【東大日本史】1993年第4問の解答(答案例)と解説

◎はじめに

東⼤⽇本史の問題は、リード⽂、資料⽂、設問⽂の3点で構成されているのがスタンダード(例外あり)。
これを、どの順で読むべきかというと、おススメはリード⽂→設問⽂→資料⽂の順です。

これがなぜかというと、理由は2点。
リード文は本文へ導入するための文なんだから、リード文の方が先。
そして、本文は設問に答えるための材料だから、設問文が先ということです。カレーを作るか、ポテトサラダを作るか決めないと、ジャガイモの用途が分からないのと同じで、何に答えるかが分からないと本文の使い道も分からないわけですね。

もちろん、絶対的な指標ではなく、あくまでガイドライン。
未来永劫、本文を最後にすべき問題しか出ない保証なんかないので、その場で柔軟に対応すべきといえばその通りではありますが、だからといって基本パターンを知らなくてよいことにはなりません。

これまで多くの答案を⾒て採点や添削を⾏ってきてわかったのですが、内容の良し悪し以前に、問われていることに答えていない答案が、想像の5倍くらい多いと思ってください。自分の答案が十分問いに答えているかどうか、必ずチェックするクセを付けましょう。

※この問題の詳しい解説や、問題の解法、高評価を受ける答案の書き方などは、オープン授業日本史第3講にて扱っています。
ぜひこちらもご覧ください。

◎リード文の分析

特に何もありません。

◎資料文の分析

長めの資料文が与えられています。
内容としては、戦後に政党政治が定着した経緯が簡単に書いてあるのですが、正直分析に必要はほぼありません。
なぜなら、傍線が3か所引かれていて、その傍線に対して(資料文の文脈とはあまり関係のない)設問が用意されているからです。
なんとなくセンター試験を彷彿とさせます。
センター試験の日本史では、(作問者は一生懸命作成したんだろうな~と思ってしまう)長い説明文があり、そこに傍線部が引かれていて、その傍線部に関する設問が用意されています。そして、その設問が説明文の文脈とは全く関係ないこともしばしば。

こういう構造が分かっている受験生は、(せっかく一生懸命書いたであろう)説明文を一切読まず、設問部分まですっ飛ばし問題だけ解く、というのがあるあるです。

そういえば、センター試験が開始したのは1990年ですから、この東大過去問はセンター開始直後です。もしかしたら意識したのかもしれません。(真相は闇の中)

◎設問の分析

設問Aは、ただの知識問題です。
戦後すぐに改正された衆議院議員選挙法の改正点を2つ挙げるだけですから、知っていることを書けば終わり。ただそれだけで、考えることはほとんどありません。

設問Bが、普通の東大入試らしく論述問題です。
とは言っても、これも何か考えるのかと言われれば、あまり考えることはありません。
問われている内容がいくつかあるのですが、まずは戦前の最後の政党内閣首相の名前と政党名を書けというもの。これは設問Aと同じで完全な知識問題です。
加えて、後半はその内閣が崩壊した事情と、政党内閣が継続しなかった事情をかけというもの。これも、形式が論述になってはいるものの、知識問題です。
何か自分で解釈を加えるとか、資料文を読解するとかいうことはなく、覚えてきた内容を整理して書くという意味では、知識問題と言えるでしょう。

最後の設問Cも、知識問題。
帝国憲法時代に認められてなかったのに、現行憲法になって認められるようになった国会の権限を2点挙げよ、ということなので、挙げれば良し。

要するに、3問とも知識問題です。

◎設問Aの解説と答案例

【予備知識】

この時の法改正で改正された点はいくつかあるのですが、「主要な改正点」と問われたら答えは確定です。すなわち、選挙資格が満20歳以上に引き下げられた点と、女性に参政権が付与された点の2点が答えだとみなしてよいでしょう。
被選挙資格が満30歳以上から満25歳以上に引き下げられたことや、小選挙区制から大選挙区制に変わったことも改正点ではありますが、細かい知識を覚えたからって、イキってこちらを書かないようにしましょう。

【答案例】

婦人参政権が実現した点。有権者資格を満20歳以上となった点。

設問Bの解説と答案例

【予備知識】

まず、政党内閣最後の首相は犬養毅、政党名は「立憲政友会」です。
そして、犬養内閣が崩壊した事情についても、解釈がブレずに答えられるので軽く答えてしまうと「五・一五事件で犬養首相が暗殺されたから」です。

