【東大日本史】2023年第2問の解答(答案例)と解説

リード文の分析

特になし。飛ばします。

設問の分析

メインで問われているのは「家督継承のあり方の変化と、応仁の乱との関係」について。

さらに補足説明として「応仁の乱の発生と拡大には・・・」とあるので、応仁の乱の発生要因と、拡大要因についても触れながら。

再現答案などでは、発生に触れない答案や、拡大に触れない答案もあったため、注意しましょう。

乱の発生と拡大については、資料文について解説したあとで書きます。

資料文の分析

資料文(1)

小早川家の家督相続についての説明。家督相続がどのように決定されていたかというと、
父の指名で混乱したため、将軍が出てきて、将軍が有力守護に意見を聞くと「一族・家臣に聞くべし」ということですから、登場人物は

・父
・将軍
・有力守護
・一族・家臣

の4者。

では、どれが優先されたかというと、父以外の3者、つまり、将軍と有力守護と一族・家臣の全部、とでも言うべきでしょうか。
(以下、決め手になった要素を赤字にしておきます。)
将軍が意見を聞いたから有力守護に発言権が与えられ、有力守護の意見で一族・家臣の意向が重視されています。将軍が意見を聞き始めなかったら、有力守護と一族・家臣は登場しないわけですが、最終的には一族・家臣が重視されています。ということで、これだけでは一番強いのは誰か、特定不能と判断しました。

資料文(2)

またまた将軍義教が登場。
今度は斯波家に介入して、元々の後継者候補をしりぞけ、別の人物を指名しています。ということで、ここでは将軍が強いということが分かります。

資料文(3)

今度は畠山家の話。
有力家臣たちが将軍義教に願い出て、総量とは違う人物を家督に擁立したと書かれています。
やはりここでも将軍は強そう。ただし、有力家臣たちが将軍の権威を利用して、自分たちに都合良く進めているというのもポイントでしょう。一応有力家臣も含めておきましょうか。

後半では、嘉吉の変で義教が死んだあとの話が書かれています。
それまで、家督相続に対して強い意見を主張していた最高権力者がいなくなるわけですから、意見のパワーバランスが崩れます。
結局、元の惣領(持国)が実力や武力でライバルを追放して、家督に復帰しました。つまり、決めては実力や武力です。

資料文(4)

資料文(2)でも登場した斯波家が再登場。
斯波家の実験が有力家臣である甲斐常治に握られています。
斯波家の家督を継いだ義敏(の父)と、甲斐常治が対立していたので、義敏は家臣の支持を失い家督をしりぞいたということです。
よってt、ここで決定打になっているのは家臣の支持だということが分かります。

オマケ:足利義教

この問題を解くうえで必ず知っておかなければならないわけではありませんが、6代将軍の足利義教の人物像について知っておくと、やや有利かもしれません。あまり教科書などで大きく扱われる人物ではないと思いますが、少し知っておきましょう。

足利義教は「万人恐怖」と称されるような専制的な恐怖政治を行いました。もともと幕府は大名らの集合体で、協議をしながら政治を行っていましたが、義教は将軍に権力を集中させ専制化し、諸大名の意見を抑制しました。
また、鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に介入して、元々衝突していた持氏を攻め滅ぼしました(永享の乱)。
さらに、義教は自子を鎌倉に派遣しようとする構想を練り、関東への色気を出します。(しかし、関東で結城合戦が続いているうちに、嘉吉の変で赤松満祐に討たれたため実現しませんでした。)

このようなことを知っていると、資料文(2)(3)で義教が家督継承に口を出していたことも、納得するかもしれません。義教に対して諸大名は「恐怖」しているため、家督継承もそれなりに従っていますが、嘉吉の変で討たれるのが好例のように諸大名からの反発も引き起こしています。これを踏まえると、(史実かどうかは別として、資料文から)各家の大名や家臣たちは、将軍に最低限の気を遣いながらも、時には将軍の「恐怖」を利用して相手を屈服させようとし、自分の理想を実現しようとしていたとも読めるのではないでしょうか?
ここから、単に将軍が強いとか、大名が強いなどという単純な構図ではないことが見えてくると思います。

ちなみに、義教の次の7代将軍は義勝という幼少の将軍でしたので、専制政治は義教で終わりになったこともお分かりだと思います。

結局誰の意見が強いか?

