2021年東大世界史(第二問)入試問題の解答(答案例)と解説
こちらの記事(https://exam-strategy.jp/archives/8038)に2021年の東大世界史第2問について考察したものをまとめているため、ぜひチェックしてほしい。
では、以下で2021年の東大世界史第2問について解答例を示し、その解説をしていこうと思う。
目次
設問別の答案例や解説
問1(a) 14世紀〜15世紀にかけての西欧世界における農民の地位向上の社会的・経済的要因
解答例
飢饉やペストの大流行により農民の数が減少して農民の労働力としての価値が上がった。また、貨幣経済の浸透により賦役から貨幣地代へと転換し、農民が貨幣を蓄積して経済力を高めた。
まずは問題文をしっかりと読み、問題で問われていることにしっかりと答えることが最重要となる。
今回は、「14世紀から15世紀の西ヨーロッパにおける農民の地位向上の要因」について問われている。「14,15世紀」と「農民」の2つのキーワードからペストの大流行と貨幣経済の浸透による労働地代から貨幣地代への転換を思いつきたい。
まずは、ペストの大流行について触れる。14世紀半ばのペストの大流行は甚大な被害をもたらし、人口の3分の1が死んだと言われている。
これにより、農民の数は激減し、その希少性が増したことで、労働力としての価値が上がり、農民の地位が向上したのだ。
本問では、「〜であるため、農民の地位が向上した」の「〜であるため」の部分を答える必要がある。そのため、論理展開としては、「農民の地位が向上した」ことの一歩手前で止め、そこを終着点として答案をまとめ上げるのが無難だろう。
そのことを意識して、論理的に正しい答案を作る必要がある。その辺の甘さが際立つ答案が散見される。また、字数に余裕があれば、14世紀前半の飢饉について触れてもよいだろう。
次に、貨幣経済の浸透による労働地代から貨幣地代への転換について触れる。
11世紀ごろから十字軍をきっかけに遠隔地商業が頻繁に行われるようになり、商工業の発達に伴い、交換手段として貨幣が普及して、貨幣経済が浸透した。
領主は貨幣を求めるようになり、労働地代に代わって貨幣地代を納めさせるようになった。三圃制や重量有輪犂などの鉄製農具の普及により農業生産力が向上して、余剰生産物が生まれたこともあり、農民は市場でそれらを売って貨幣を手に入れ、地代を納めた残りの貨幣を蓄積していった。
これにより、農民の経済力は向上した。字数の都合上、ここでは貨幣経済の普及による貨幣地代への変化により農民の貨幣蓄積が可能になり、経済力が向上したことに触れるのがよいだろう。
ここでこれらを踏まえて再現答案を見てみたい。
答案1
ペストの流行で人口が激減し、農民の労働価値が高まった。また賦役をやめて土地を貸し出し地代を納めさせるようになったため、農民が経済力を高めることが可能になった。
1つ目の要因に関しては申し分ない。ただ、2つ目の要因に関して言えば、「土地を貸し出し地代を納めさせるようになった」という言い方は、新たに土地を貸し出したとも読み取れて、日本語が不明瞭である。
採点官に誤解を与えないように正しい日本語で記述することが大切である。この意識が失点を減らすことにつながる。
また、「農民が経済力を高めることが可能になった」という言い方は、農民の地位向上の要因としては少し弱い。可能になっただけでなく、実際に農民の経済力が高まったと述べた方がよい。その方が説得力が増すだろう。
ただ、そのように述べると、その前の「また賦役をやめて土地を貸し出し地代を納めさせるようになったため」の部分との間に論理の飛躍があるため、この部分を短縮し、農民が貨幣の蓄積をできるようになったことなどを加えるとよいだろう。
答案2
ペストの流行で農民人口が激減したため、領主層は地代を軽減し豊かな農民が増えた。また、独立自営農民も出現した。また、賦役も部分的に廃止され、農民の負担が軽減した。
