英語1Aで問われる「要約」「要旨」「趣旨」「大意」などは、どう違うのか?

「要約」問題と言っても様々

東大英語の先鋒を務めるのが1A英文「要約」である。だが、問われ方に、何種類かのパターンがあることを御存知だろうか。

直近の10年に限って言えば、「要約せよ」「要旨を〜まとめよ」の2パターンが存在するが、この形式の問題が始まった1960年代から遡って概観すると、「趣旨を〜まとめよ」「一般的にどのようなことが言えるか」「大意を〜書け」と全5パターンを見出すことができるのだ。

「要約」「要旨」「趣旨」「大意」と、似通った言葉が続くと、こんがらがってしまう受験生も多いことだろう。様々な予備校や教育現場で東大が求める条件の真意が探られてきたが、未だに一意的な解は定まってはいない。そこで、筆者がどのような視点で問題を解き、どのような切り口で問題文を料理していくべきと授業をしているのか本稿でご説明できたらと願っている。

桃太郎の要約、要旨、趣旨、大意はどうなる?

まず、次の文章をご一読いただきたい。

有名な桃太郎物語を思い出しながら、筆者が書いた文章であるが、本文の「要約」「要旨」「趣旨」「大意」は如何なるものとなるだろうか。

一般に、「要旨」(abstract)は、学術論文などにおいて、その論文全体で「最も大切な核心部」を冒頭にバーンと示すものを指す。ただ、指定字数によっては、論文作成の背景や目的や結論なども盛り込んでよく、論文の段落順序といった縛りに囚われることなく、読者に「最も」大切なことが伝わるように書けと指導される。

厄介なのは「要約」(summary)である。ネット上にはたくさんの情報が転がっているが、「各段落のエッセンスを、文章の順番通りにまとめたもの」とする意見が多く占められている。

このように考えたなら、東大が1Aで最も多く問うている「要約せよ」は、各段落の内容をできるだけ盛り込み、具体例や反対意見も適宜盛り込んで本文全体の核心部分に迫れ、と問うているようにも思えてならない。ただし、厄介なのは、そこから、機械的に各段落の内容を繋げて、「はい、終わり!」となるのかという問題である。

実際、「要約」summaryの中にもexecutive summaryと言われる「要旨」(abstract)にまで昇華させた形態の要約も存在しており、東大が求める「要約」は、限りなく「要旨」に近いのではという考え方もある。

とはいえ、日本最高峰の研究機関でもある東京大学が志願者に課す考査において、「要旨」と「要約」という問題指示をテキトーに使っているとも言い難い。

東大が「要旨」に込めた意味

そこで、2016〜2018年における1Aの問題(「要旨」が問われた年度)を見ていくとしよう。この3年度の問題をご覧いただければわかるように、難易度が非常に高かった。各段落を繋げるだけでは、支離滅裂で何を言っているのかまるでわからない文章になるからである。
そうして見た時、「要旨」の指し示す意味が「最も大切な核心部」だとするならば、東京大学が問うているのは、「様々な具体例を捨象して、一言で言えば、どういう話なのか。本質を見極めた上で、小手先のテクニックに逃げることなく核心部分をピシッと明快に説明しなさい」ということになるだろう。「具体例を盛り込みすぎて字数が足らなくなったり支離滅裂な解答にならないように留意せよ」という東大なりの配慮が「要旨」という言葉に込められているように思われる。
確かに、この3年度分を見定めたとき、その意味するところを強く感じ取ることができる。

対して、「要約」の意味とは

ともなれば、「要約」とは、東大模試のように各段落を繋げたら終わりという粗末な問題指示ということになるのだろうか。
たとえば、2015年の問題で、最終段落に書かれている内容を盛り込んだところで、まとまりのない文章が生まれてしまう。2014年のように物語文のような構成で出された時に、各段落を気にして「機械的に」繋げ合わせたところで、核心部分がぼやけてしまうだろう。

こうして考えてみると、東京大学が求める「要約」とは、「最も重要な核心部分(要旨)を意識しつつ、具体例や反対意見も適宜織り交ぜ、本文を読んだことのない人にもエッセンスが伝わるように留意して論ぜよ」と言い換えることができそうだ

 

