が、西廻り航路で大坂に集積された後、南海路で消費都市の江戸に運ばれ、一部が東北へ流通した。
B 4品目は江戸地回り経済圏から十分供給されたから。米は全国で生産され、幕領や東北、北陸の蔵米が江戸に流入していた。