2019年東大日本史(第3問)入試問題の解答(答案例)と解説
目次
江戸の「輸入依存 → 国産化」作戦
今回は18世紀前後の日本を、「何を海外から買い、どう対価を払っていたか」「なぜ、どうやって国産に切り替えたか」「その背景にどんな暮らしの変化があったか」という3つの視点で読み解きます。
【設問要求】
設問A
「江戸幕府が(2)〜(4)のような政策をとった背景や意図として、貿易との関連では、どのようなことが考えられるか。2行以内で述べなさい。」
設問B
「そうした政策をとった背景として,国内の消費生活において,どのような動きがあったと考えられるか。それぞれの産物の用途に留意して,3行以内で述べなさい。」
江戸幕府が資料(2)から(4)のような政策を進めていった背景には、当時の貿易をめぐる切実な事情がありました。幕府は「金銀(銅)流出の抑制」や「輸入代替」を狙いとして、「輸入制限・国産化」を進めていきました。海外との交易では日本の金銀が大量に流出していたため、その動きを止めるべく、国内で生産できるものはできるだけ国内で賄おうとしたのです。こうした思惑から貿易統制につながっていきました。
また、政策をとった背景には、国内の消費生活の大きな変化も密接に関わっていました。都市化が進むにつれて人々の消費活動が活発になり、とくに生活の質を高める品々への需要が高まっていきます。例えば、生糸は質のいい織物として広く使われ、朝鮮人参は薬種として健康を保つために欠かせないものとなり、砂糖は嗜好品として都市の人々の間で急速に人気が高まりました。こうした「消費拡大」や「嗜好品需要」、さらには「養生志向」の広がりが、国内での需要を生み、結果として幕府の政策形成を強く後押ししたのです。
資料文の分析
【資料⑴】「17世紀の輸入品と決済通貨」
17世紀を通じて、日本の最大の輸入品は中国産の生糸であった。ほかに、東南アジア産の砂糖や、朝鮮人参などの薬種も多く輸入された。それらの対価として、初めは銀が、やがて金や銅が支払われた。
それぞれの輸入額上位の品目とその理由
17世紀の日本では、最大の輸入品が「中国産の生糸」であったことはよく知られています。当時、日本では西陣をはじめとする絹織物の生産が発展し、町人や武家の衣料需要が大きく膨らんでいました。そのため、完成品の絹織物ではなく、原料としての「生糸」の輸入が爆発的に増えていったのです。この「国産絹織物のための原料需要」という国内事情が、生糸を最大輸入品たらしめていました。
同じように、東南アジア産の砂糖の輸入が増えた背景にも、都市化にともなう嗜好文化の広がりがありました。砂糖は茶の湯や喫茶文化の定着、和菓子の普及、料理の甘味付けなどに欠かせない存在となり、江戸・大坂・京都といった人口集積地ではその消費が急速に拡大しました。もともとは高級嗜好品でしたが、都市の商業発展とともに日常の中にも浸透していったのです。
また、朝鮮人参をはじめとする薬種が多く輸入されたのは、単なる嗜好品の流行という問題ではありませんでした。朝鮮や中国を中心とする薬種は、医薬や養生の材料として重宝され、本草学の流行も相まって需要がさらに押し上げられました。健康を大切にしようとする「養生志向」の高まりの中で、都市社会に医薬市場が広がりました。これは現代の健康ブームにも通じる動きでした。
対価としての貴金属
こうした輸入品の対価として、初めは銀が、やがて金や銅が支払われたという事実も、当時の国際経済と国内事情が絡み合った結果です。17世紀前半の日本は石見銀山に代表される「銀の産出大国」で、中国国内(明〜清)では銀貨決済が主流でした。したがって、日本が中国産生糸などを求める貿易では「銀で払うのが最も合理的」だったのです。しかし時代が進むにつれて、日本国内の銀産出量は次第に鈍化し、銀資源に余力がなくなっていきました。それと同時に中国側では銅銭鋳造のための銅需要が急増し、日本は次第に銅の輸出へ軸を移していきました。「決済が銀から金・銅へと移る」という流れが生まれ、貴金属や銅の流出が続くことになります。