まず、この問題で2つの要因となる「ペスト流行に伴う人口激減による農民の労働力としての価値上昇」と「賦役から貨幣地代への転換を受けて、農民が貨幣を蓄積して、農民の経済力が向上したこと」が第1文でまとめられてしまっているため、複数の要因という問題の要求に応えられているのかが少し不明瞭である。
2つ目の文に関しては不要である。独立自営農民が生まれたことで、農民の地位向上が進んだわけではなく、農村人口の減少や貨幣地代の普及などで農民の地位向上が進んでいくなかで独立自営農民が生まれたため、農民の地位向上の要因として本問で解答の要素の1つに取り上げるのは誤りである。おそらく答案作成者は字数稼ぎで書いたのだろう。
3つ目の文に関しては、農民の地位が向上したこととのつながりが弱く、要因説明としては不十分だろう。この答案2をより良くするためには、しっかりと複数の要因を書いていることを採点官に示せるように、一文に1つの要因を書いて複数の文に分けた方がよい。
この問題は典型問題であるため、問題を見た瞬間に反射的に要素を思いつき、字数に合うようにまとめる作業にだけ時間を割くようにするのがベストである。
(b) ロシアの農奴解放令後も農民の生活が改善されなかった理由
解答例1
土地は領主から有償で買い取ることになり、買い取り金保証の目的で農民個人ではなく、農村共同体のミールに引き渡されることが多かったため、農民はミールに縛られ続けることになったから。
解答例2
農民への土地分与は高額有償制であり、購入資金は政府が有利子で融資したため、農民はミールに縛られ続けた。また分与地が狭く、解放農民は貴族の土地で雇用されて働いたため。
理由を問う問題は、できる限り論理の飛躍をなくしてわかりやすく、そして正しい論理展開で答えることが重要になる。
こうすることで、採点官に自分がその事象を理解していることを伝えられ、正当な評価を受けられるようになる。その上で、日本語を崩さない程度に要素を詰め込んでいくことが大事である。
今回は、「農奴解放令発布後のロシアで農民の生活状況があまり改善されなかった理由」について問われている。
山川の詳説世界史や東京書籍の教科書を見ても、農奴解放令について触れられている部分が少ない。
ただ、帝国書院の教科書には、比較的詳細な記述がある。
以下にこれらの教科書の記述を引用して示す。
東京書籍『世界史B』
ロシアではクリミア戦争の敗北後、皇帝アレクサンドル2世のもとで一連の改革が行われ、1861年の農奴解放令は、農民を身分的に自由にした。これは、ミール(農村共同体)を土地の末端に組みこみ、他方で、工場労働者を創出しようとする政策であった。
◯農民は、土地を領主から買い取る必要があった。買い取り金を保証するため、土地はミールに引き渡されることが多かった。
山川 『詳説世界史B』
アレクサンドル2世は1861年に農奴解放令を出し、濃度に人格的自由を認めた。しかし土地は貴族領主から買い戻さなければならず、また、農民個人ではなく農村共同体(ミール)に引き渡されることが多かった。
山川 『新世界史B』
皇帝は慎重な手続きを経て農奴解放令の制定・公布にこぎつけた(1861年)。ただし、この解放令は領主貴族との妥協の産物であった。そのため、農奴は人格的には無償解放されるが、農地については、領主貴族と解放農奴である農民のあいだで配分されるものの、農民が配分された土地の所有権を得るには、高額の買戻し金を支払わなければならない、とする有償解放方式が採用された。これは圧倒的に領主貴族に有利な方式であり、農民のあいだに不満が広がるという結果に終わった。
帝国書院
とりわけ1861年に農奴解放令が出され、これにより自由な労働力が多数創出された結果、工業化と資本主義化への道が開かれた。
◯農奴解放令の要点
①農民は自由民となり移住も可能。
②農民への土地分与は高額有償制。
