2009年東大日本史(第1問)入試問題の解答(答案例)と解説
目次
7・8世紀における外交政策の変化とその意義 ~遣隋使・遣唐使の変遷と東アジア国際秩序の中の日本~
外交の基本と冊封体制とは?
まず、7・8世紀の日本外交を理解するためには、当時の国際秩序である「冊封体制」を押さえておく必要があります。これは隋・唐(中華)を中心に周辺諸国を「臣下」と位置付ける体制であり、中国皇帝を「天子」、周辺国の王を「○○国王」とする上下関係が基本でした。こうした中で日本は、自らを独立した国家として位置づけました。そうして周辺国との外交関係を築いていった変遷の様子が今回のテーマです。
設問では、「東アジア情勢の変化にどう対応し、遣隋使・遣唐使がどのような役割を果たしたのか」 を、時期ごとに整理することが求められています。
資料文(1)607年 遣隋使派遣と対等外交への挑戦
607年に小野妹子が遣隋使として「日出づる処の天子」にはじまる国書を提出したが、煬帝は無礼として悦ばなかった。翌年再び隋に向かう妹子に託された国書は「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」に改められた。推古朝に天皇号が考え出されたとする説も有力である。
ここでは、607年に小野妹子が遣隋使として派遣された場面が描かれています。
注目すべきは、隋に送られた国書の文言です。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」
これは、隋の冊封体制に対する明確な挑戦を意味しました。通常ならば「倭国王」と称するべきところを「天子」と名乗り、対等外交を主張しているのです。煬帝は憤慨したものの、政治の混乱もあって無下にせず、最終的に遣隋使の接見を拒絶せず受け入れました。
この遣隋使の派遣は、日本が冊封体制を拒みつつ、東アジアの一つの独立国家として自立を図らんとする姿勢の現れでした。推古朝における遣隋使は「対等な国際関係構築のための政治交渉の使節」としての性格を持っていたと言えます。
資料文(2)659、669年 白村江の敗戦後の外交
659年に派遣された遣唐使は、唐の政府に「来年に海東の政(軍事行動のこと)がある」と言われ、1年以上帰国が許されなかった。669年に派遣された遣唐使は、唐の記録には高句麗平定を賀するものだったと記されている。
ここでは、659年および669年の遣唐使について述べられています。7世紀半ば日本は、百済滅亡(660年)と白村江の戦い(663年)で軍事的敗北を喫しました。これ以降、日本は東アジアへの軍事的関与を縮小し、防衛体制(防人・水城)を整備しつつ、外交方針を転換していきます。
659年に派遣された遣唐使は、唐側から「来年に海東の政あり」として帰国が認められず、翌年の669年にようやく高句麗平定を祝賀する遣唐使が実現した、とあります。唐との関係を慎重に模索しながら、政治的緊張の中でも外交努力を継続していたのがこの時期の特徴でであることが読み取れるかと思います。
すなわち、この段階の遣唐使は「軍事的敗北からの立て直しと国の安全保障を意識した慎重な外交交渉の使節」と整理できます。
資料文(3)702年 国号「日本」の承認交渉
30年の空白をおいて派遣された702年の遣唐使は、それまでの「倭」に代えて「日本」という新たな国号を唐に認めてもらうことが使命の一つだったらしい。8世紀には遣唐使は20年に1度朝貢する約束を結んでいたと考えられる。
ここでは702年の遣唐使について触れています。粟田真人を正使とするこの年の派遣は、それまでの「倭」から「日本」へという国号変更を唐に認めさせる重要な外交任務を任されていました。8世紀初頭の日本は、律令国家体制の整備を進めて、国際社会における正式な一国家として承認を得ようとしたのです。
また、この時期に遣唐使は定期的に唐へ派遣されるようになり、単なる政治交渉だけでなく、文化・制度の受容が重要任務となっていきます。つまり、702年以降の遣唐使は「国号・天皇号の承認交渉を含む政治使節、かつ大陸文化受容のための使節」という二重の性格を有していたのです。
資料文(4)717年 遣唐使と文化交流
717年の遣唐使で唐に渡った吉備真備と玄昉は、それぞれ国滞在中に儒教や音楽などに関する膨大な書籍や当時最新の仏教経典を収集し、次の733年の遣唐使と共に帰国し、日本にもたらした。
ここでは717年に派遣された吉備真備・玄昉らの遣唐使を取り上げています。彼らは唐に長期間滞在し、仏教・音楽・医学・天文学などの先進的知識を吸収して帰国しました。このあたりから唐文化の大規模な受容が進んでいきました。
この段階では、遣唐使に期待されたのは唐との政治的交渉というよりも、文化・制度・宗教などを積極的に導入し、日本の律令国家・文化基盤の完成度を高める役割です。すなわち「文化吸収・国家の体制整備のための文化使節」へと性格が移行したのです。
まとめ
以上のように、7・8世紀の遣隋使・遣唐使は、その当時の東アジア情勢に応じて柔軟に性格を変えていきました。
- 7世紀前半:冊封体制への挑戦として対等外交を掲げる(①)
- 7世紀後半:白村江敗北後、安全保障を意識しつつ外交努力を継続(②)
- 8世紀初頭:国号「日本」の承認を得る交渉と文化の受容開始(③)
- 8世紀前半〜中葉:仏教・制度などの高度な文化吸収(④)
一貫して「日本を自立した国家として国際秩序にいかに位置づけるか」を模索した外交の姿が見えてきます。遣隋使・遣唐使はまさにその日本の模索の歴史そのものであったのです。
【答案例】
隋が高句麗と対立する7世紀前半には、遣隋使は日本が独自の君主号を使い、隋と対等であることを主張した。7世紀半ばには、唐と朝鮮半島との動乱に遣唐使が巻き込まれたため積極的な外交ができないものの各国との政治的交渉に尽力した。8世紀には東アジア情勢が安定したことで、遣唐使は唐に国号の承認を求める外交使節と、朝貢して文化や先進文物を取り入れる文化使節の両方を担った。