日本史7月①、2003年第2問、2017年第2問

こんにちは、スタッフAです。
今回は、2003年第2問、2017年第2問を扱いました。
問題に関連して、授業中に学んだことを整理しました。

御成敗式目(貞永式目)について
江戸時代の初等教育のレベルは高かったがそのカギになっていたのが御成敗式目。江戸時代の初等教育では、まず「いろは」を教え、次に「そろばん」を習得させた後、御成敗式目を教えていた。
御成敗式目には、国語、道徳、歴史、生きていくための知恵などを記されている。貞永式目は道徳の根本に触れており、現在の民法にも生かされているほどよくできている。

鎌倉時代、幕府は承久の乱で京都に、元寇で九州に勢力を広げた。それまでは、東にある警備会社のような存在だった。

「政治」とはなにか
様々な表現、考え方があるが、例えば
・みんなの納得するルールの決定
・徴税方法の決定
この2つを行うこと。

歴史上の兄弟喧嘩といえば
壬申の乱 (広い概念で見れば、天智系と天武系の争い)672年大海人皇子vs大友皇子。皇位を争い、東国の中小豪族の協力を得て軍事動員に成功した大海人皇子が勝利。

薬子の変 810年藤原仲成・薬子兄妹が、嵯峨天皇の兄にあたる平城太上天皇の重祚と平城京再遷都を画策するが、失敗。藤原式家は没落。

保元の乱 1156年後白河天皇・藤原忠通・平清盛・源義朝vs崇徳上皇・藤原頼長など。鳥羽法皇の死を契機に、天皇家・摂関家の内部対立。中央政界の抗争に武士の力が不可欠だと判明。武士の中央政界進出を決定づける。後白河上皇による院政開始。

源頼朝vs源義経 源平合戦

持明院統vs大覚寺統 後嵯峨上皇の2子が皇統や皇室領荘園の相続を巡り対立。

観応の擾乱 1350~1352年足利直義による高師直殺害を契機に、北朝の2派が武力衝突。双方、一時的に南朝と和睦するなどしたが、直義が敗死。
など
皇位の争い、家督の争いで兄弟喧嘩がよくおこり、周りを巻き込んでしまう。

今回も、過去問を解き、答案を提出し、共有された他の生徒の答案を読み込んでから、授業に参加しました。答案に要素が多くなると漢字の割合が増えるため、漢字の多い答案作成を心がけることが、ひとつの目安だと思います。

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