これらの流出は幕府にとって重大な問題でした。金銀や銅といった国内の通貨資源が海外へ流れ出てしまうと、貨幣の鋳造が滞り、国家の富の基盤そのものが揺らいでしまいます。こうした政治経済上の痛手を避けるために、幕府は輸入規制や国産化政策を強め、貿易統制を通じて流出を抑えようとしました。これが、後の輸入制限や生糸・砂糖・薬種の国産化政策につながっていきます。
当時の貿易スタイル
当時の日本の貿易は、長崎貿易を軸に展開し、清の唐船やオランダ船が主要な窓口となっていました。対馬藩は朝鮮外交の拠点として薬種、特に人参の流通を握り、薩摩藩は琉球ルートを通じて砂糖生産の知見を持っていました。幕府は長崎を中心とした貿易の中央管理に加え、こうした各藩の流通生産ネットワークを組み合わせることで、国家としての交易管理を進めました。幕府自身が貿易の窓口や数量・価格・技術流入に介入し、国内経済の安定を図ろうとしたのです。
このように、17世紀の日本では、生糸・砂糖・薬種といった輸入品がそれぞれ固有の理由によって大量に求められ、その対価として支払われた銀・金・銅の流出が幕府の政策形成に大きな影響を与えました。国内産業の成長、都市化と消費拡大、健康志向の高まり、そして国際経済の変動が複雑に作用し合うなかで、江戸幕府は貿易の在り方を慎重に調整していったのです。
【資料⑵】「輸入統制 → 国産化 → 増産奨励」
江戸幕府は1685年に、長崎における生糸などの輸入額を制限した。1712年には京都の織屋に日本産の生糸も使用するよう命じ、翌年には諸国に養蚕や製糸を奨励する触れを出した。
第一段階:輸入規制
江戸幕府が1685年(新井白石の時代)に長崎での生糸などの輸入額を制限し、その後1712年には京都の織屋に国産生糸の使用を命じ、さらにその翌年には諸国に養蚕や製糸を奨励する触書を出したのは、すべて同じ方向へ向かう三段階の政策でした。
最初の段階では、海外から入ってくる量そのものを抑えるために「長崎で輸入額を絞る」という根本への対策が取られました。当時の日本では、先述の通り生糸・砂糖・薬種の決済で貴金属が国外へ流れていました。そのため、まずは貿易量と貿易額を押さえることが最も速い“止血”策だったのです。また、輸入生糸は品質が高く、国産生糸の価格を押し下げてしまうため、輸入を抑えることには価格の安定や国内産業保護の意味もありました。さらに、当時は長崎を幕府直轄の交易ゲートとして入港量や相場、取引額の管理を包括的に行えるため、幕府にとって統制しやすい拠点でもありました。こうして幕府は、①金銀流出を抑え、②価格を安定させ、③国内産業を保護するという複数の狙いを同時に達成しようとしたのです。
第二段階:生糸の国産化
しかし、輸入額を制限するだけでは、外国産生糸を望む大きな需要は消えません。そこで次の段階として、幕府は需要側に直接テコ入れを行いました。当時、生糸の最大消費地は京都で、西陣などの織物産地が特に有名でした。ここが国産生糸を使うようになれば構造が一気に変わります。幕府が京都の織屋たちに国産生糸の使用を命じたのは、この大口需要の“針路を変える”ためでした。生糸の需要の固定は供給のきっかけとなります。買い手が国産生糸を必ず使うと決まれば、売り手である各地の農村や町は安心して桑の植栽や蚕室整備、撚糸器具導入といった投資を進められるようになります。また、品質面で中国産生糸に劣っていた国産生糸についても、京都という巨大市場で原料として使わざるを得ない状況が、競争とともに検査制度や等級付け、繰糸・撚糸技術の改良を促し、品質向上の圧力となりました。こうして幕府は「需要を国産に縛る」という強力な方法で、市場そのものの流れを変えようとしたのです。
第三段階:増産奨励
