【東大日本史】2017年第2問の解答(答案例)と解説

◎はじめに

東⼤⽇本史の問題は、リード⽂、資料⽂、設問⽂の3点で構成されているのはしっていることでしょう。
ではいったい、どの順で読むべきでしょうか?
問題によって柔軟に対応するのがベストではありますが、基本的には、①リード⽂、②設問⽂、 最後に③資料⽂の順に読むことをお勧めしています。 それは、まずはリード⽂と設問⽂をよく読み、解答にどのような情報が必要なのか 把握した上で資料⽂と向き合うのがよいだろうと考えられるからです。

これまで多くの⽣徒や再現答案を⾒て、採点や添削を⾏ってきましたが、内容の良し悪し以前に、問われていることに答えていない答案が、想像以上に多いです。そこで、設問の分析から始めることで、問われている内容から外れないようにい⼼掛けることを強くお勧めしています。

◎設問の分析

設問A

問題文が短すぎて初見では戸惑うかもしれません。でも資料文を丁寧に読解する事で方針が見えてくるので、焦らずに文と対峙しよう。

設問B

これは解答の方針が立てやすい問題ですね。というのも、九州の御家人が鎌倉へ訴え出る事が禁じられた理由を答えるという設問の要求と、当時の軍事情勢に留意するという解答の条件がはっきり示されているからです。これらからズレないように気をつけて解答を仕上げよう。

◎資料文の選定

東⼤⽇本史では、資料⽂が複数与えられた場合、設問A と設問B で利⽤する資料⽂が住み分けされることがあります(両⽅の設問に利⽤する資料⽂が与えられる場合もあることに注意)。

今回はおおよそ⑴⑵が設問Aに、⑵⑶が設問Bに対応していますが、解く際は与えられた資料文全てを考慮に入れた上で見落としがないか注意しよう。

◎設問の解答

設問A

まず資料文の分析をしてみよう。

資料文⑴によると、鎌倉幕府は京都・博多に北条一門を派遣して統治機関を設けており、御家人を当事者とする訴訟に判決を下している。また、資料文⑵によると、京都の統治機関の最初の長官は北条泰時・時房であり、博多の統治機関はモンゴル襲来後に設けられたとされる。

これらの事を考えると、資料文の「統治機関」とは具体的に言うと京都が六波羅探題で、博多が鎮西探題であるとわかりますね。このように、東大日本史の資料文を読む際には抽象化された表現を具体的に脳内で変換する必要がある事もあります。そのためにも、基本的な教科書レベルの日本史用語は出来るだけ覚えておこう。

さて、この事が分かれば設問は「鎌倉幕府が六波羅探題で裁判を行うようになった経緯」と言い換えられますね。さらに噛み砕けば、「六波羅探題が設置された経緯」と「六波羅探題が裁判を行うようになった経緯」を記述すればよいと判断できます。

まず六波羅探題が設置された経緯は基本的な内容であり、それは1221年の承久の乱です。後鳥羽上皇らに勝利した幕府は、朝廷の監視や西国の統轄のために六波羅探題を京都に設置しました。また、承久の乱では幕府は主に西国に分布していた院領などを大量に没収し、恩賞として御家人をそれらの地頭に任命しました。なお補足事項ではありますが、承久の乱後に新たに任命された地頭と荘園領主や国司との紛争が生じないよう、幕府は1223年に新たな地頭の給与の法定率として新補率法を定めました。これが適用された地頭の事を特に新補地頭といいます。

そして、このような新補地頭が現地で権限拡大を図るようになると、元々の荘園領主との紛争が発生してしまいます。このような経緯で発生した裁判を六波羅探題が担うようになったのです。

設問B

再度の確認ですが、設問の要求は九州の御家人が鎌倉へ訴え出る事が禁じられた理由であり、解答の条件は当時の軍事情勢に留意するという事ですね。これさえ把握しておけば大きく外すことはありませんので丁寧に解いていきましょう。