次に、犬養内閣が崩壊した事情と、政党内閣が継続しなかった事情ですが、こちらはいくつか説明が必要です。

【内閣誕生までのプロセスについて】

まずはルールを理解しましょう。戦前と戦後では、内閣誕生までの決定プロセスが違います。

内閣誕生までのプロセスは、
①首相の選定 by元老
②他の閣僚の選定 by首相候補者など(陸海軍相以外)
③任命 by天皇
となります。

元老が首相候補者を推挙した場合、その意思が覆ることは原則としてありません。元老とは事実上の首相決定権を与えられた特別な存在でした。ということは、犬養首相の次に政党内閣が続かなかった理由とは、当時の元老である西園寺公望が政党の人物を首相に推挙しなかったからです。これが直接的な理由です。ちなみに、後継として選んだのは斎藤実という海軍の首班でした。

ではなぜ、政党出身の首相を推挙しなかった(できなかった)か。これは、
①政党政治の支持が低下してたこと(だから、政党内閣を継続できない)
②急進的な軍部や右翼が台頭していたこと(だから、軍人による内閣を作り、軍や右翼の行動を抑制しようとした)
の2点が挙げられます。

これをさらに深掘りしていきましょう。

【経済面】

始めに経済面の説明ですが、1920年代は恐慌との戦いの時代でした。度重なる恐慌に加え、1929年にはニューヨークから始まった世界恐慌が世界中に波及します。日本にもその余波がやってきた時に失政が重なり、昭和恐慌が到来。日本の経済は危機的な状況に陥ります。(詳しくは2009年第4問を参照)
そしてなんと、このタイミングで政党と財閥の癒着が発覚。しかも恐慌に適切な対応策が取れないという始末。

ということで、政党政治への不満や不信感が高まっていたのでした。

【軍部や右翼の台頭】

そして、軍人や右翼によって国家改造運動が遂行されていました。
日本のゆきづまりの原因は、財閥や政党が無能なこと、そして財閥や政党が腐敗していることだと考えた軍人や右翼が、それらを打倒して軍中心の強力な内閣を作ろうという運動です。

しかし問題だったのは、彼らの情熱や理念というより、実際に起こした事件です。1931年の三月事件と十月事件、1932年の血盟団事件など、テロや暗殺が頻発してしまいます。

これと並行して起きていたのが、1931年に起こった満州事変です。
関東軍が満州各地に軍事行動を拡大して、満州国を建国する宣言を出します。犬養首相は満州電出来事は認めたものの、満州国は承認しようとしませんでした。

これに反発心を募らせた軍部や右翼が、ついに五・一五事件にて犬養首相を暗殺してしまうのです。

このように、政党政治への不信感が募り、テロや暗殺が横行してしまったため、西園寺は後継首相として政党出身者を選べなくなり、代わりに軍人の斎藤を選ぶのでした。

【答案例】

犬養毅、立憲政友会。五・一五事件で犬養首相が暗殺されて崩壊した。昭和恐慌により政党政治への不満が高まり、満州事変によって陸海軍の発言力が高まったため、元老西園寺が政党政治の継続を断念し、軍の急進を抑制するため穏健派軍人を後継首相に推挙した。

別答案

犬養毅、立憲政友会。五・一五事件で犬養首相が暗殺されて崩壊した。昭和恐慌下で政党の汚職事件が相次ぎ、また国家改造計画が活発になる中、満州事変などで軍部や右翼が台頭し、テロ事件が頻発したため、元老西園寺がこれ以上の政党政治の継続を諦めた。

設問Cの解説と答案例

戦後の新憲法制定において、国会に新しく認められた権限を答える問題。設問Aと同様、覚えていれば即答の簡単な問題です。

【答案例】

内閣総理大臣を指名する権限、憲法改正の発議権、内閣不信任の決議権、(唯一の立法機関としての)立法権などから2つ

◎総評

覚えていれば満点、覚えていなければかなり差をつけられてしまう問題でした。

設問Aと設問Cが、ほぼ時間ゼロで解く問題なので、事実上は設問Bのみの時間計測です。そういう意味でも簡単な問題です。この辺りの歴史の流れはややこしいということはありますが、細かい知識ではなく、政党内閣の継続という大きな話題です。やはり東大受験生としては必ず覚えておきたい内容です。

この問題はオープン授業第3回で扱い、詳細な資料や知識、サンプル答案への添削をしながら答案作成のポイントを解説しています。
よろしければご視聴下さい。ご視聴はこちらのリンクから


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