2017年東大日本史(第4問)入試問題の解答(答案例)と解説
目次
◎はじめに
東⼤⽇本史の問題は、リード⽂、資料⽂、設問⽂の3点で構成されているのはしっていることでしょう。
ではいったい、どの順で読むべきでしょうか?
問題によって柔軟に対応するのがベストではありますが、基本的には、①リード⽂、②設問⽂、 最後に③資料⽂の順に読むことをお勧めしています。 それは、まずはリード⽂と設問⽂をよく読み、解答にどのような情報が必要なのか 把握した上で資料⽂と向き合うのがよいだろうと考えられるからです。
これまで多くの⽣徒や再現答案を⾒て、採点や添削を⾏ってきましたが、内容の良し悪し以前に、問われていることに答えていない答案が、想像以上に多いです。そこで、設問の分析から始めることで、問われている内容から外れないようにい⼼掛けることを強くお勧めしています。
◎設問の分析
設問A
2個師団増設をめぐる問題と聞くとまず第2次西園寺内閣の倒閣を思い出すだろうが、与えられた年表を見ると第2次大隈内閣での増設可決まで書かれている。そのため、2個師団増設問題の発生から可決までの期間を対象と考えればよいだろう。
設問B
こちらは基本的な知識問題である。年表に与えられたワシントン体制の成立の流れを援用しつつ、知識をまとめればよい。
◎資料文の選定
第1問〜第3問とは違って、第4問はこのように年表が与えられたり、資料文がなかったりするケースがある。したがって、前者と比べて要求される知識量が多いので教科書をしっかり読んで対策しよう。
◎設問の解説
設問A
<前提となる話>
では、2個師団増設まつわる問題を中心に時系列順にまとめてみよう。
前提として、まず1907年の帝国国防方針において軍を増強する方針が示されていた。具体的には、海軍は八八艦隊の建造で陸軍は17個師団から25個師団への増強である。
次に、対外情勢に目を向けてみよう。1910年には韓国併合条約によって朝鮮を植民地化した。一方中国では、1911年から辛亥革命が発生し翌年には中華民国が成立した。このような情勢下で、陸軍は第2次西園寺内閣に朝鮮半島における2個師団の増設を求めた。
<第二次西園寺内閣>
しかしながら、緊縮財政政策をすすめる同内閣はこれを退けたため、上原勇作陸相はこれに抗議し天皇に単独で辞表を提出し(帷幄上奏)、更に陸軍はこれに後任を出さないという措置をとった。
※帷幄上奏とは、参謀総長、海軍軍令部長、陸海軍相が、内閣を経由せずに直接大元帥(天皇)に報告し、裁可を求めること。上原は陸相だったので帷幄上奏権と主張して辞表を提出した。
ここでポイントになってくるのが軍部大臣現役武官制である。これは軍部大臣(つまり陸相と海相)は現役の武官でなければならない事を定めた制度であるが、西園寺首相が山縣有朋に後任の陸相を出すように求めたところ拒否されてしまい、陸相が欠員状態になってしまった。したがって内閣は総辞職に追い込まれたのだった。軍部大臣現役武官制にはこのような倒閣機能があり、これが問題文で言うところの「内閣に対する軍部の自立性」である。
<第三次桂内閣>
続いて第3次桂太郎内閣が成立した。ここで重要なのは桂が内大臣(天皇の常時輔弼役)・侍従長の地位にあった事である。そのような地位にあるものが内閣総理大臣(=府中の長)となるのは、「宮中・府中の別」を乱すものであるとの非難を呼び、先述の2個師団増設問題とともにこれは第一次護憲運動の原因となった。
<第一次護憲運動>
第一次護憲運動とは、立憲国民党の犬養毅と立憲政友会の尾崎行雄らを中心に商工業者やジャーナリスト・民衆らが「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに桂内閣の退陣を要求したものである。
桂はこのような動きに対して新党を結成し対抗したものの、在職50日余りで退陣に追い込まれた(大正政変)。なお、この新党がのちに加藤高明を総裁とし立憲同志会として正式に発足することになる。