まずわかりやすいのは、解答の条件である当時の軍事情勢でしょう。資料文⑵でも触れられていますが、設問の対象時期はモンゴル襲来と重なりますね。資料文⑵によると、博多の鎮西探題はモンゴル襲来後に設けられているから、設問文の「当時」とは厳密には襲来を受けた後の、再度の襲来の危機に晒されている時期と判断できます。
(ちなみに、鎮西探題が設置されたのは1293年であり、モンゴル襲来が1274年と1281年であるから、設問の時期は正確には3度目の襲来に備えている期間です。しかし、私大受験ならまだしも、東大受験ではここまで細かい年号の暗記は原則不要です。資料文を読んで「再度の襲来に備えている時期」である事が読み取れれば十分です。)

このように軍事的緊張が継続していた為、幕府は異国警固番役を解かず防衛体制を固めたままにしておく必要があったのです。
したがって、「当時の軍事情勢」とは、モンゴルの再度の襲来に備えるため、異国警固番役などの防衛体制を維持せざるを得ない情勢とまとめられます。ちなみに以前の幕府は本所一円地(地頭が置かれなかった荘園)には介入しない方針を採っていましたが、モンゴル襲来を契機に幕府は本所一円地の住人などの非御家人にも異国警固番役を課し、西国支配を大幅に拡大させました。しかし同時にこのような非御家人への恩賞問題も抱える事にもなってしまいました。

さて、当時の状況が整理されたところで資料文⑶を読んでみよう。

六波羅探題での裁判に不服な場合は、鎌倉に直接訴え出る事ができました。古文で『十六夜日記』を読んだ事があればその様子がわかりやすいでしょう。しかし、鎮西探題の判決に不服な場合は鎌倉に訴え出ることはできません。その理由は当時の軍事情勢を把握していれば簡単ですね。つまり、異国警固番役を担っている御家人が鎌倉へ行ってしまって防衛はままならなくなるという状況を回避するためです。

◎解答例

A承久の乱後に新設された六波羅探題は、西国の朝廷方所領に設置された新補地頭と荘園領主の土地紛争を処理する必要に迫られた。(問番号含め60字)

「経緯」を説明する事を求められている為、時系列を勘違いしたような書き方にならないよう注意しよう。

B幕府は再度のモンゴル襲来に備え、主に九州の御家人に異国警固番役を課し続ける必要があったため、鎮西探題に最終裁断権を与え御家人が訴訟の為に九州を離れる事を防ぎ、防衛に専念させた。(問番号含め89字)

文字数は比較的余裕があるので、必要な事項を漏らさぬよう気をつけよう。

別答案例の検討

設問Bでは、別答案の方向性も検討できたので、付け加えておきましょう。

先ほどまでの解説と答案例では、資料文⑶の措置によって「防がれるもの」として考察したものでした。一方で、これ以降は視点を変えて、その措置によって「もたらされるもの」を考えてみましょう。

資料文⑶の通り、幕府は鎮西探題に最終的な裁断権を与えたのですが、これは言い換えれば裁判という点では鎮西探題が幕府と同様の権力・機能を持ったという事であり、鎮西探題の強化とも捉えられます。では、なぜこのように鎮西探題を強化する必要があったのでしょうか。

それは、幕府の拠点が鎌倉すなわち東国であり、戦場となっている西国から遠く離れているからです。幕府としては、そんな遠距離で指揮をするより、前線に近い鎮西探題が現場で指揮をとってくれた方が良いわけです。その為には、一機関に過ぎない鎮西探題に限定的ではありますが幕府と同様の権限を与え、現地の御家人、ひいては先述したような非御家人を率いる事ができる求心力を生み出す必要があったという訳です。

したがってまとめると、鎌倉幕府は鎮西探題に最終的な裁断権を与える事によってその権限を強化し、鎌倉から遠く離れた九州での現場指揮をより迅速にするという狙いがあったと考えられます。このように、モンゴル襲来は幕府による西国支配の拡大が進む契機となったという捉え方も出来そうですね。

以上の内容をまとめると幕府が資料文⑶のような措置をとった理由は主に2つになります。ひとつは、訴訟のために御家人が九州を離れ防衛力が低下する事態を防ぐためで、ふたつ目は鎮西探題を強化するためです。

別答案

B 幕府は再度のモンゴル襲来に備え、主に九州の御家人に異国警固番役を課し続けた。幕府は鎮西探題に最終裁断権を与え御家人が訴訟の為に九州を離れる事を防ぎつつ、鎮西探題の強化を目指した。

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