日本史 6月① 1997年第2問、 2002年第1問、2005年第2問、2006年第2問、2013年第2問、2015年第1問

こんにちは、スタッフBです。1997年第2問、 2002年第1問、2005年第2問、2006年第2問、2013年第2問、2015年第1問を解いて、互いの答案を検討しました。 とある生徒の答案、それに対するコメント、問題全体へのコメントをまとめました。 

 

1997

摂家将軍や皇族将軍は、執権である北条氏の傀儡で実質的な権限は持たず、威光を利用される存在あであったが、反北条氏勢力は将軍を支持し続け、将軍追放時には北条氏と武力で争った。

摂家は、天皇家との血筋がすでにないのではないか。だから、身分・官位が高いことが重要であって、血統は関係ないのではないか。

天皇家との血筋を重視するより、身分秩序が重要ではないか。

支持などしていない。反北条氏勢力も将軍を利用しただけだ。資料(3)で言っていることは偽りである。

(3)「かならずもう一度〜〜思う」がキーである。

(3)に「涙ながら」とあるので、これを演技とみなすのは厳しい路線ではないか。実際に、摂家将軍に敬意を払っていた。

名誉や立場はいらないが、実際の権力が欲しいという人は多い。院政や徳宗、大御所、摂関、現代のフィクサーなど。

 

得宗専制政治を行い絶大な権力を誇った北条氏であったが、地方の下級役人出身であるため、伝統的権威や出自を重視する身分意識が残る中では皇族や貴族のような敬意の対象となることはなく、幕府の頂点に立てば、統制が緩み、組織の瓦解などが懸念されたから。

「得宗専制政治」は本文にあるので書かなくて良い。

「中では」は、もっと大きな状況に包まれているときに使う。意識くらいでは「中では」と言わないのではないか。

「在庁官人」を「地方の下級役人」と言い換えたのは良い。

「幕府の頂点に立てば〜〜されたから」も良い。

 

天皇の血筋は大事。

いや、大事だが、血筋だけではない。

今回の問いでは「貴種」として触れる程度が良いのではないか。

「支配の正当性」は使いやすくて良い。

問いが、なれなかった(あるいは、ならなかった)となっており、珍しい問われ方。これに対し、歴史研究でも理由ははっきりしていなくて、どちらで書いても良いという意見と受験生にヒントを与えない問い方で、一方は間違いであるという意見があった。

 

2002

飢饉や災害などの社会不安を背景に、国家安定のため鎮護国家思想が唱えられたことや現世利益を目的とした加持祈祷などを通じて朝廷や貴族に密教が受容され、保護された。また、寄木造の普及によって増産が可能となった仏像は、阿弥陀堂に保管され人々の信仰の対象とされた。さらに、民間の仏教者である聖は、各地で布教活動を行いながら事前事業に従事し、地方の有力者の仏教受容に影響を与え、地方でも阿弥陀堂が建立された。

鎮護国家思想は、奈良時代に始まったものであり、今回のような平安時代についての問いで用いる場合は気をつけよう。

「国家安定」は「国家安泰」が良い。

「国家安定のための鎮護国家思想が〜」と「現世利益を〜」は並列ではないのではないか。

慈善事業の部分は不要ではないか。

「影響を与え」は、プラスの影響もマイナスの影響も想定できるので、今回は「促し」がよい。

阿弥陀堂は2箇所で使える。

寄木造は造仏・造寺に励むことが極楽往生への近道と考えた貴族の要望に応えるために定朝が完成させた。

 

2005

従来の公家法は武家や民衆に普及せず、秩序維持のため頼朝以来の先例や武家社会の道理を踏まえた権利義務規定が必要であった。

権利義務規定とは何のことという意見があり、それに対する本人回答「御成敗式目は裁判のことだけを書いたものではないのではいか。条文の一覧を見ると、裁判基準のみを定めたものとは読めない」

「公平な」は入れるべき

式目の射程に民衆は入っていないのではないか。

 

御成敗式目の制定によって、公家法ひいては朝廷や貴族の文化・慣習を否定したとみなされて幕府と朝廷に軋轢が生じることを危惧し、武家や民衆のみに適用される法であることや制定の意図を朝廷に近い人間を通じて伝えることで、朝幕関係の維持に努めた。

承久の乱に触れていない

泰時はなぜ書状を送ったのかという問いに対しては、良い回答だと思う。

「幕府は〜〜公武二元支配の体制は維持しようとした」という答案があり、とてもよいという意見が複数あった。

北条氏は身分が低いので、御成敗式目を頼朝の威光を借りて定めたり、摂家将軍・皇族諸軍を立てたりした。

 

