2017年東大日本史(第1問)入試問題の解答(答案例)と解説
◎はじめに
東⼤⽇本史の問題は、リード⽂、資料⽂、設問⽂の3点で構成されているのはご存知だろう。
ではいったい、どの順で読むべきだろうか?
問題によって柔軟に対応するのがベストであるが、基本的には、①リード⽂、②設問⽂、 最後に③資料⽂の順に読むことをお勧めする。 それは、まずはリード⽂と設問⽂をよく読み、解答にどのような情報が必要なのか 把握した上で資料⽂と向き合うのがよいだろうと考えられるからだ。
これまで多くの⽣徒や再現答案を⾒て、採点や添削を⾏ってきたが、内容の良し悪し以前に、問われていることに答えていない答案が、想像以上に多い。そこで、設問の分析から始めることで、問われている内容から外れないよう⼼掛けることを強くお勧めしている。
◎設問の分析
【設問A】
問われているのは古代の東北地⽅の⽀配が持った意味であるが、それは「律令国家にとって」とわざわざ書かれている事に着⽬しよう。
【設問B】
東北地⽅に関する政策が国家と社会に与えた影響について問われているが、影響には好影響と悪影響がある。多⾓的な視点が必要である事に注意しよう。
◎資料文の選定
東⼤⽇本史では、資料⽂が複数与えられた場合、設問A と設問B で利⽤する資料⽂が住み分けされることがある(両⽅の設問に利⽤する資料⽂が与えられる場合もあることに注意)。
今回は設問A では資料⽂⑴が使えそうだが、設問B は多⾓的な視点からの考察が必要な問題であるため、資料⽂全てを考慮に⼊れて解答を仕上げるべきだろう。
◎設問の解答
【設問A】
設問の分析でも触れたが、「律令国家にとって」の東北地⽅の⽀配の意味を考えなければならない。そのために、まずここでいう律令国家とはどのようなものであるか確認してみよう。
⽇本が律令国家になる上で模範としたのは唐だった。この問題を解く上では、その唐の持つ中華思想を理解しておく必要がある。中華思想とは、⾃国を「中華」と位置づけ世界の中⼼とし、周辺国を「蕃国」や「夷狄」といった野蛮な存在として服属を求めるという国家認識である。なお、「中華」とは「⾃分達の国が世界の中⼼で、いちばん華のある場所だ」という意味だと知っておくと思い出しやすいだろう。
⽇本はこのような唐にならって、⼩中華思想という⽇本を中⼼とした帝国構造を構築しようとしていた。具体的には、新羅や渤海などの周辺国を蕃国と扱い、その使節を朝貢使とみなしたり、九州南部の隼⼈を夷狄(すなわち異⺠族)と扱って服属させたりしていたのだった。
そして、今回の問題となっている蝦夷もそれと同様に夷狄として扱われた。政府は夷狄である蝦夷に服属・朝貢を⾏わせる事によって、⽇本が唐と同じような帝国である事を⽰そうとしていたのだった。
【設問B】
本問は東北での政策が「国家」と「社会」にどのような影響を与えたか、という問題である。資料⽂をひとつずつ、どちらにどのような影響を与えたのか⾒ていこう。(国家への影響は赤字、社会への影響は青字で記す)
では、まず資料⽂⑴から分析してみよう。
資料⽂によると、政府は城柵設置のほか出⽻国と多賀城を置いて⽀配を広げたとあり、東北政策の結果国⼟が拡張し東北地⽅へも律令⽀配が及ぶようになったのだとわかる。なお、国という⾏政区分が使⽤されている事から「律令⽀配」という⾔葉にまで踏み込んで良いと判断した。これは「国家」に与えた好影響と⾔える。
つぎに資料⽂⑵を分析してみよう。
まず資料⽂から、東北政策によって特に東国が軍事動員や東北への移住といった負担を課されていたという事がわかる。これは明らかに「社会」に与えた悪影響である。また、東国以外の諸国も武具製作や蝦夷の受け⼊れといった負担があったとわかる。これも「社会」に与えた悪影響のように思われるが、更に深い考察もできそうだ。それに関しては後述する。
そして資料⽂⑶について。
ここで書かれているのはいわゆる天下徳政相論である。天下徳政相論とは、軍事(対蝦夷の戦い)と造作(平安京造営)が国家財政や⺠衆にとって⼤きな負担となっていることから、これらを停⽌すべきであると主張する藤原緒嗣と、それらの継続を主張する菅野真道の論争の事で、結果として資料⽂の通り桓武天皇は緒嗣の議を採⽤してこれらを停⽌した。資料⽂では「国⼒の限界」とされているが、班⽥収授が困難となっていた桓武天皇期という時代背景から考えると、公地公⺠制の動揺と⾔えるだろう。これが「国家」への悪影響である。
