2015年東大日本史(第1問)入試問題の解答(答案例)と解説
目次
神と仏はなぜ共に在れたのか
今回は神仏習合が主役です。「神と仏はなぜ同じ空間で“当たり前に”共存できたのか」をテーマにします。
仏教が大陸からやって来たあと、日本にもともとあった神々への信仰がどう姿を変え、どう手を取り合い融和していったのか。
これを、東大2015年第1問の6つの資料文を足場に考えていきます。
まずは資料文から見てみることとします。
資料文(1)
大和国の大神神社では、神体である三輪山が祭りの対象となり、後に山麓に建てられた社殿は礼拝のための施設と考えられている。
まずは我々の実生活にも関連するお寺の本尊と神社のご神体の違いについて考えてみます。
お寺は仏像=像そのものを拝む一方、古い神社では山そのもの・大岩・古樹など、自然物そのものが神が坐すところとして崇められました。
大神神社はその古の姿を、今もはっきり残している代表例。本殿がない(=山がご神体)という特徴がまさにそれだといえます。
- 神体である三輪山
ここでのキーワードは「神体山」形のある像や教義ではなく、場(place)に宿る神を祭るという在来信仰の中核を示します。 - のちに山麓に建てられた社殿
時系列に注意。「最初から社殿があった」のではなく、後世に拝礼の便のために拝殿などが整えられたわけです。本体=山/付属設備=建物。 - 拝礼のための施設
建築物は神に臨む本殿ではなく、山に向かって拝むための装置だというわけです。 - 時代感:古代の大和盆地で発達した氏族祭祀の形。仏教教義が浸透する以前の信仰。
前半部で三輪山を神体として祭るといったアニミズム的在来信仰について記されつつ、後半部では仏教を受容した後に現れた変化・融和を示しています。これも後に示される神前読経や神宮寺のような神仏習合の現れといえます。この設問には、解答へのカギが含まれます。
①両信仰の相性の良さ(互いに干渉しにくい)
これは設問Aの解答に使いたい要素です。
- 在来信仰は像や教義で神を固定しないため、外来の仏教儀礼や建築を付け足しうる余地が大きい。
- つまり、“神体=山”は不変のまま、“拝礼という仏教要素(読経・堂舎)”の接合の余地がある、といえる。
②奈良〜平安前期の展開の“起点”
これは設問Bの解答に使いたい要素です。
- 出発点として仏教の影響が本格化する前段として、神社側の原形を提示。
- この後の展開:神社境内に寺を付設しても、核=神体山はそのまま。だから神前読経・法会といった仏式の祈祷が違和感なく行える。さらには八幡神の僧形化や鎮守社という制度化にも、「受容しうる体質」が効いてくる。
一つ気になるポイントは「礼拝」という表現です。礼拝というのはキリスト教と仏教で用いられる用語だということです。読みはキリスト教(細かくいうとプロテスタント)においては「レイハイ」で、仏教においては「ライハイ」です。ちなみに、カトリックは「ミサ」で神道では「拝礼」という語が使われます。
資料文(2)
飛鳥寺の塔の下には、勾玉や武具など、古墳の副葬品と同様の品々が埋葬されていた。
この資料から読み取れる内容は設問Aの解答に使いたい要素です。
飛鳥寺は仏教側の要素です。開基は蘇我馬子であり、蘇我氏の氏寺です。そんな飛鳥寺の塔の下に古墳の副葬品と同様の品々が埋葬されたということは、仏教は当時の日本の在来信仰に受容される中で、伝統的な先祖を供養する機能である「古墳の機能」を継承し代替するものだったことを意味していて、これこそが仏教サイドが在来の神々への信仰へ迎合した事例といえます。 ここに、「外来宗教=仏教が、在来の祭祀作法を借りて日本化する」という、神仏習合の第一歩がみてとれます。
また、改めて考えてみると面白いのが、古墳と仏教の類似性です。古墳は祖霊を鎮める祀りの方法でした。モノを添えて魂を鎮めるという発想は、寺院の地鎮にも合致しているわけです。次項にも出てきますが、政治的思惑のなかで寺は国家・氏族の守護を担いました(鎮護国家)。その補強として在来の信仰作法(副葬/埋納)を利用するのは実に合理的だったわけです。仏×神は早くから共働していたのですね。
