国語8月①2005年第2問古文
こんにちは、スタッフAです。
今回も古文、2005年第2問を扱いました。
まずは、先生が大変な思いをして作成した小テストを共有します。
解答。
以下に、授業で学んだことをまとめています。
どんな場合に婉曲表現を使うか。
→偉い人、出家、結婚や性的なこと、汚いものなど
例 陛下、猊下、大殿籠る、お隠れになる、世を出づ、かたちを変ふ、御髪をおろす、逢ふ、見る
将は漢文では将(ひきい)る、と読む。だから将軍という。
2005年理系の問題では、「おぼしたるにこそ」に「少将さまは、私のことを思っていらっしゃったのね」と注釈がある。
会話文を現代語訳する場合、自分は「わたし」でよく、第三者は「わたし」から見た呼び方で良いと考えられる(少将は、実際には中将であった)。
古文の世界では、京都は特別。東国などの他の地域は、差別されていると考えて良い。
掛詞のある和歌の現代語訳は、多少違和感のある文になっても仕方がない。
古文の現代語訳では、「愛する」より「恋する」が無難(現代の愛の感覚とは異なる)。
夕景といえば、新古今和歌集の「三夕の歌」
「さびしさはその色としもなかりけり 真木立つ山の秋の夕暮れ」(寂蓮)
「心なき身にもあはれ知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ」(西行)
「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」(藤原定家)
一方でこんな歌もあります。
「見わたせば山もと霞む水無瀬川 夕べは秋と何思ひけむ」(新古今和歌集・春上、後鳥羽上皇)
「夕暮れといえば秋」という共通認識がある上で、敢えて「夕暮れは秋だけが良いと思っていたけれど、いやいや、春もいいじゃないか♫」と詠んでいるのが「見渡せば山もと霞む〜」です。本歌取りは、季節や時間をずらしたり、季節の歌を恋の歌に変えたり。敢えてテーマをずらすのが良いと、昔の歌論に書かれているそうです。
本歌取りに真髄に少し迫った気がします。
次回もおたのしみに!