2018年東大日本史(第4問)入試問題の解答(答案例)と解説

◎設問の分析

設問A

解答の方針は問題文である程度示されている。
資料文の中で抽象的に表現されている部分を知識で具体化し、わかりやすい文章にまとめよう。

設問B

教育勅語が日本国憲法下では存在を認められず排除された理由を問う問題である。日本国憲法の原則を念頭に置きつつ考えれば、解答の方針が立て易いだろう。

◎資料文の選定

東大日本史では、資料文が複数与えられた場合、設問Aと設問Bで利用する資料文が住み 分けされることがある(両方の設問に利用する資料文が与えられる場合もあることに注意)。
本問は、問題文でAが⑴、Bが⑵を参照するように書かれているのでそれに従おう。

◎設問の解答

設問A

本題に入る前に、この機会に明治初期の教育制度の流れについて簡単にまとめておこう。

明治初期の教育制度の流れ

教育とは、近代国家の国民としての基本的な観念・思想を人々に学ばせる事ができるという点で、日本を新たに国民国家として近代化させていく上で政府に重要視された。

まず1872年にフランスの学校制度にならった学制が公布されたが、これはあまりに画一的で現実に即していなかった為、79年の教育令によって改められた。なお、政府は一貫して小学校教育と男女等しい国民皆学の普及に力を入れている。
以上のような試行錯誤を経て、86年に森有礼文部大臣のもとで学校令が公布され、小学校・中学校・師範学校・帝国大学などからなる学校体系が整備された。少し細かい話にはなるが、尋常・高等小学校は1907年には義務教育期間が6年間となった。しかし、1900年に義務教育期間の授業料が廃止された事もあり、02年の時点で就学率は90%を超えていた。

こうした教育制度の整備と並行して、教育政策は国家主義重視の方向へ進んでいった。その結果、1890年には教育勅語が発布され忠君愛国を基本とする教育理念が確立した。第一高等中学校で講師をしていたキリスト教徒の内村鑑三が教育勅語に対する最敬礼を拒否すると、天皇への不敬であるとして職を追われた内村鑑三不敬事件が象徴しているように、教育勅語とそれに依拠した教育は、強制力を持って国民の思想・信条を規定した。1903年に小学校の教科書は文部省の著作に限定された国定教科書という制度も、同様の文脈で捉えられる。

さて、本題に戻ろう。問題は、「どのような状況を危惧し、どう対処しようとしたか」である。まずは危惧されていた状況について考えてみよう。

どのような状況を危惧したか

資料文には「条約改正の結果」というワードがあり、また問題文には「日清戦争後」とある事から、時代背景としては1894年に締結された日英通商航海条約が発効する1899年直前の時期であると判断できる。日英通商航海条約の内容は、主に双務的最恵国待遇・関税自主権の一部回復・領事裁判権撤廃と居留地廃止である。このうち、資料文⑴の後半部分(「相手国の臣民が来て、我が統治の下に身を任せる」)と対応しているのが、居留地の廃止であり、それに伴って内地雑居が始まる事である。

つまり、ここで考えるのは内地雑居が始まる事で起こりうる危惧すべき状況であるが、それは攘夷などの外国人排斥運動の発生である事は想像に難くないだろう。また、説明の順序が前後するが、資料文の前半が五箇条の誓文の引用である事に気づく事ができれば、旧来の悪しき慣習すなわち攘夷を捨てる、という内容にも自ずと辿り着くだろう。いずれにせよ外国人を受け容れる事、資料文の言葉を使えば「丁寧・親切に接し」「寛容」になる事を西園寺は求めている。そこには、列強との摩擦を回避するという意図だけでなく、文中に「大国の…気風」とあるように、憲法発布などの近代化を進め条約改正という形でその地位が認められつつある現状において、文明国として恥ずかしくない振る舞いを国民に求めるという目的も感じられる。

どう対処しようとしたか

次に、どう対処しようとしたかを考えてみよう。

資料文中の対応箇所は前半であるが、この部分を見て思い出して欲しいものがある。それは、五箇条の誓文である。「旧来の悪しき慣習(=陋習)」「知識を世界に求め」「上下心を一つにして」など、原文を引用している箇所が多々ある事に気づいて欲しい。なお確認だが、五箇条の誓文とは、公議世論の尊重と開国和親などの国策の基本を示し天皇親政を強調したものであり、天皇が公卿らを率いて神々に誓約する形式をとっている。西園寺は、このように明治天皇が誓約した五箇条の誓文に依拠する事によって、天皇の権威を利用しつつ開国和親という国是を再確認させる事を狙ったと考えられる。

設問B

教育勅語が日本国憲法下では排除された理由である。教育勅語の形式と内容という二つの視点から考えてみよう。

まず教育勅語の形式であるが、教育勅語は天皇から日本の臣民に向けて対して発されたものであり、それは国民の生活を拘束するものとして設問Aで見てきたように事実上に法的拘束力を有するものだった。しかしながら、日本国憲法では天皇は象徴とされ、「国政に関する機能を有しない」存在とされていたため、教育勅語は日本国憲法との間に矛盾を孕む事になる。この点で、形式上教育勅語は適合的でなかった。

次に、その内容に目を向けてみよう。資料文⑵に書いてあるように、新たな教育勅語は「国民教育の新方針並びに国民の精神生活の新方向を明示」するものとされた。一方、日本国憲法では、思想・良心・学問など様々な面での自由が保障されていた。従来の教育勅語が、忠君愛国を基本とする教育理念を示したものとして神聖視され、国民の精神面に対しかなりの拘束力を持っていた事を考えれば、新たな教育勅語も憲法で保障されている自由を侵害しかねないものである事が予想される。このような点で、内容面でも適していなかった。

さらに細かい事ではあるが、教育勅語の排除・失効が決議された1948年時点で、既に教育基本法が制定されている(1947年)。教育基本法は、日本国憲法の精神に立脚し個人の尊厳の尊重、真理と平和を希求する人間を育成する事を教育理念として掲げていた。一方、教育勅語の教育理念は天皇中心の国体という観念を養う事であり、このような国体観念に基づいた教育は、基本的人権の尊重という原則を掲げた日本国憲法、およびそれに立脚する教育基本法にそぐわないものであった。このような点からも教育勅語は戦後日本に通用しなかった。

◎解答と総評

設問A

西園寺は条約改正に伴う内地雑居が外国人排斥の風潮をもたらす事を危惧し、五箇条の誓文に依拠する事で天皇の権威を利用しつつ、開国和親を再確認させ文明国にふさわしい態度を国民に求めた。 (問番号含め90字)

A資料文の語句から五箇条の誓文を思い出せるかが鍵となる問題だった。やはり代表的な史料の原典は読んでおくべきである。具体的には、教科書に載せられているような歴史史料は一通り読んだ上で本番に臨みたい。

設問B

天皇が忠君愛国を理念とする教育を掲げ国民の精神生活を拘束する教育勅語は、日本国憲法の象徴天皇制や国民主権に反し、基本的人権の尊重に基づく教育基本法の理念を損なうものだから。 (問番号含め87字)

B日本史第4問では、時おりこのように現代史が出題される事がある。(2023年第4問では、現代史(≒戦後史)のみからの出題だった)。しかしながら、その内容は基本的な知識があれば十分解ける内容とあっており、今回であれば日本国憲法の原則を理解していれば方針が立てられるような問題であった。出題頻度が少ないと言われてきた現代史ではあるが、近年頻出事項となってきている。基本的な知識は押さえておこう。

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