<第一次山本権兵衛内閣>
続いて成立したのが、立憲政友会を与党とする第1次山本権兵衛内閣である。山本内閣ついて特筆すべきは2点である。ひとつは、文官任用令の再改正である。文官任用令は、第2次山縣有朋内閣において1899年に一度改正されている。それは、政党の影響が官僚に及ぶのを防ぐためであった。山本内閣は、これを再改正し政党員にも高級官僚への道を開いたのである。
いまひとつは、軍部大臣現役武官制改正である。軍部大臣の資格を現役の大・中将のみならず、予備・後備役にまで拡大する事によって先述したような倒閣機能を緩和したのである。
<第2次大隈内閣>
ジーメンス事件によって山本内閣が総辞職した後、立憲同志会を与党として第2次大隈重信内閣が成立し、同志会は総選挙で政友会に圧勝し第1党となった。また、年表に与えられている通りこの時に2個師団増設が実現しているが、陸軍にとってこれには同志会の協力が必要であった。総選挙で同志会が政友会に圧勝し、念願の2個師団増設が叶ったのである。
<政党政治への影響>
さて、長くなったが以上が2個師団増設をめぐる主な動きである。ここから増設問題が政党政治に与えた影響を考えてみよう。
まず、2個師団増設問題をめぐる陸軍と西園寺内閣との対立が、軍部大臣現役武官制によって内閣の退陣につながった事が挙げられる。立憲政友会を与党として成立している西園寺内閣を軍部が退陣に追いやることは、政党政治に対するマイナスの影響と言える。
次に、続いて成立した桂内閣については第一次護憲運動の発生と新党の結成があげられる。先述したように桂新党は後に立憲同志会として正式に成立し、第2次大隈内閣においては与党となる。立憲同志会はのちに憲政会、そして立憲民政党と変遷しつつ立憲政友会と二大政党を担っていく。つまり、元老政治から脱却し、将来的な二大政党政治への契機となるというプラスの影響があったといえる。
また、山本内閣における軍部大臣現役武官制改正に伴う軍部の自立性の後退も挙げるべきだろう。大隈内閣での2師団増設実現において陸軍は立憲同志会の協力を必要とした事からも、同制度改正は政党の影響力拡大というプラスの影響力を持っていた事がわかる。
設問B
<ワシントン体制>
ロンドン海軍軍縮条約締結の背景について、まずは対外的な背景からまとめてみよう。
年表では、ワシントン会議以降の諸条約締結というワシントン体制の成立、すなわち国際的な協調と軍縮の流れが記されている。
四カ国条約とは太平洋地域の現状維持と日英同盟破棄を取り決めたものであり、九カ国条約は中国の領土と主権尊重・機会均等・門戸開放を定めたものでこれを契機に石井・ランシング協定(アメリカが中国における日本の特殊権益を認めたもの)が破棄された。そして、ワシントン海軍軍縮条約は締結国の主力艦保有比率を定め、かつ今後10年間の建造を禁止したものである。アメリカ主導で進められたこれらの動きはどのような狙いがあったのだろうか。
それは、日本に対する牽制である。ワシントン会議に先立つ第一次世界大戦において、戦線とは遠く離れていながら連合国として参戦した日本は、中国に対して21箇条要求を突きつけドイツ山東省権益を継承するなどしたほか、パリ講和会議においてはドイツ領南洋諸島を国際連盟の委任統治下で管理する(これらは建前であり実質的な植民地と言える)権利を得るなど、中国・太平洋地域においてその勢力を拡大していた。ワシントン会議は、このような日本の動きに制限をかける意図があった。先述したものの他には、九カ国条約に伴い山東懸案解決条約が締結され山東省旧ドイツ権益が中国に返還された。
以上のようにワシントン体制は、単なる国際協調・軍縮という文脈だけでなく、このような日本への牽制と意味があったという事に注意したい。日英同盟破棄にも見られるような、米英に積もり始めた日本に対する不信感に留意すると、戦間期の外交関係が見やすくなるだろう。
