2016年東大日本史(第1問)入試問題の解答(答案例)と解説
◎はじめに
東⼤⽇本史の問題は、リード⽂、資料⽂、設問⽂の3点で構成されているのはご存知だろう。
ではいったい、どの順で読むべきだろうか?
問題によって柔軟に対応するのがベストであるが、基本的には、①リード⽂、②設問⽂、 最後に③資料⽂の順に読むことをお勧めする。 それは、まずはリード⽂と設問⽂をよく読み、解答にどのような情報が必要なのか 把握した上で資料⽂と向き合うのがよいだろうと考えられるからだ。
これまで多くの⽣徒や再現答案を⾒て、採点や添削を⾏ってきたが、内容の良し悪し以前に、問われていることに答えていない答案が、想像以上に多い。そこで、設問の分析から始めることで、問われている内容から外れないよう⼼掛けることを強くお勧めしている。
◎設問の分析
【設問A】
ここで問われているのは、律令制における郡司の特異な性格の「歴史的背景」である。早とちりで「特異な性格」について記述してしまわないように注意しよう。
なお本題ではないが、郡司の「特異な性格」は東⼤⽇本史において頻出テーマである為、資料⽂が与えられていなくともすぐに思い出せるようにしておきたい。
【設問B】
ここでは、国司と郡司の「関係の変化」が問われている。単に郡司の弱体化を述べたり、地⽅⽀配の様相の変容を記述したりする問題ではない事に注意して解答を作ろう。
◎資料文の選定
東⼤⽇本史では、資料⽂が複数与えられた場合、設問Aと設問Bで利⽤する資料⽂が住み分けされることがある。(両⽅の設問に利⽤する資料⽂が与えられる場合もあることに注意)
今回は内容から判断するに、資料⽂(1)と(2)を設問Aの解答に利⽤し、資料⽂(3)~(5)を設問Bに利⽤するのが良いだろう。
なお、与えられた資料⽂のうち、使わない⽂が存在するというケースはほとんど無いと⾔っても過⾔ではない。もし使っていない資料⽂がある場合、⾃分の解答を再考してみる事をお勧めする。
◎設問の解答
【設問A】
まず、資料⽂⑴から分析してみよう。
この⽂章からは、⼤化の改新以後の政府における地⽅⽀配のあり⽅が推測できる。すなわち、国造にあたる現地の豪族が政府から評の役⼈として地⽅⽀配を任されていた、という構造である。
公地公⺠制への移⾏を図る政府は、ヤマト政権以来 地⽅で伝統的に⼈⺠に強い影響⼒を持っていた旧国造層に注⽬し、これを通じて地⽅の⼈⺠を⽀配する事を⽬指した。また、任命の過程で⼀度上京し、政府の審査を受けている事から、中央の政府に従属するという形式がとれている事がわかる。
そして、律令制下での郡司も旧国造層から任命され地⽅⽀配を任されていた事を考慮すると、律令制が敷かれてもしばらくはこのような構図が継承されていた事がわかる。
次に、律令制における郡司の特異な性格について、資料⽂⑵をもとに整理しておこう。設問で直接問われている訳ではないが、重要事項である。
資料⽂⑵からは、以下のことがわかる。
・郡司に決まった任期はなく、終⾝の官職である
・官位相当制の対象ではない
・⽀給される職分⽥の額は国司より多い
このように、律令制導⼊初期において郡司はその官僚システムからは逸脱した特殊な存在だった。これを理解する為に、もう少し補⾜説明をしよう。
8世紀における⽀配体制は旧来のヤマト政権での⽀配構造を利⽤して作られたものだった。中央においては新しく創設された律令制に基づき制度・機構が改編されたものの、地⽅⽀配の点ではすぐに律令制を完全な形で敷く事は出来なかった。
よく考えてみれば、これは⾃然なことだと納得がいくだろう。
中央で新しく律令制が敷かれたからといって、地⽅がすぐに順応できるわけではない。新たな国司が中央から派遣されてきたとしても、地⽅には地⽅の伝統的な⽀配構造があり、そこには衝突が⽣まれかねない。その為、地⽅⽀配は旧国造にあたる在地豪族の伝統的で⾃⽴的な⽀配⼒に頼らざるを得なかったし、むしろ政府はそれを利⽤する姿勢を取った。
このスタンスは、資料⑴を参照すれば⼤化改新期から⼀貫している事がわかる。すなわち、中央政府は地⽅豪族(旧国造である郡司)が伝統的に持つ⽀配⼒を利⽤し、郡司はそれまでの⽀配構造を失うことなく地位を保ったということだ。
「郡司」という律令制内の役職でありながら、実態は旧来の伝統的な⽀配を継続した郡司は、新たな律令制と旧来の⽀配構造の結節点と⾔えるだろう。
【設問B】
問われているのは8世紀初頭における国司と郡司の関係と、9世紀にかけてのその変化である。まず8世紀初頭における関係から整理しよう。
・8世紀初頭における関係
この事については、資料⽂⑶、⑷、⑸から読み取れる。