資料⽂⑷はどうだろうか。
そのまま読めば、ここには中央の貴族らの東北物産への関⼼の⾼まりと流通の活発化という「社会」への好影響と捉えられるが、「優秀な⾺」という⾔葉に敏感に反応して欲しい。当時において優秀な⾺とはすなわち軍事⼒である。この事を意識した上で次の⽂を読んでみよう。
最後に資料⽂⑸を⾒てみる。
ここでは東北を鎮めるための軍事的官職が存続し、武⼠団の棟梁としての⼒を築いていった事が書かれている。この事は、裏を返せばそうやって武⼠団を構成する武⼠らが既に存在していたという事を表している。
ここで、資料⽂⑵を思い出して欲しい。資料⽂⑵では諸国に武具製作や蝦夷の受け⼊れが課されていたと書かれており、したがって諸国でも武具製作のノウハウや帰順した蝦夷から伝わった武芸が広がり、武⼠が出現する前提となったとの推測が成り⽴つ。さらに、資料⽂⑷では貴族らが「優秀な⾺」に関⼼を⽰していた事も考慮すると、貴族とくに軍事貴族は上記の軍事的官職を利⽤するのみならず、⾺などの東北物産も⾃らの権威づけや軍事⼒増強に⽤いていた事がわかる。なお、このような物産の事を特に「威信財」というので覚えておくと便利かもしれない。
これらが問われている「平安時代の展開」にあたるだろう。
答案作成用メモの例
◎解答例と総評
A 蝦夷を夷狄として⽀配し服属させることで⽇本型の華夷秩序を形成し、唐と同様に異⺠族を従える帝国であることを内外に⽰した。(問番号含め60字)
B 東北まで⽀配領域を拡⼤させ経済交流が活発になった⼀⽅、軍事動員や移住は農⺠や財政への負担が⼤きく公地公⺠制の動揺を招いた。また、征討を経て権威となった軍事的官職は、武具製作や蝦夷の武芸受容を契機に諸国に出現した武⼠を率い武⼠団を形成した。(問番号含め120字)
Aは、短いながらも問題⽂を注意して読んで解答する必要があり、それを怠ると思わぬミスをしかねない問題だった。⽇頃から問題⽂を⾒落とさず、問いかけに合致した解答を⽤意するように⼼がけよう。
Bは、とても多⾓的な視点が必要な問題で、読み取りから解答の構成までなかなか難しい問題だった。読み取った具体的な内容を解答に盛り込む際にはある程度抽象化しなければならない⼀⽅、その際に⽂の論理が⾶躍してしまい⼀読して内容がはっきりしない解答になってしまう恐れがあるので注意しよう。
◎補足
最後に、資料⽂⑴の「東アジアの国際関係の変動の中で」という部分にも触れておきたい。
教学社25ヵ年(⾚本)では、この国際関係の変動を7世紀半ばの唐による⾼句麗侵攻に伴う朝鮮情勢緊張と捉え、更に8 世紀に⽇本が渤海へ遣使した際に⽇本海を横断するルートをとったこと、そして7 世紀以降サハリンから北海道北・東部にかけてオホーツク⽂化が広がっていたことを考慮して、東北政策は北⽅経由の⼤陸との交渉ルートを確保するという⽬的があったとされている。
この点に関し筆者は、問題⽂が「律令国家」にとっての意味を問うている事を考えると、必ずしも「律令国家」でなくとも当てはまる上記の⽬的は解答に盛り込む必要はないと考えた。
どちらの意見が説得力を持つかは、この記事を読んでいる皆さんが判断してほしいが、このように解釈によって答案の方向性が分かれてしまう問題に関しては、どちらの答案に対しても点数が与えられる可能性が十分にある。また、方向性だけで点数が決まるわけではなく、日本語の運用能力や分かりやすさ、答案の主張する説得力や明快さなど、総合的に判断されると考えられるので、単に方向性や要素ばかりが重要であるわけではないことに注意してほしい。
また、7〜8世紀にかけての朝鮮情勢の緊張という視点は古代史を眺める上で⼤変重要である。⽇本海を挟んだ先に唐という圧倒的な軍事⼒を有する⼤帝国が成⽴し、その隣国が次々に侵攻を受けているなか、「明⽇は我が⾝」の⽇本の役⼈達の危機感を想像してみると、よりビビッドな歴史観が得られるだろう。このような唐の軍事的圧迫が背景となって、7世紀半ばの⼤化改新での公地公⺠制への移⾏などの急速な中央集権化が進められたのだった。
そして、公地公⺠制は律令国家による個別の⼈⾝⽀配を可能とし軍団制を実現、⽇本は組織的な軍事⼒を得る事に成功したのだった。