さて、長くなったがロンドン海軍軍縮条約締結の対外的な背景は、ワシントン会議以降の国際協調と軍縮の流れに沿った協調外交、いわゆる幣原外交である。
では次に、国内的な背景を見ていこう。
<金解禁と緊縮財政>
浜口内閣で1930年と言えば思い出したいのが、井上準之助蔵相による金輸出解禁である。井上蔵相は、長期にわたる不況の打開策として旧平価での金輸出を解禁する事で深刻なデフレを引き起こし、物価の引き下げと産業合理化を図った。政府はこのようなデフレに伴い財政緊縮する事によって歳出を削減する必要があった。軍縮は、このような財政緊縮の一環でもあったのである。
なお、この金解禁デフレ政策は不幸にも世界恐慌によりデフレ効果が同時発生した事によりさらに深刻な不況を招くこととなった(昭和恐慌)。この井上財政での金輸出解禁から高橋財政での金輸出再禁止までの流れは重要なので気をつけよう。
以上がロンドン海軍軍縮条約の背景である。ここからは、それに対する国内の反応を見ていこう。
<統帥権干犯問題>
ここでまず思い出されるのは、統帥権干犯問題だろう。
そもそも同条約は海軍軍令部が要求する対米7割を満たしていなかったため、海軍からは不満の声が上がっていた。それでも浜口内閣は反対を押し切って調印したため、海軍に留まらず右翼や野党(立憲政友会)も批判の声を上げた。この際に用いられた論理が、天皇の統帥権を輔弼する海軍軍令部の反対を押し切り、内閣が兵力を決定する事は天皇の統帥権を干犯する行為である、というものであり、統帥権を拡大解釈したものだった。
これに対し浜口内閣は、兵力量の決定は編制大権(12条)の一部であり、それは内閣の輔弼事項であると反論、枢密院の合意を取り付ける事に成功し締結に漕ぎ着けた。
このように、大日本帝国憲法が関連した問題は頻出なので注意しよう。
以上のように何とか条約を締結した浜口内閣だったが、その後に首相が右翼青年に狙撃されるという禍根を残す事となった。浜口首相はこの事件で受けた傷が原因となり総辞職、しばらくして死去し、本内閣の井上財政と幣原外交は第2次若槻礼次郎内閣に継承されていく。
◎解答と総評
答案A
政党総裁を首相とする西園寺内閣退陣を招いたが、第一次護憲運動は元老政治からの脱却と二大政党政治への契機となり、軍部大臣現役武官制改正は軍部の自立性を後退させ政党の影響力を強めた。
答案B
第一次護憲運動の藩閥政治批判を受け、元老政治からの脱却を目指し桂新党が結成され、軍部大臣現役武官制の改正により軍部の影響力が制限されるなど、政党政治の影響力が増した端緒となった。
答案C
閥族打破を謳う第一次護憲運動により大正政変に至る過程で、元老政治からの決別と政党政治への移行を狙い桂が新党を結成したが、この新党が後の憲政の常道の一翼を担う政党となった。
答案A
金輸出解禁に伴い財政緊縮が必要な中、協調外交を採る内閣はワシントン会議以降の国際的な軍縮の潮流に従おうとした。これに反発する海軍や野党の立憲政友会との間で統帥権干犯問題が生じた。
答案B
国際的に軍縮の傾向にある中、浜口内閣は国際協調と緊縮財政を進めているという背景があった。しかし軍縮条約の締結は、海軍軍令部や野党の同意が得られず統帥権干犯問題に発展した。
答案C
国際的な軍縮傾向と、井上による緊縮財政の方針は、軍縮条約と同じ方向性であった。海軍の反対する条約を内閣が独断で締結したのは統帥権干犯であると批判され、浜口首相暗殺事件が起こった。
◎おまけ
この問題は、多岐に渡る知識を覚えていることもさることながら、深い理解をも必要とする良問である。
本稿に書かなかった、「憲政の常道」の原則とその意味、ワシントン会議以降の軍縮傾向、第一次世界大戦以後の世界的な金融の流れ、金本位制の捉え方などは、映像授業コースの日本史第4講(工事中)にて解説している。
頻出テーマであり、他の過去問の理解にも必須事項なので、理解が足りない受験生はぜひ視聴されたい。