2016年東大日本史(第3問)入試問題問の解答(答案例)と解説

◎設問の分析

⼤船禁⽌令に関して、その解釈が時代ごとにどのように変化したのかを考える問題であり、資料⽂に即した忠実な思考と、その前後の時代背景に関する正確な理解が問われる問題である。落ち着いて丁寧な解答を作る事を⼼がけよう。

◎資料文の選定

本問の資料⽂の棲み分けは簡単である。
まず家康の時代に発令された背景を問う設問A は⑴、設問B の理解の仕⽅の変化はそれ以外の⑵〜⑷にかけてを⽤いて解答すればよい。(迷わないだろう)

◎設問の解答

設問A

資料⽂⑴から、家康は1609年に⼤阪以⻄の有⼒⼤名から内戦に使⽤されるような⼤船を没収した事がわかる。まず、1609 年がどのような時代だったかを考えてみよう。

家康が征夷⼤将軍の宣下を受けたのは1603年であり、⼤阪の役で豊⾂⽒が滅亡するのは1614〜5年であるから、⼤船禁⽌令はその間の、まだ豊⾂⽒が存続し徳川家の地位・権⼒が確⽴しきっていない時期に出されたものであるとわかる。
豊⾂⽒は、具体的には秀吉の⼦である秀頼が⼤阪城にいて未だ勢⼒を保っていた。江⼾を根拠地としている徳川家にとって、⼤阪に存在する豊⾂家と⼤阪以⻄の⻄国の⼤名、とくに豊⾂家とのつながりがある⼤名は、幕府の権威を確⽴する上で警戒すべき存在だった。
⼤船禁⽌令は、このような背景のなかで豊⾂家勢⼒の孤⽴を図り、それと関係が深い⻄国⼤名の軍事⼒を削ぐという⽬的があった。

設問B

まず、当初の⼤船禁⽌令の認識は設問A で確認したように、⼤名の軍事⼒を抑制し徳川幕府の地位を確⽴・保障するというものであり、ここで所持を禁⽌されているのは内戦に⽤いられるような和船であり、外洋を航海する船ではなかった。これがどのように変化したか、資料⽂⑶⑷をもとに考えていこう。

まず資料⽂⑶を読むと、⼤船禁⽌令改定によって認められるもの、つまり⼤船禁⽌令で禁じていたと認識されていたものは外洋航海が可能な船とされており、この点が変化している事がわかる。
ではなぜ、外洋航海が可能な船を⼤名が所持していたら不都合だと認識されていたのだろうか、その背景は資料⽂⑷にある。

資料⽂⑷によると、⼤船禁⽌令は「当時(寛永年中)の対外政策」と関係しており、これを解禁すると⼤名が「外国へ罷り越し、⼜海上の互市等」を⾏う、つまり海外渡航や私的な貿易を⾏う恐れがあると考えられていた事がわかる。
まず家光の時代である寛永年中の対外政策について、これはいわゆる鎖国制の形成期であるとすぐに気付きたい。家光はキリスト教禁教徹底を推進するだけでなく、幕府が貿易を独占する事によって(⻄国)⼤名が富強化する事を阻⽌するという⽬的から海禁政策を敷き、⽇本⼈の海外渡航・帰国を禁⽌した。鎖国体制とは、⽂字通り国を鎖ざして海外との関わりを経っているのではなく、その実態は海禁政策であり幕府が海外との通交を統制するものだったという事に注意したい。

つまり、実際は⼤名の軍事⼒抑制が⽬的であり外洋航海が可能な船の禁⽌を想定していなかった⼤船禁⽌令だが、幕末には鎖国政策と結び付けられ、⼤名が海外と通交・⾃由貿易を⾏う事を禁⽌する施策だったと認識されるようになっていたという事である。

答案作成用メモの例

2016年度東大日本史第3問

実際の問題用紙には、このように書き込むなどすると、答案作成に役に立つでしょう。

◎解答と総評

A
豊⾂政権が⼤阪城を拠点に勢⼒を維持する中、徳川幕府はそれと繋がりのある⼤名の軍事⼒を削ぎ⽀配の拡⼤と安定化を図った。(問番号含め59字)

B
当初は⼤名の軍事⼒抑制を意図していたが、鎖国政策形成期に武家諸法度に加えられた事で、幕末にはその⼀環として⼤名の海外渡航や私貿易を禁じ富強化する事を防ぐ政策であると理解された。(問番号含め89字)

設問Bの解答の書き⽅についてである。
記述するよう求められているのは当初から幕末にかけての認識の仕⽅の変化であるが、当初の認識(令を出した理由)は設問A でほとんど書いてしまっている。そのため、変化を論じる問題であるとはいえ、字数の割き⽅としては当初に関しては簡潔にし、幕末についてにしっかり字数を割り振るという形で良いだろう。

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