2021年東大日本史(第1問)入試問題の解答(答案例)と解説

設問の分析

典型的な東大日本史第1問であると言える。解答に必要な知識は教科書レベルに過ぎず、それ以外の要素は資料文の読み取りから確保できる。丁寧に読み取って高得点を狙いたい問題である。

設問の解説

問われているのは「変化」であるから、まず変化の前と後がどの時期なのかをある程度明確にしておきたい。変化後は問題文を読むと9世紀後半の時期を指しているとわかる。変化前の時期は、問題文では「奈良時代以来」とされているが、資料文を読む限りおよそ嵯峨天皇あたりの時期を想定すればよさそうだ。では、①変化以前と②変化以後に分けて、資料文に沿ってそれぞれの状況をまとめてみる。

①変化以前

資料文(1)

まず資料文⑴では、仁明天皇に対し「皇位継承をめぐるクーデター」が起こされた事が書かれている。この謀反以後、皇位が直系で継承されていったとも書かれてある事から、逆に謀反以前は皇位が直系以外も継承され、それを巡る争いが起こりやすい状態だったとわかる。

資料文(2)

次に資料文⑵では、嵯峨・淳和天皇が有能な文人官僚を公卿に任命していた事が書かれている。つまり、天皇個人の判断で文人官僚を編成していたのである。また、ここで想起したいのは嵯峨天皇による律令制の改革である。嵯峨天皇は、蔵人頭や検非違使といった天皇直属の令外官を設置する事で、それらの機能を自ら掌握した。これらの状況をまとめると、嵯峨・淳和天皇は天皇親政の形を取りつつ、文人官僚も自ら編成していた、と言える。

資料文⑶〜⑸は主に②変化以後の9世紀後半の状況を述べている。次に移ろう。

②変化以後(9世紀後半)

資料文(1)

まず先述の通りではあるが、資料文⑴より皇位は直系で継承されるようになった事がわかる。問題文の指す「安定した体制」とは、この皇位継承が直系でなされる事を指している。

資料文(2)

次に資料文⑵では、①で天皇個人が人選していた文人官僚は、承和の変(842)を機に勢力を失い、太政官の中枢は嵯峨源氏と藤原北家に占められるようになった事が述べられている。特に承和の変では、藤原良房が伴健岑・橘逸勢ら他氏を排斥し、これを機に北家が優位を確立したとされる。

資料文(3)

資料文⑶では、それ以降朝廷で政治がどのように行われたか書かれている。①では天皇が親政をしていたが、官僚機構の整備によって天皇が直接政治に関わる必要がなくなり、資料文⑵で太政官の中枢を占めていた藤原北家や嵯峨源氏といった有力氏族が政治を行うようになったのである。また、それら有力氏族は、一族子弟の教育のために大学別曹を設けていた。大学別曹とは、官吏養成機関である大学に付属する寄宿施設のようなものであり、学生達は学費の支給を受けつつ書籍を利用しながら大学で学んでいた。資料文で例示されている藤原氏の勧学院、在原氏や源氏の奨学院以外にも、和気氏の弘文院や橘氏の学館院などが知られる。

資料文(4)

次の資料文⑷は、⑶とほぼ同じ内容を違う視点から記述した文章と言えるだろう。清和天皇は9歳で即位した幼帝であるが、幼帝の成立はつまり、天皇が直接政治に関わらなくなった事を示す。そして、その背景としては官僚機構が整備された事、特に摂政・関白が成立した事があり、そして政界で優位を確立した藤原北家が天皇の外戚を独占し一族が摂関を務めたのである。なお、摂政・関白は令外官である。

資料文(5)

資料文⑸では、これまで確認した動きと並行して法典の編纂が進められていた事が述べられている。なお貞観格式は、嵯峨天皇の時の弘仁格式、醍醐天皇の時の延喜格式と並んで三代格式とされるものである。

まとめ

以上が資料文の読み取りである。これらをもとに解答の骨子を作成していく。

まず、①変化前の9世紀前半頃は天皇の権力が強く、政治において天皇個人の判断が重視されていた。雑な言い方をすれば、このように天皇の存在感が大きいからこそ誰か継ぐかで揉めていたのである。

一方で、②変化後の9世紀後半は他氏排斥によって優位を確立した藤原北家が天皇の外戚を独占し、摂関となって国政を運営するようになった。これにより、天皇個人の能力に左右されない国政運営が可能になり、同時に皇位も直系で継承されるようになった事で安定した体制が成立したのである。

そして、重要なのが①から②へ変化した背景である。それは、資料文⑶にヒントがあるが、官僚制度の整備である。9世紀前半頃から、文芸を中心として国家の隆盛を目指す文章経国思想のもと貴族・官人は漢詩文の教養が求められた結果、官吏養成機関の大学が隆盛したり、職務・儀式の際の便宜のために法典の編纂が進められたりした。資料文にあった、9世紀後半における大学別曹の充実や格式の整備はこれらの動きがより充実していった結果であると言える。

つまり、有力氏族によって他氏排斥が行われ従来の文人官僚から有力氏族へと公卿の担い手が移る中、教育施設である大学別曹が設けられる事で、一族内で人材が再生産される体制が整ったのである。特に藤原北家は公卿だけでなく天皇の外戚の地位も占める事で、一族で摂政・関白を独占し国政に携わり続けた。皇位の直系継承は、藤原氏が外戚関係を維持できるようにそうさせたとも捉えられる。また、格(律令の補足)や式(施行細則)の整備、嵯峨天皇以来の令外官の設置によって律令がより実態に合った形で運営されるようになった。なお、摂政・関白も令外官である。これらを背景として官僚制の整備が進み、天皇がその場にいなくても国政運営が可能な体制が整ったのである。

答案例

天皇親政を補佐した文人官僚は有力氏族による他氏排斥で没落した。法典編纂が進む中、公卿を占めた有力氏族は大学別曹を設け人材を育成し、官僚制は充実していった。特に藤原氏は天皇と外戚関係を結び摂関としてその政務を代行し、天皇を擁して直系継承させるようになると、天皇個人の能力に依らない安定した体制となった。(150字)。

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