【東大日本史】2018年第3問の解答(答案例)と解説

◎設問の分析

設問A

一般的な異国船打払令に関する理解とは異なった実態が資料文で提示され、それに関する解釈を問われている問題。資料文を忠実に読み込む事で解答の道筋が見えてくる。

設問B

異国船打払令を掘り下げた問題に見えて、実はその前提ともなっている制度である、いわゆる「鎖国」体制の原則に立ち返る必要がある問題である。

◎資料文の選定

東大日本史では、資料文が複数与えられた場合、設問Aと設問Bで利用する資料文が住み 分けされることがある(両方の設問に利用する資料文が与えられる場合もあることに注意)。

ただし本問は、A Bともに⑴〜⑸の資料文を満遍なく使う問題と言える。必ずしも資料文を二分する必要はない事も覚えておいて欲しい。

◎設問の解答

設問A

この問題は、あるひとつの事に気付いてしまえば解答は簡単に辿り着ける。

それは、資料文において異国船は⑴⑵においては捕鯨船、⑶においては漁船と表現されているという点である。つまり、資料文⑸にあるように1810年に会津藩・白河藩が江戸湾の防備を課された事の前提となっている、ロシア軍艦による蝦夷地攻撃やフェートン号事件(イギリス軍艦)に見られるような、「軍艦」を想定していないのである。

したがって、問われている「異国船に対する認識」とは、噛み砕いて言えば「なぜ軍艦と違って捕鯨船・漁船は特別な防備が必要ないと考えられたのか?」という問いに落とし込める。そうなれば簡単で、上記のような軍艦が起こした事件に発展する危険性がなく、あるとしても密貿易や薪水給与の要求くらいだと考えられたからだ。こういった内容を一般化して記述しよう。

ではなぜ、このような一見矛盾した対応がとられることになったのだろうか。19世紀前後の対外情勢をまとめつつ考えてみよう。

まず1792年、ロシア使節ラクスマンが漂流民を伴って根室に来航し通商を求めてくる。その際、江戸湾入航を要求されたという事が契機となり、幕府は蝦夷地・江戸湾の海防の強化を諸藩に命じた。特に蝦夷地政策が本格化し、1798年には近藤重蔵・最上徳内に択捉島を探査させたほか、入植や東蝦夷地の直轄化と居住のアイヌへの同化政策を行った。

1804年にはロシア使節レザノフが、ラクスマンが持ち帰った入港許可証を携えて長崎に来航するが(つまりこれは正式な使節である)、幕府はこれに冷淡な対応をしたうえで、追い返してしまったため、ロシア船は樺太や択捉島を攻撃し幕府に大きな衝撃を与えた。これを機に幕府は、1807年に松前藩と蝦夷地全てを直轄化し松前奉行の支配下として、東北諸藩にその警護に当たらせたり、1808年には間宮林蔵を派遣して樺太とその対岸を探査させたりするなど、北方の防備をさらに増強させた。

このような北方の対ロシアの緊張と時を同じくして、1808年に長崎にイギリス軍艦フェートン号が侵入、薪水や食料を強要するというフェートン号事件が発生した。

余談だがなぜこのタイミングで英軍艦が来航したかというと、それはナポレオン戦争と関係がある。フランスと戦争状態にあったイギリスは、ナポレオンがオランダを征服し仏領になった(つまりオランダが敵国になった)のを機に、アジア各地のオランダの拠点を奪取しようと試みていた。フェートン号事件は、英軍艦がオランダ船を拿捕しようと長崎に侵入してきたのが発端である。このように、日本史と世界史の知識を繋ぎ合わせるという勉強の仕方は、忘れづらくなるだけでなく、同じ物事を眺める上で複数の視点を用意できるのでおすすめである。

さて、話を戻すと以上見てきたようにほぼ同時期に北ではロシア軍艦が、南ではイギリス軍艦が現れるという緊張状態が発生した。これに対し幕府がとった対策が、資料文⑸にある1810年からの白河・会津藩に命じた江戸湾防備である。

しかしながら、緊張していたロシアとの関係は1811年のゴローウニン事件を機に改善に向かい、1821年には直轄化されていた蝦夷地が松前藩に還付されるまでに至った。また、以降日本近海に現れるイギリス船は、資料文⑴⑵にあるように軍艦ではなく捕鯨船である(資料文中にわざわざ1823、4年の年号が載っている事に注意したい)。

これらの経緯を踏まえ、資料文⑶のように「格別の防備は不要」とされ1825年に異国船打払令が出された。

つまり、白河・会津藩が命じられていた江戸湾防備と異国船打払令は全く異なる文脈で発されたものであり、だからこそ防備解除と打払令が共存するという一見矛盾した事態が起こったのである。打払令が出された時点でロシア軍艦が襲撃してくる心配はなく、訪れる異国船も実態として捕鯨船・漁船ばかりであり、軍事的脅威にはならないと幕府は判断していたと推測できる。

設問B

問いは「幕府の政策」の意図とはなにか、という事であるが設問Aの解説で見てきたように、異国の軍事的な侵略に対抗するためではない事は明らかである。さらに資料文⑷の法令が補助線となって、ここで考えるべきはむしろ民衆に関わる問題である。

まず⑷で厳禁されている「親しみ候」事態とは何か明らかにする必要があるが、そのヒントはやはり資料文⑴⑵にある。⑴では、水戸藩がイギリス捕鯨船と密貿易をした疑いで漁師を処罰しており、つまり民衆が異国人と密貿易する事は禁じられていた事が読み取れる。また⑵ではイギリス人が上陸したことで幕府と藩が対応に追われており、つまり異国人が民衆と接触する事は、幕府らにとってはなにか不都合な事であると推測できる。そして、その具体的な内容は当時の時代背景を鑑みれば容易に推測がつく。その最たるものがキリスト教の流入である。

さて、以上の密貿易とキリスト教の禁止徹底という意図は資料文から読み取れる内容である。これらの内容から、さらに「鎖国」体制まで踏み込んで考察して欲しい。「鎖国」体制とはどのようなものだったか簡単に振り返っておくと、それは幕府が外交や貿易を管理する事によってキリスト教禁教や貿易利潤・海外情報を独占するという、いわば海禁政策に近いものだった。つまり「幕府の政策」の意図とは、このような「鎖国」体制が異国船によって動揺させられることを防ぐというものだったといえる。

なお、受験生が勉強する「鎖国」体制の内容、つまり朝鮮や琉球といった通信国とオランダや中国といった通商国以外とは関係を持たないという姿勢は、このように英露といった元々の外交秩序外からの刺激に対処する過程で明確化していったものである。予備知識として知っておいて欲しい。

解答と総評

A異国船の実態は民間船であるため、軍事的脅威にはならず、撃退しても国際問題を引き起こす可能性は低いと認識していた。 (問番号含め56字)

B幕府は民衆と異国人の私的な接触を断つ事で、キリスト教流入や密貿易、国内外の情報交換といった事態を回避し、幕府が外交・貿易を管理する「鎖国」体制を堅持・安定化させる事を意図した。 (問番号含め89字)

Aに関しては、「捕鯨船」「漁船」といった言葉遣いに気付ければ自ずと解答の方針が決まる問題だった。実際の解答は、与えられた内容を知識でどれくらい噛み砕けたかによって解像度が変わっただろう。

Bは、最終的に「鎖国」体制にまで踏み込めたかどうかが大きな評価の分かれ目となっただろう。対象とされている時代の体制の原則に立ち返って考察する事を求められる問題は、第3問に限らず東大日本史にありがちな手法なので、覚えておこう。


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