2006

寺社に寄進が集中して勢力が著しく高まると、朝廷の武力では僧兵を抑えられなくなり、政権維持や統制のため武士に頼った

朝廷内の争い、中央政界の進出に触れていない。

僧兵の鎮圧や中央政界の抗争が、地方武士の中央政界進出を招いたので、「地方武士に頼った」がよいのではないか。

「頼った」ではなく「高まった」がよいのではないか。

朝廷内の内紛を代理する軍事力ポケモンであった。

 

朝廷の武士の武力への依存を背景に、保元・平治の乱などを通じて朝廷内の重大な争いで平氏が活躍、清盛は太政大臣となり、院政を停止、天皇家と外戚関係を結んだ。経済的基盤は、海運を支配して日宋貿易を行い、知行国や寄進地系荘園からの収入、俸給であった。

「朝廷の武士の武力への依存」は読みづらい。

「保元・平治の乱など」はなどを省略した方が良い。

経済的基盤のところは、主語と述語が対応していない。「経済的基盤は〜〜行い」となっている。

院政を停止したのは治承3年、外戚関係を結んだのが安徳天皇誕生だとすると治承2年。答案内の順序を逆にすべき。

経済的基盤の規模は、1知行国、2寄進地系荘園、3成功、4日宋貿易。

 

2013

北方勢力は武力で制圧して交易を行い、貿易利潤を確保した。朝廷に対しては従順な姿勢で臨み、交易で得た物資を献上した。

北方勢力を武力で制圧は、事実誤認ではないか。

いや、武力制圧はあったのではないか。

交易に力点を置いているが、姿勢を問われているのでそこを書くべき。

 

奥州藤原氏が交易で莫大な富を築き、行政面でも優れ、朝廷と独自の繋がりを持って勢力を拡大していることを危険視した。

義経について入れるべきではないか

勢力を拡大したのか?

 

義経が逃げたこと、彼を匿ったことを入れるべきか

入れるべき派 義経の強さと奥州藤原氏が団結すると面倒だから。

資料⑶に、朝廷に権限をもらった根拠が義経追討であるから、重要なのではないか。

 

入れなくて良い派 それほど重要な存在ではなく、口実だから。

義経が死んだ後に、奥州藤原氏を滅ぼしたので関係ない。

 

梶原景時はずっと義経に随行し、義経の様子を頼朝に報告していた。梶原景時は、義経を悪く評価していてた。

 

東大入試は、知れば知るほど書くことが抽象的になったり、要素が増えたりする。入試でそのような回答をすると、点数が低くなるようだ。もっと浅く、資料文の内容をちょっと変えるくらいが点数がもらえやすい。

 

朝廷と近い京都で家人と私的な支配関係を結んだ平氏と異なり、本拠地を関東とし、東北支配を理由に朝廷の許可を得て勢力範囲を拡大、御家人と公的な主従関係を結び、政権を安定させた。

守護地頭に触れるべき

東北支配を理由にはどうなのか?1183年後白河法皇が東国支配を承認したから、「東国支配」ならばよい。

平氏と源氏の朝廷からの距離、公的私的支配について書けば良い。

 

2015第1問

日本の在来信仰では万物に神が宿ると考えられていたことや氏寺などを通じた民衆支配が合理的であったため。

よくわからなかった。

万物に神が宿るから、なんなのか?その先まで書かないと共存の理由がわからない。

神道という言葉は当時はない。生活習慣のようなものだった。そこに、仏教が入ってきた。

どうして共存可能だったっかを記述するのが難しい問題。

 

奈良時代には神仏習合が進み、崇拝対象であった自然物の中に社殿を設け、神宮寺が造営され、神具が寺に納められるなどし、平安時代には本来偶像崇拝が行われない神が彫刻として作られ、仏教と神道を理論的に結びつけた本地垂迹説が唱えられるようになった。

自然物の中に社殿(おそらく、神社)を設けたのは、奈良時代ではなくもっと昔である。

本来偶像崇拝が行われない、とはっきり表現するのは避けたほうがよいのではないか。

1文でまとめているが、可能なら2文にしたほうが読みやすい。

神社はいつから日本にあるかわかっていない。伊勢神宮がいつ建てられたか知っている人もいない。

神道と仏教で大事なのは、聖徳太子。


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