2015年東大日本史(第1問)入試問題の解答(答案例)と解説

設問の分析

設問A

在来の神々への信仰と伝来した仏教との間には違いがあったにもかかわらず、両者の共存が可能となった理由について2行以内で述べなさい。

設問を分解して解釈します。
まず用語の注意です。
答案の方向性を考えていく中で、「在来の神々への信仰」というのは、いわゆる「神道」を指してると考えていいでしょう。しかしながら、実際答案を書く際には、自分で勝手に大学側が提示したものからむやみに用語の範囲を絞るのは減点の危険性があります。なので、答案には「神々への信仰」「在来信仰」などと言った用語を用いると無難でしょう。

ではそういった信仰の特徴はどのようなものが挙げられるでしょうか。
山川出版の教科書では、木・岩・海・島・川・山などと言った具体的な自然物に言及しながら、当時の人々がこれらに神が宿ると考え、祭祀の対象としていたことが書かれています。八百万の神といえば今でもよく耳にしますが、それはつまりあらゆる自然物に対する畏敬の念です。この様なアニミズムに基づく日本古来の神道での神に対する捉え方は多神教的な特徴を有しており、西洋の宗教などに代表されるような排他的な一神教の世界観とは全く異なります。ゆえに新しく入ってきた仏教の考え方や信仰対象についても受け入れる余地が大いにあったというわけです。

さて、これだけでも十分に「共存が可能となった理由」に解答出来そうです。しかしながら、「共存」というためにはあともう一歩が必要でしょう。というのも、前述の内容はあくまで、「在来の神々への信仰サイドが仏教を受け入れ得る理由」です。これは一方的に感じます。両者の調和がとれた共存を実現するために、仏教サイドが在来の神々への信仰へ迎合した要素も盛り込みたいと考えます。これらの要素は資料文のどこにあるだろう、と思いつつ資料文の分析に移れたら尚良いですね。

設問B

奈良時代から平安時代前期にかけて、神々への信仰は仏教の影響受けてどのように展開したのか、4行以内で述べなさい。

ここで時代区分について触れておきます。奈良時代はご存知の通り710年〜794年ですね。
では平安時代の区分はどうでしょうか。一般的に、前期、中期、後期と3分割になります。
前期は794年から9世紀までのおよそ百年。
中期は9世紀〜1068年(後三条天皇の荘園整理令)までの藤原氏による摂関政治期。
後期はそこから鎌倉幕府の成立までの期間といえます。
この期間の仏教の影響を受けた神々への信仰の展開を確認しましょう。

鎮護国家思想を背景にした神仏習合の流れが想起できるかもしれません。その意識を持ちつつ、具体的に何を盛り込むかは資料文を分析した後に改めて考えます。

資料文の分析

資料文(1)

大和国の大神神社では、神体である三輪山が祭りの対象となり、後に山麓に建てられた社殿は礼拝のための施設と考えられている。

これは設問Bの解答に使いたい要素です。

まず着目するポイントは「礼拝」という表現です。大事になるのは、礼拝というのはキリスト教と仏教で用いられる用語だということです。読みはキリスト教(細かくいうとプロテスタント)においては「レイハイ」で、仏教においては「ライハイ」です。ちなみに、カトリックは「ミサ」で神道では「拝礼」という語が使われます。

つまり、前半部で三輪山を神体として祭るといったアニミズム的在来信仰について記されつつ、後半部では仏教を受容した後に現れた変化・融和を示しています。これも後に示される神前読経や神宮寺のような神仏習合の現れといえます。

資料文(2)

飛鳥寺の塔の下には、勾玉や武具など、古墳の副葬品と同様の品々が埋葬されていた。

この資料から読み取れる内容は設問Aの解答に使いたい要素です。
飛鳥寺は仏教側の要素です。開基は蘇我馬子であり、蘇我氏の氏寺です。そんな飛鳥寺の塔の下に古墳の副葬品と同様の品々が埋葬されたということは、仏教は当時の日本の在来信仰に受容される中で、伝統的な先祖を供養する機能である「古墳の機能」を継承し代替するものだったことを意味していて、これこそが設問の分析で先述していた仏教サイドが在来の神々への信仰へ迎合した要素に該当するものといえます。