そして最後に、需要が国産へ向かう流れを安定させるためには、何よりも供給量のさらなる拡大が欠かせません。そのため幕府は諸国に養蚕・製糸を奨励する触書を出し、農村単位での生産体制を支える仕組みを整えていきました。
桑畑の拡張、蚕種管理や蚕小屋の改善、繭の選別から繰糸・撚糸・検査に至るまでの技術の標準化が進められ、現場での生産力が底上げされていきます。また、村役人が触書を伝え、商人が資金や器具、流通網を提供し、藩が地域の指導役として保護策を採用するなど、村・商人・藩が連動して動くことで、幕府の政策は広い地域へと浸透していきました。農民にとっても、養蚕や製糸は家族労働を活かしやすく、農間期にも取り組める現金収入源だったため行いやすく、村が豊かになるという直接的な利益がありました。
こうした動きが重なった結果、国内原料比率は上昇し、輸入生糸への依存は徐々に減っていきました。同時に、内陸部には繭や糸を集荷する商業ルートが形成され、市場が拡大し、価格の安定と品質向上という好循環を生み出しました。これにより貿易面では金銀(銅)流出が抑えられ、内需面では織物産業がいっそう成長するという二重の成果がもたらされたのです。こうした手法は、のちに朝鮮人参や砂糖の国産化にも応用され、「統制・国産化・技術整備・流通改革」という共通の骨格が使われていきました。
もちろん、この流れには課題もありました。中国生糸と比べた際の品質のムラ、輸入抑制による価格上昇のリスク、桑の適地や水利などによる地域間格差といった問題は避けられません。しかし、こうした弱点を把握し、制度や技術の改革によって埋めようとする姿勢があったというのもまた当時の政策の力強さを示しています。
このように、江戸幕府が行った一連の政策は、貿易統制・需要の転換・供給基盤の拡充という三つの段階を通して、金銀流出の抑制と国内産業の育成を同時に実現しようとした、非常に戦略的で多層的な取り組みだったのです。
【資料⑶】朝鮮人参のアプローチケース
1720年には、対馬藩に朝鮮人参を取り寄せるよう命じ、栽培を試みた。その後、試作に成功すると、1738年には「江戸の御用達町人に人参の種を販売させるので、誰でも希望する者は買うように」という触れを出した。
江戸幕府が1720年に対馬藩へ朝鮮人参を取り寄せるよう命じ、その後栽培を試み、1738年には「江戸の御用達町人に人参の種を販売させるので、希望者は誰でも買うように」と触れを出した一連の動きは、生糸政策と同じ「統制と国産化」の型を薬種分野に横展開したものでした。
朝鮮人参の例:国産化まで
まず幕府は、朝鮮との外交・交易の窓口であった対馬藩に指示し、正規ルートを通じて朝鮮人参の種や栽培知識、見本を確実に入手させました。対馬藩は対朝交易の実務や人脈、言語、慣行に通じていたため、偽物や劣等品のリスクを避けつつ、本物の種と情報を安定して調達できたのです。この「海外由来の高付加価値品は、信頼できる窓口から」という姿勢が、国産化の第一歩となりました。
続いて幕府と藩の管理下で試作が行われ、日本の土壌や気候で栽培が可能かどうか、播種期や間引き、病害対策といった作業暦、さらには根の太さや乾燥度合など薬効や価格を左右する品質の基準についても検証が進められました。朝鮮人参は多年草で、温湿度・日照・土壌酸度など微妙な条件に左右されるため、いきなり民間に任せれば失敗や損失のリスクが大きかったのです。試作は単に作れるかを確かめるだけでなく、輸入代替のため「どう作れば安定した品質で作れるのか」という考えがありました。この点は、生糸の時に行われた繰糸・撚糸技術の確立と同じ発想でした。