「趣旨」とはどのような意味か

では、2009年に一度だけ問われた「趣旨」とは何であろうか。「趣旨」の定義を、「主たる目的」と説明される方がいらっしゃる。つまり、その文章を筆者が書いた主たる目的を見抜けと説明している。だが、そんなことを言ったら、要約も要旨も結局は本文全体の核心部分(=主たる主張目的)を書くものである以上、明確に差別化することは叶わない。

そこで、原点回帰ということで、改めて2009年の問題文を熟読していただきたい。この年度では、2014年や2001年に類似してエッセイ調の文章が出題された。つまり、パラグラフリーディングやディスコースマーカーといった小手先のテクニックを「機械的に」適用しても答えは出せないということである。エッセイ調の文章ということは、論理展開がなされる学術論文とは毛色が異なるわけだから、「要旨」(abstract)という問題指示を出すことに作問担当の教授が嫌悪感を抱いたのだろう。そこで、「重要な核心部分を答えよ」という意味をもう少し柔らかく表現した「趣旨」を用いたのではないかと拝察する。

2014年と2001年は「趣旨」を問うべきだった?

こうした点に照らしてみたとき、なぜに2014年と2001年には「趣旨」ではなく、「要約せよ」と指示されたのか疑問点が湧き起こる読者の方もいらっしゃるだろう。

2014年について言えば、文章後半は二酸化炭素排出量といった人類が抱える社会問題の話が明示されており、文章前半部は比喩として筆者の個人的体験が織り交ぜられているに過ぎない。東大側としては、筆者の個人的エピソードも伏線として盛り込みつつ、その伏線回収もきっちり答案で示してほしいという意図があったからこそ「要約せよ」と問うたのであろう。

だが、2009年は、全文エッセイであり、これを「要約」としたならば、具体例だらけで、結局まとまりのない作文になってしまうことを懸念し、出題者として「趣旨」を述べよと受験生に求めたのであろう。その点、2001年も「趣旨」を問えとしても良かったと筆者は考える。これが「趣旨」として問われたなら、筆者は「万物に神が宿る」とでも表現するかもしれない。だが、それだと、あまりに短すぎる。そこで、具体例も盛り込んでいいから、と出題者は受験生にメッセージを送ったのではないか。ゆえに「要約」という条件を付したと拝察する。

 

桃太郎の「要約」「要旨」「趣旨」「大意」

このように考えたなら、上述した桃太郎伝説は、どのようにまとめることができるだろうか。

東大流の「要旨」「趣旨」なら、 「桃太郎は鬼退治を以て平和をもたらした。」

東大流の「要約」なら、「おじいさんとおばあさんが川で拾った桃から生まれた桃太郎は仲間と共に鬼退治をし、平和をもたらした」

となろうか。

これは、結局、筆者がオープン授業で説明をした、「骨」を見つけて、後から「肉」を付け足せ、の話のままであろう。詳しくはオープン授業をご覧いただきたい。
(編集部注:目次だけでも参考になると思うので、ぜひリンク先もご覧ください)
オープン授業【東大英語 第1問A 英文要約】

 

イレギュラー発生!2004年の「一般的にどのようなことが言えるか」

では、最後に、イレギュラーな出題形式であった2004年の「一般的にどのようなことが言えるか」と、60〜70年代に「要旨」と共に主流だった「大意」について概観して、本論を終えたい。

2004年の問題では、チェスの名人のエピソードを通じて記憶力の本質に迫ろうとした文章が取り上げられていた。正直、「要旨」や「要約」でも良いくらいなのに、この年に限って「次の英文中で論じられている事例から、一般的にどのようなことが言えるか。」とご丁寧に説明をしてくださっている。

それはなぜか。筆者が推察するに、この前の年の2003年の1Aにおける受験生の出来があまりに酷かったためではないか。2003年は「要約せよ」であったが、文章中に散りばめられていた「スコットランド語」といった具体例ばかりを答案に書いて字数がキツキツになって自滅した受験生、「英語や中国語が世界のメイン言語となる」といったものを本文の核心だと勝手に捉えた答案も散見されたようである。

こうしたことから、東大側としては、まるで子供に語りかけるかのように、次の英文中で論じられている事例から、「一般的に」どのようなことが言えるか、と皮肉の意味を込めて設問文を丁寧に書いたのではないかと拝察している。

そして、最後に、80年代以降、絶滅してしまった「大意」を問う形式であるが、こちらに関しては、問題文章と指定字数を見る限り現在の「要約」だと言って良いだろう。

以上をもって、本論を終えるものとしたい。


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