資料文(3)

藤原氏は、平城遷都にともない、奈良の地に氏寺である興福寺を建立するとともに、氏神である春日神を祭った。

ここでは、まず、平城遷都という時期を示すワードもきちんと確認しておきます。これは710年であり、奈良時代の始まりであることからも、設問Bを意識した設問と読み取れます。
そして、藤原氏と記述されている点に着目します。藤原氏は、鎮護国家思想が広まる時代背景で、律令国家の政治の運営に大きく関わっていた有力貴族です。そうした貴族が氏寺、仏教や先祖供養と氏神、在来の神々への信仰を習合させた体制を率先して取っていたことからも受容と共存のあり方がわかります。

資料文(4)

奈良時代前期には、神社の境内に寺が営まれたり神前で経巻を読む法会が行われたりするようになった。

先ほどと同様に、奈良時代前期という時期を示すワードも示されています。これは設問Bに盛り込む内容です。この資料文は極めて直接的であり読み解く余地はありません。単純に神宮寺と神前読経についての記述です。もちろん、神仏習合の表れです。

資料文(5)

平安時代前期になると僧の形をした八幡神の神像彫刻が作られるようになった。

先ほどと同様に、平安時代前期という時期を示すワードにもある通り、設問Bに盛り込む内容です。
この資料文では仏教の信仰の一環である仏像彫刻が、在来の神々への信仰の中にも取り入れられたことで「神像彫刻の製作」が開始したことが示されています。これは神仏習合において仏教が在来信仰に与えた影響の一例です。

このとき、アニミズム的考えでいうと、自然物に宿る神は霊魂のようなもので、実態や輪郭のあるものと規定されていないわけですが、この資料では「僧の形」として彫刻が形作られていることもポイントです。

資料文(6)

日本の神々は、仏が人々を救うためにこの世に仮に姿を現したものとする考え方が平安時代中期になると広まっていった。

これは本地垂迹説についての記述ですね。在来信仰の神々は仏教の仏が権現したものであるという考え方です。神仏習合を理論的に説明する動きが見られていたことがわかります。設問Bの要素として記述に盛り込みます。

しかしながら、「説が普及したのは平安時代中期」と記されていることにも一応留意したいです。当然大学側は必要だとして載せている資料文ですが、あくまで設問Bでの時期の設定範囲とは逸脱するものであるために、「本地垂迹説へと発展していった。」というような時系列の前後を間違えないような記述のまとめ方が綺麗かと思われます。

答案例

設問A

アニミズムに基づいた在来の神々への信仰は仏教とも融和し得るものであったうえ、仏教が伝統的な先祖供養の機能を担えたため。

設問B

神社での社殿の設立や有力貴族による氏寺と氏神双方への祭祀、神宮寺の造営、神前読経の法会といった神仏習合思想の普及を背景に、仏像彫刻の影響を受けた神像彫刻の製作が開始し、神と仏の関係を論理的に説明するための本地垂迹説へと発展していった。

まとめ

設問での問われ方については、逐一確認しておきましょう。

設問Aでは2行で端的に理由を挙げるだけであるから、解答の体裁のまとめ方は比較的差がつかないと思われます。
しかし、設問Bにおいては、「神々の信仰はどのように展開したか?」という設問の問いに丁寧に対応しない解答を書いてしまう人もいるのではないでしょうか。

資料の抜粋、想起した用語や知識の記述にリソースを割かれ、終始した記述を書くのではなく、あくまで現代文的な観点でもチェックしつつ、設問者の問いを掴んでそれに対応する答えを提出する姿勢を示すことも重要になります。

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