栽培の成功が確認されると、幕府は1738年に、江戸の御用達町人に人参の種子を販売させ、希望する者なら誰でも購入できるようにして、市場に向けて一気に門戸を開きました。御用達町人は幕府に仕える商人として信用が厚く、彼らに公式に販売を任せることで、種子の真正性を担保しつつ、価格や供給の安定、さらに江戸を起点として全国に広がる配送ネットワークの確保まですべてを同時に実現できました。普及を目的として、許可制から自由販売へと切り替えることで、農家や町人、商人など多様な主体がこの新しい薬種生産に参入する道が開かれたのです。
ここには、生糸政策が「需要を国産へ固定する」ことを重視したのに対し、人参では「供給の入口を広げる」ことに重点が置かれたという、品目特性に即した政策の違いが見て取れます。
なお、先ほど資料(2)の部分で新井白石の時代に行った輸入規制は”止血”だと言いましたが、その止血を引き継ぎつつ、さらに国産化していったということです。
朝鮮人参の例:需要と供給について
こうした国産化の推進には、当時の内需の強い牽引力がありました。都市では養生志向が高まり、町医者や薬種商が普及し、本草学が流行し、滋養強壮を求める日常的なニーズが増えていました。人口が都市に集中するほど感染症や疲労への不安が高まり、体調管理としての薬種の需要が膨らんでいきます。もともと高付加価値で輸入比重の高い品目だったため、これを国産化できれば金銀銅など貴金属の流出を軽減する効果も大きく、政策が強く後押しされました。まさに「健康需要の恒常的な展開」が、国産化政策を支えていたのです。
国産化が進むと、農家にとっては現金収入の多角化につながり、輪作や山間地の活用など地域の経済を豊かにする効果が広がりました。薬種商や仲買の市場は拡大し、検査や等級付け、計量などの制度整備が進み、本草学の記録や栽培書が蓄積されるなど、知識の発展にも拍車がかかりました。地域ごとに特産品としての人参栽培が根づく動きが見られたことも、大きな波及効果でした。
残存する課題に目を向けてみる
もちろん、課題も少なくありませんでした。本場の朝鮮産と比べた際の薬効差は常に論点となり、年限管理や乾燥法、選別方法によって追随する努力が続きました。需要が拡大するにつれて偽薬や混用の危険も生じ、これを抑えるためにも御用達を通じた真正な種の供給と検査制度が重要でした。即時に品質が分かりにくいという特性上、薬に対するリテラシーの向上が必要とされた点は、生糸や砂糖と比べても特徴的だったと言えるでしょう。
このように、朝鮮人参の国産化は、対馬藩による入手、幕府と藩による試作、御用達町人による販売という三段階を経ながら、統制と市場開放が巧みに組み合わされた政策でした。健康意識の高まりという内需の流れにも支えられながら、江戸社会の薬種経済と貿易構造を大きく変える試みだったのです。
さて、人参が作れる目途が立ったら、次は嗜好品の王者=砂糖です。ただし砂糖は栽培(サトウキビ)+製糖技術(加工)が難関です。
そのため薩摩由来の知識を駆使し、継続的な製糖研究をするという苦心が見られます。
同じ輸入代替でも必要技術の性格やレベルが違うというわけです。
【資料⑷】砂糖のアプローチケース
1727年に幕府は、薩摩藩士を呼び出し、その教えに従って、サトウキビの栽培を試みた。その後も引き続き、製糖の方法を調査・研究した。
江戸幕府が薩摩藩士の教えに従ってサトウキビの栽培を試み、さらに製糖法の調査・研究を続けていった政策は、生糸や朝鮮人参の場合と同じ「統制と国産化」の型を、砂糖という嗜好品の分野に適用したものでした。ただし、今回の中心は「加工技術」の熟達であり、原料確保や市場に重点を置いた以前の資料のケースとは決定的に異なります。
とりあえず薩摩藩士に話を聞いてみよう
幕府が最初に行ったのは、琉球・南島ルートで砂糖生産の知識を持つ薩摩藩士を中央へ招聘することで、これが第0段階に当たります。薩摩は南島の気候や栽培条件、製糖の作法に通じており、失敗例や勘所のような文書では伝わりにくい知識も、人を通じて伝えるなら確実です。幕府は窓口に携わっていた人材を自らの教育ルートに引き込み、情報の信頼性と政治的コントロールを同時に確保しました。これは「長崎で入口を締める」「対馬の窓口を使う」といった発想と同じで、「ゲートと人材を握る」という江戸幕府の典型的な手法でしたね。