さて、つまるところは家督継承の決定権は誰にあったのでしょうか?
赤字の部分をもう一度おさらいしてみましょう。

(1)では将軍と有力守護と一族・家臣の全部、(2)では将軍、(3)では将軍有力家臣、将軍が死んだあとは実力や武力(4)では家臣の支持でした。
やや将軍が優勢な気がしますが、(1)では将軍が有力守護に意見を聞いていますし、(3)では将軍は権威を利用されているだけで実質的な主人公は有力家臣です。このように、丁寧に読むと結局誰が一番優先されていたか、分かりません。

本番では、このくらいの推測で強引に答案を書かなければなりませんが、これをお読みの皆さんは十分に準備できますので、手持ちのあらゆる資料などを参考に学びましょう。
すると山川教科書の日本史Bにこのような記述を発見することが出来ます。

単独相続が始まり、嫡子の立場が庶子に比べて絶対的優位となったため、その地位をめぐる争いが多くなった。とくにこの頃になると、大名などの家督決定が、父親の意志だけでなく、将軍や家臣の意向に大きく影響されるようになり、家督争いはますます複雑化した。

上手い表現ではありますが、「家督争いは複雑化していた」とのことです。つまり、誰が1番の意見が決定打になっていたかを決める必要はなく、「複雑化」で良いということです。そこで、敬天塾の答案ではこの表現を拝借しています。

応仁の乱の発生と拡大

さて、設問で問われている「家督継承のあり方」の解析が終わりましたので、次は「応仁の乱の発生と拡大」についてです。
応仁の乱については、教科書などの高校生向けの資料ではあまり詳しく書いていない、というか読んでもイマイチ理解できないのではないでしょうか?おそらく、乱の始まりも経過もゴチャゴチャと色々ありすぎて、教科書などでは文字数が足りなすぎるため、省きに省いているからでしょう。
このような場合、「暗記ではなく理解だ」などと主張する先生であっても、「教科書の記述だけでは、ちゃんと理解できないなぁ」と黙ってしまうのではないかと思います。本稿でも詳しいことは書きませんが、映像授業では最低限の話の筋が理解できるように情報や資料を足して解説していますので、よろしければどうぞ。

では、この問題にかかわる部分だけピックアップして説明しましょう。

具体的な経緯

応仁の乱の発生の原因は、将軍家の家督相続争いです。
8代将軍義政の次の将軍を、弟の義視と子供の義尚のどちらにするかということで争い始めます。
元々は、「弟の義視に継承させて、もし子供が生まれたら義視の次にする」という話で進んでいました。しかし義政と日野富子の間に、本当に子供(義尚)が生まれてしまいます。日野富子は、本来の約束に納得できなくなり、自分の子を将軍にしたくなってしまいます。
こうして、義視VS義尚(+日野富子)の対立が生まれてしまうわけです。

義尚はまだ赤ちゃんですから何の戦力にもならないとして、大人の義視と日野富子がポカポカ殴り合うわけではありません。権力者の争いというのは、往々にして家来同士が戦うものです。そこで、西軍の義視には山名持豊、東軍の義尚(+日野富子)には細川勝元が(すったもんだの末)くっつくこととなり、乱が拡大していきます。

さて、ここに他の大名も続々と紐づいてきます。
畠山家や斯波家の中の家督争いをする2勢力が東西に分かれて加勢しました。
山名氏と言えば、嘉吉の変で義教を謀殺した赤松満祐を討伐した一族です。よって赤松氏は山名氏の敵側ということで東軍につきます。そして、細川氏と言えば大坂の堺商人とくっついていますが、これと対抗するのは博多商人とくっつく大内氏。よって大内氏が西軍に加勢します。
そんなこんなで、応仁の乱の規模は家督争いをする2勢力がくっつき合って対抗するような形になりながら、拡大していったのです。

ということで、答案例です。

答案例

家督継承決定は父親の意向に加え、将軍や一族、家臣の意向にも大きく影響を受けるようになっため、家督争いが複雑化していた。こうした状況を背景に、嘉吉の変後、将軍権力が失墜すると、将軍家の内紛に幕府の実権をにぎろうとする細川氏と山名氏が介入して乱が発生し、そこに有力守護家の家督争いが紐付き拡大した。

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