2024年(令和6年) 共通テスト追試 国語第4問 漢文 賀貽孫『激書』現代語訳

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(解答のリンク)
https://www.dnc.ac.jp/kyotsu/kakomondai/r6/r6_tuisaisiken_seikai.html

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R6(2024)年追試 漢文『激書』現代語訳

現代語訳

 禿翁は、雄大であることを好む者であった。彼の言葉にあることには、
「私は福建省泉州の海辺に暮らしていた。
(とある)海魚が入り江に入ったところ、潮が引いて離れることができなかった。
数百人を集め、おのを持って、はしごでのぼって魚の背にのぼり、
切り取って数百石ほど列をなす(ほどになって)も、魚は依然として、損害が無い(様子だ)。
しばらくして、潮が満ちてきて(魚のもとまで)到達すると、身をひるがえして尾を揺らし、ゆったりと落ち着いた様子で(≒超然として意に介さず)去った。
思うに、魚で大きいものは、これ以上のものはない。
豪傑の士も同様に、この魚のようなものに過ぎない」と。

 ああ、禿翁こそ、本当に豪傑である。
しかし、ただ豪傑が雄大でいられることを理解しているだけで、
優れた徳をそなえた人物が雄大以外にもなれることを知らないのだ。
このこと(=雄大以外になれる、聖賢のあり方)は、竜のあり方に見てないだろうか、いや、見てとれるではないか。

 それ(=竜)が変化する対象は、時には人間になり、時には虫になり、
時には(ゆらゆらと)漂う葉っぱとなり、
時には投げ撃たれ(素早く動く)機織りの道具となる。
彼(=竜)が自在に大きくなったり小さくなったり、とぐろを巻いたり解いたり(様々に変化)するのは理由があるのに、
平凡な人々は、なんて小さくて取るに足らない大小の形や、些末な、巻いてわだかまっていたり、解いて体をのばしたりの状態でこれ(=人物判断)を追究する。
これはどうして竜の竜たるゆえん(≒理由)を知っているだろうか、いや知らないはずだ。
禿翁は泉海(=福建省泉州)の大魚(のように雄大)になろうと望んだ。
これが原因で、禍(≒思うに任せない状況)に陥って、(人々から攻撃され、)安寧しない(で獄死した)。
(仮に)禿翁が大魚(のように単に雄大)ではなく、竜(のように一定したあり方にとらわれない自在な境地)であったならば、世の人々はどうして(彼に)危害を加えることができただろうか、いや、できなかったはずだ。

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2024年(令和6年) 共通テスト追試 国語第4問 漢文 賀貽孫『激書』現代語訳” に対して2件のコメントがあります。

  1. 大和 博之 より:

    「不観之竜乎。」を「之を竜に観ざらんや。」と訓んで(反語ととった?)おられるが、ここは「不~乎(ならずや)。」という単純な詠嘆ではないのですか?

    1. 平井 より:

      ご指摘ありがとうございます。文脈としては、詠嘆の方がより適切かもしれません。

      大変悩ましいところではございますが、なるべく大学受験生が市販の参考書で知りえる単語や文法の知識内で訳す方針を取っております。

      改めて手元の文法書十冊以上を確認しましたが、大学受験生は詠嘆の形としては「不亦~乎」「豈不~乎」「何其~也」以外の形については認識していないかと存じます。

      (大学受験レベルを超えると思われます)より適切な訳し方が気になった方にとって、大和博之様のご指摘は大変ためになったかと存じます。改めて、ありがとうございます。

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