まず、資料⽂⑶には元⽇に国司・郡司が誰もいない正殿に拝礼する事が記されているが、この正殿は天皇を⽰していると推測される。すなわち、国司・郡司ともに天皇へ従属する官職である事を⽰す儀式である。更に、郡司が国司と共に国司⻑官を祝賀する事、郡司は⾝分の上下に関わらず国司に礼をする事から、郡司は国司に従属している事が読み取れる。
したがって、制度上・⾝分上は、天皇>国司>郡司という序列があり、郡司は国司に従属する⽴場であった事がわかる。
⼀⽅、資料⽂⑷では郡家に税が蓄えられ、郡司が管轄する財源もあった事が記されている。すなわち、郡司は税の管理・運⽤といった実務上では国司からの⾃⽴性が強かったのである。国司は未だ、郡司の伝統的な⽀配⼒に頼る部分が多かった。
更に、資料⽂⑸に⾒られるように、郡司の任命は中央が⾏う為、国司は郡司任官に介⼊する事はできなかった。
これらの事柄が、9世紀にかけてどのように変化したのだろうか。
・9世紀における関係
この事については、資料⽂⑷、⑸から読み取れる。
資料文⑷では、郡稲などが統合され国司の単独財源が成⽴した事が述べられている。地⽅⽀配における郡司の影響⼒は後退し、国司の⽀配⼒が強化したという事、すなわち地⽅における郡司の権⼒を国司が吸収していったという事がわかる。
また、資料文⑸では国司の推薦を受けた豪族(多くは新興)がそのまま任命されるようになった事が記されている。実質的な郡司任命権は国司が握るようになり、しかも多くは新興豪族が任命されるようになった事から、旧国造層の伝統的な豪族は影響⼒を失っていった事がわかる。国司が任命権を握っている事は、国司が郡司を⽀配下においていると表現しても差し⽀えないであろう。
また、任命に際し試問が⾏われなくなっている事から、郡司という官職の重要性も下がっていると読み取れる。
以下は補⾜説明であるが、このような変化はどのように理解すればよいのだろうか。
設問Aで確認したように、律令導⼊期において国司の⽀配⼒は地⽅において極めて弱体で、伝統的に影響⼒を持つ郡司が実質的に地⽅⽀配を担った。この事は、地⽅においては律令制が浸透していなかったという事を表している。だとすれば、設問Bで確認した9世紀にかけての変化は、地⽅における律令制の浸透の過程と捉えられるのではないだろうか。
さらに、中央では8世紀末から9世紀にかけて勘解由使・蔵⼈頭・検⾮違使といった令外官が設置され、9世紀から10世紀にかけて三代格式が編纂された。令外官とは、政府が実情に合わせて令に無い新たな官職を独⾃に設置したものであり、格式とは官庁の実態に合わせて政治実務の便を図ったもので、具体的には格が律令の追加・改正法で式は施⾏細則である。このように、9世紀前後において政府は唐の模倣でしかなかった律令に、⽇本の実情に合わせて様々に⼿を加えていった。平易な⾔い⽅をすれば、律令をモノにしていったのである。
答案作成用メモの例
実際の問題用紙には、このように書き込むなどすると、答案作成に役に立つでしょう。
◎解答例と総評
(A) ⼤化の改新以降、政府は地⽅豪族の伝統的で⾃⽴的な⽀配⼒に依拠し、その⽀配構造を継承して律令制に組み込む⽅針をとった。(問番号含め59字)
(B) 8世紀初頭、郡司は国司に⾝分・制度上は従属したが、⾏財政等の実務は⾃⽴しており、国司は地⽅⽀配の実務を郡司に依存した。しかし、9世紀にかけて国司が租税の運⽤権や郡司の任命権を握ると、郡司が実務⾯でも国司に従属し補佐する関係に変化した。(問番号含め120字)
資料⽂の読み取りの難易度もそれほど⾼くなく、必要とされる前提知識も基本的なものである⼀⽅、解答の組み⽴て⽅が難しい問題であり、正確に題意を捉えられているかどうかで差がつくだろう。
設問Aでは、資料⽂⑵に引っ張られ郡司の特異な性格を述べてしまわないように気をつけよう。また設問Bは、読み取れる郡司の性格の変化を国司との関係性の変化にまで落とし込んで論述する必要がある。題意に沿わない解答は⼤幅な失点を招く恐れがあるため、⾃分の解答をよく点検しよう。
なお、8世紀初頭における国司と郡司の関係について、世に出ている解答では資料⽂⑶の国司・郡司が誰もいない正殿に拝礼する部分から「天皇任命の官職としては同等」と読み取ったものも複数あった。そうすると、確かに国司が郡司を⽀配下においた9世紀への関
係性の変化が明確になる。
⼀⽅、筆者は同じく資料⽂⑶の「国司⻑官が次官以下と郡司から祝賀をうけた」という部分を考慮すると、「同等」とまでは断⾔できないと判断し、そのような解答は避けた。出題側が模範解答を公開していない以上、どちらが正しいとは⾔い切れない。上記のような解答をした⼈も、決して間違いではないので安⼼して欲しい。