2018年東大日本史(第1問)入試問題の解答(答案例)と解説

◎設問の分析

本問は、資料文が与えられず指定語句に従って記述するという、第1問としてはイレギュラーな問題であった。対峙した際に戸惑ったかもしれないが、必要とされる知識自体は教科書を読み込んでおけば困らない程度である。落ち着いて処理しよう。

◎設問の解答

問われているのは、藤原京は従来の大王の王宮と比べてどのような変化が起こっていたのか、という事である。
ではまず、藤原京以前の王宮の様子を見てみよう。

藤原京以前の王宮

7世紀前半までの間に主に飛鳥の地を中心に大王の王宮(大王宮)が営まれた。なお、この頃の大王宮は一代ごとに(またはそれ以上の頻度で)遷されるものだった。そして、有力な王族や中央豪族は大王宮とは別にそれぞれ邸宅を構えていた。このように7世紀前半までは、ヤマト政権は豪族の連合政権に過ぎず、すなわち大王は絶対的な権力者ではなく有力な豪族の1人に過ぎないという性格が色濃かった。
なお、7世紀前半というと推古朝が冠位十二階や憲法十七条の制定を通して官僚制の整備を図った事が思い出されるだろうが、やはりそれは不完全なものだった事がわかる。

藤原京造営の背景

7世紀後半になると、大王宮が集中した飛鳥に王権の諸施設が整えられ、本格的な宮都が営まれる段階へと進む。このような進展の背景には何が認められるだろうか。
それは、天武・持統朝において本格的に律令国家へ体制が整備されていった事にある。まずこの頃、大陸で唐が成立しその後新羅と結んで周辺国を侵攻し始めた事に留意したい。このような対外的な危機感から、ヤマト政権は先述したような豪族連合的な政権を脱却し、強力な中央集権国家を目指す必要に迫られた。

壬申の乱を経て即位した天武天皇は、近江朝廷側についた有力中央豪族が没落した事もあり、強大な権力を有していた。これを背景に、天武天皇は官僚制の整備を目指して豪族領有民を廃止したほか、八色の姓を定めて豪族を天皇中心の新しい身分秩序に再編成したり、律令・国史の編纂や富本銭の鋳造を開始したりした。これらの諸政策と同時に、条坊制を備えた藤原京の造営も開始されている。条坊制とは直線道路を東西南北に碁盤目状の張り巡らせたものであり、そうする事によって王宮の官僚である有力王族や中央豪族を集住させる事ができるという、官僚制の整備と不可分の要素を備えていた。天武天皇の死後、持統天皇はこれらの政策を引き継ぎ、持統朝で飛鳥浄御原令・庚寅年籍・藤原京が完成した。

以上が藤原京造営に関する背景の説明である。それでは、重複する内容もあるが設問に沿って藤原京以前と以後の違いや、律令制確立期における藤原京の歴史的意義をまとめてみよう。

設問の要求する部分

先述のように藤原京以前の大王宮は一代ごとであったのに対し、藤原京は永続的な宮都として想定されており、実際に三代の間都として機能したという違いがある。(ちなみに指定語句の大極殿は中国に倣って瓦葺・礎石建ちという建築方法が採られており、これは永続的な都に適した建築方法とされている。)

そしてもう一つの大きな違いとして、藤原京は宮の周囲に条坊制を持つ京を備えていた事が挙げられる。藤原京以前の大王宮では、その周囲に設けられた有力豪族の邸宅に朝廷の様々な職務が分散していた一方、藤原京では政務・儀式の場として大極殿や朝堂院が宮に設けられ、そこで職務を担っている有力豪族らの邸宅を、条坊制を敷いた京で支給した。つまり、公的な官職の場と私的な邸宅を分離する事で、氏族制から個人の能力に応じて登用される官僚制への転換を進めたと言える。設問の要求の、律令制確立期における藤原京の歴史的意義はここと絡める事ができるだろう。すなわち、藤原京は中央集権国家を支える制度である官僚制を整備する画期となっていたのである。

◎解答と総評

従来の大王宮は一代ごとに造営された上、政務は有力な王族や豪族の邸宅で分散して行われた。一方藤原京は永続的な宮都として造営され、政務や儀式は宮の内部の大極殿や朝堂院で行い、それらの職務を担う有力な王族や豪族は条坊制を敷いた京に宅地を支給し集住させた。こうして、藤原京は氏族制から官僚制への転換の画期となり、律令に基づく中央集権国家の成立を後押しした。(174字)

 

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