資料文(3)
藤原氏は、平城遷都にともない、奈良の地に氏寺である興福寺を建立するとともに、氏神である春日神を祭った。
ここでは、まず、平城遷都という時期を示すワードもきちんと確認しておきます。これは710年であり、奈良時代の始まりであることからも、設問Bを意識した設問と読み取れます。そして、藤原氏と記述されている点に着目します。
藤原京から平城京への遷都の際に朝廷の中枢にいたのが藤原氏です。藤原氏は、鎮護国家思想が広まる時代背景で、律令国家の政治の運営に大きく関わっていた有力貴族です。そうした貴族が氏寺、仏教や先祖供養と氏神、在来の神々への信仰を習合させた体制を率先して取っていたことからも受容と共存のあり方がわかります。
大極殿の南、南都の要地に興福寺の伽藍がそびえ、そのすぐ東の御蓋山(みかさやま)のふもとに春日の社。遷都に伴って寺と神社をセットで整えたのです。これが資料の核心である、神仏習合の“運用モデル”といえるでしょう。
また、これから分かることとして新都整備は権威の再構築のチャンスである、という点にも注意が必要です。これは、他の年度で題材にされたこともある桓武天皇の平安遷都の思惑を探る際にも有効です。
資料文(4)
奈良時代前期には、神社の境内に寺が営まれたり神前で経巻を読む法会が行われたりするようになった。
先ほどと同様に、奈良時代前期という時期を示すワードも示されています。これは設問Bに盛り込む内容ですね。この資料文は極めて直接的であり、無理にこれ以上深入りして読み解く必要もないかと思われます。単純に神宮寺と神前読経についての記述です。すなわち、空間(境内)も作法(読経・法会)も神仏共有になったということで、もちろん、神仏習合の表れです。
⑶で見た氏寺×氏神の並立運用を、地域レベルへ拡張したのが神宮寺、ということも出来るかもしれません。これにより、共存体制の常態化が進むわけです。
資料文(5)
平安時代前期になると僧の形をした八幡神の神像彫刻が作られるようになった。
先ほどと同様に、平安時代前期という時期を示すワードにもある通り、設問Bに盛り込む内容ですね。
この資料文では仏教の信仰の一環である仏像彫刻が、在来の神々への信仰の中にも取り入れられたことで「神像彫刻の製作」が開始したことが示されています。このとき、アニミズム的考えでいうと、自然物に宿る神は霊魂のようなもので、実態や輪郭のあるものと規定されていないわけですが、この資料では「僧の形」として彫刻が形作られていることもポイントです。これは神仏習合において仏教が在来信仰に与えた影響の一例です。 アイコン(像)レベルでの習合を示すわけです。
ところで、八幡神というと、何を思い浮かべることが出来ますでしょうか。八幡神(はちまんしん)といったら宇佐を中心に広がる武神・農耕神的性格の神に源流をもつ、古代国家の守護神です。道鏡関連の政治的混乱が一番メジャーでしょうか。託宣(お告げ)で政治・宗教の局面に登場しますね。
資料文(6)
日本の神々は、仏が人々を救うためにこの世に仮に姿を現したものとする考え方が平安時代中期になると広まっていった。
これは本地垂迹説についての記述ですね。ここで起きているのは、先ほど見た「神社の中で仏事」という運用と「神の菩薩化・僧形化」という神仏の一体化、という状態を一本の理論を以って説明せんとすることです。そしてそれが本地垂迹説です。社殿でよく見る「○○権現」の文字に覚えがないでしょうか。在来信仰の神々は仏教の仏が権現したものであるという考え方です。神仏習合を理論的に説明する動きが見られていたことがわかります。設問Bの要素として記述に盛り込みます。
しかしながら、「説が普及したのは平安時代中期」と記されていることにも留意したいです。当然大学側は必要だとして載せている資料文ですが、あくまで設問Bでの時期の設定範囲とは逸脱するものであるために、「本地垂迹説へと発展していくい基となった。」というような時系列把握を間違えていないような記述へのまとめ方が綺麗かと思われます。
- 本地