第一段階:栽培の試み
その後、第1段階としてサトウキビの栽培が試みられました。地理選択者であればまず思うであろう砂糖国産化の第一の壁は「日本でそもそも育つのか」という点です。サトウキビは温暖で日照が豊富な土地を好むため、適地の選定が不可欠でした。植え付けから収穫、株出しのサイクル、台風期の倒伏対策、苗の確保といった栽培のタイムテーブルに加え、多湿条件特有の腐敗やカビなど病虫害への対策も求められました。さらにサトウキビは刈ると糖度が急激に落ちるため、畑の隣に加工施設を置くなど「農と工の空間的な連結」まで含めて実証しなければなりませんでした。ここで幕府は、単に“育てる”ことではなく、“育てたものをいかに砂糖にできるか”という全体設計を探ったのです。
第二段階:加工の試み
続く第2段階では、サトウキビを砂糖へ変えるための製糖技術が継続的に研究されました。圧搾機の圧力や回数、不純物を除く工程、火加減や釜の材質が左右する濃縮作業、そして温度や時間管理による結晶化などは、どれも高度かつ失敗しやすい技術でした。仕上げの段階では色や粒の形も品質の決め手となり、保存性を高める工夫も必要でした。さらに砂糖製造は燃料の消費が激しく、釜の効率、労働者の熟練度、器具の耐久性といったコスト要因も重くのしかかりました。さらには湿気で固結しやすい砂糖の特性から、容器や輸送方法の工夫も欠かせませんでした。こうした複雑な条件が積み重なるため、資料にあるように「継続研究」が必要だったのです。
第三段階:需要について考える
この国産化の背景に、当時の砂糖需要の強さがありました。砂糖は茶の湯や喫茶文化、和菓子、料理の甘味付けといった都市文化の中心にあり、人が集まれば贈答やもてなしの機会が生まれ、消費はさらに広がっていきました。嗜好品需要は所得の伸びに敏感で、町人経済が拡大すれば需要も上昇します。そのため、国内で砂糖が生産されれば「すぐに使い道がある」という状況が社会全体に存在していたのです。まさに、需要の強さが国産化の強力な後押しでした。
残存する問題に目を向ける
しかし、この政策にはさまざまな課題が伴います。気候制約が大きいサトウキビは栽培できる地域が限られていたため、適地への集中生産と、そこから都市部へ届ける物流整備が不可欠でした。さらに海外砂糖と比べれば、先述のようにコスト競争や品質で不利になりやすかったため、費用を圧縮する努力と精製技術の継続的な改良が必要でした。設備投資と燃料費の重さから資金回収には時間がかかり、商人の前貸しや共同経営など商業資本の関与も欠かせなくなりました。
このように、江戸幕府の砂糖国産化政策は、薩摩藩士という専門知識の源泉を中央に集め、栽培の可否と運用方法を検証し、さらに難易度の高い製糖技術を地道に研究するという三段階を踏みながら、輸入依存が高い嗜好品を国内生産へ移行させようとした大規模な試みでした。そしてその根底には、都市化と嗜好文化の広がりが生み出した強い需要と、金銀(銅)流出を抑えたいという幕府の経済政策がしっかりと結びついていたのです。
【まとめ】
この問題は、「貿易上の痛点(金銀の流出)」と「国内の欲望(都市の消費・需要拡大)」という外と内の二重圧力が、江戸の政策を輸入依存 → 国産化へと押し流した、という構造の類似性を読み取る課題でした。さあ答案作成に行ってみましょう。
【答案例】
設問A
輸入対価である金銀銅の流出を抑えるため、幕府は輸入制限や国産化で輸入代替をし、貿易収支の改善・商品価格の安定を図った。
設問B
生活・経済の安定と生活水準上昇を背景に、都市化・商業化による絹織物用原料の生糸需要、本草学流行と養生志向の高まりによる朝鮮人参需要、嗜好品消費増大による砂糖需要が急増した。