本来の地(ありか)。ここでは神の背後にある本体=仏のこと。 - 垂迹(すいじゃく)
(本地が)世に垂れて現れる跡。つまり、日本の神は仏・菩薩が便宜上とった姿だという発想。 - 権現(ごんげん)
仮に現れた尊格を意味する称号。熊野権現/山王権現など、神名+権現の語形が普及した。
さて、以上を踏まえたうえで、設問の確認と答案作成に移ります。ここまでくれば、あとわずかです。
設問の分析
設問A
在来の神々への信仰と伝来した仏教との間には違いがあったにもかかわらず、両者の共存が可能となった理由について2行以内で述べなさい。
まず用語選択の注意です。
答案の方向性を考えていく中で、「在来の神々への信仰」というのは、いわゆる「神道」を指してると考えていいでしょう。しかしながら、実際答案を書く際には、自分で勝手に大学側が提示したものからむやみに用語の範囲を絞るのは減点の危険性があります。なので、答案には「神々への信仰」「在来信仰」などと言った用語を用いると無難でしょう。
ではそういった信仰の特徴はどのようなものが挙げられるでしょうか。
山川出版の教科書では、木・岩・海・島・川・山などと言った具体的な自然物に言及しながら、当時の人々がこれらに神が宿ると考え、祭祀の対象としていたことが書かれています。八百万の神といえば今でもよく耳にしますが、それはつまりあらゆる自然物に対する畏敬の念です。この様なアニミズムに基づく日本古来の神道での神に対する捉え方は多神教的な特徴を有しており、西洋の宗教などに代表されるような排他的な一神教の世界観とは全く異なります。ゆえに新しく入ってきた仏教の考え方や信仰対象についても受け入れる余地が大いにあったというわけです。
さて、これだけでも十分に「共存が可能となった理由」に解答出来そうです。しかしながら、「共存」というためにはあともう一歩が必要でしょう。というのも、前述の内容はあくまで、「在来の神々への信仰サイドが仏教を受け入れ得る理由」です。これは一方的に感じます。両者の調和がとれた共存を実現するために、仏教サイドが在来の神々への信仰へ迎合した要素も盛り込みたいと考えます。では、これらの要素は資料文のどこにあったか、を意識して答案を作ります。
設問B
奈良時代から平安時代前期にかけて、神々への信仰は仏教の影響受けてどのように展開したのか、4行以内で述べなさい。
念のためここで時代区分について触れておきます。奈良時代はご存知の通り710年〜794年ですね。
では平安時代の区分はどうでしょうか。一般的に、前期、中期、後期と3分割になります。
前期は794年から9世紀までのおよそ百年。
中期は9世紀〜1068年(後三条天皇の荘園整理令)までの藤原氏による摂関政治期。
後期はそこから鎌倉幕府の成立までの期間といえます。
この期間の仏教の影響を受けた神々への信仰の展開を確認すると、鎮護国家思想を背景にした神仏習合の流れが想起できるかもしれません。さあ、資料文から具体的に何を盛り込むかをさがしましょう。
以上のことから答案を作ってみます。
【Aの答案例(2行以内)】
在来の信仰は自然を神体とする祭祀中心で教義が緩やかだったため、外来の仏教は在来の儀礼・信仰形態を取り込みつつ共存できた。更に氏や国家の現世利益を求める政策が共存を後押しした。
→在来信仰は教義が緩やかなので仏教が儀礼を取り込む形で共存できた。更に現世利益を求める氏や国家の政策が共存を後押しした。
【Bの答案例(4行以内)】
奈良時代には神社の境内に寺院を置く神宮寺が成立し、神前読経や法会が行われて神への祈祷が仏教化した。氏寺と氏神の連携も進み、寺社は協業関係となった。
平安前期には八幡神が大菩薩として尊崇され僧形像が作られるなど、神の菩薩化が進展し、寺には鎮守社が常置された。このように空間・儀礼・神像で神仏習合が常態化した結果、後の本地垂迹説の確立へ繋がった。
→奈良時代には神宮寺が成立し、神前読経や法会の様に神への祈祷が仏教化した。氏寺と氏神の連携も進み、寺社は協業関係となった。平安前期には鎮守社の常置や僧形八幡像に象徴される神の菩薩化の様に神仏習合が常態化し、本地垂迹説の理論確立へ繋がった。