③購入資金は政府が有利子で融資。
④土地は個人でなくミールが所有。
*②③→分与された土地が狭かったこともあり、解放農民は雇用人として貴族の土地で働くことになり、生活水準は改善しなかった。
*④→生産意欲の高い自作農の育成に失敗。
これらを見比べてみると、帝国書院の教科書の記述をもとに答案を作るのが一番高得点を狙えそうなことは一目瞭然だろう。ただ、一般的に世界史の教科書のシェアとしては、山川の詳説世界史か東京書籍の教科書が多い。
複数の種類の教科書を手元に置いて学習することが好ましいが、そうはいかない場合もあるだろうから主に山川の詳説世界史と東京書籍の教科書を利用した場合の答案例として答案例1をあげておく。ただ、この答案では、高得点は望めず、足を引っ張らない程度の点数しかもらえないであろう。最低限これだけは答案に書いておきたいといった感じだ。
答案例2は帝国書院の教科書の記述をもとに作ったものである。教科書の記述を頭にしっかりと入れていれば、書けるレベルの答案であろう。これだけのことを書ければ、高得点が狙えるはずだ。
この問題では、少なくとも解答例1のレベルの答案は書けるようにしてほしい。
解答例2のような答案を書けるのは、ごく一部であると考えられるため、書けるならば差をつけることができるし、書けないからといって大きく落ち込む必要はないだろう。本番では、もし知識が甘い部分であると感じたならば、解答例1のような答案をささっと書いて他の問題に時間を割くのも一つの手だろう。
この問題では、教科書間の情報格差が点数に直結する形になった。様々な教科書に目を通しておくことの大切さを実感できたはずだ。ただ、複数の教科書の中身を丸暗記しろと言っているわけではない。
入試で問われやすい箇所は決まっており、たくさんの問題演習を通じてこれらの箇所に感覚的に気づけるようにし、その箇所のみを複数の教科書で確認して頭に入れていけばよい。
東大受験をするうえで、丸暗記するという発想は極力捨てた方がよい。必要最小限の部分のみに絞って頭に入れていかなければ、時間に厳しい現役生は特に間に合わなくなる。
しかも、丸暗記したことは理解を伴っていない場合が多いため、応用が効きにくい。
効率よく、使える形で頭に入れていこう。
また、以下に解答例3も示しておく。参考にしてほしい。
解答例3
土地所有権取得に高額な買戻金を要したため、高利子で国から借入する他なく、完済まで連帯保証を担う農村共同体ミールに緊縛された。分与地も狭く、領主貴族の土地で働くこととなったから。
ここでこれらを踏まえて再現答案を見てみたい。
答案1
農民が土地を貴族領主から取り返すのは有償で、土地は多くの場合ミールに返還されたため土地改革が不十分だった。
これは高得点で合格した人の答案であるが、答案のレベルを見る限りこの程度かと感じるだろう。ただ、この設問に関しては、他の人の答案も同じようなレベルであったため、あまり得点差はつかなかったと考えられる。
逆に言えば、ここで解答例2のような答案を書ければ、周りに一気に差をつけられるだろう。様々な教科書を読み込んでおくことの大切さがわかるはずだ。
この答案に関しては、あと「分与地が狭かったこと」や「解放農民は雇用人として貴族の土地で働くことになったこと」などにも触れておきたいところだ。
答案2
人格的自由は認められたが、土地の分配は有償で農民は自らの小作地を得ることはできず、土地はミールに編入された。そのため、ミールへの貢納が必要となり、農民の生活を圧迫したから。
答案2に関しては、答案1と同様に、「分与地が狭かったこと」や「解放農民は雇用人として貴族の土地で働くことになったこと」などの指摘が欲しいところである。
あとは、「ミールへの貢納」の部分は、貢納が必要になったというよりも労働あるいは貨幣による地代の支払いの義務が定められたと述べた方がよいだろう。
ちなみに、同様の問題が2017年の慶應義塾大学経済学部入試の第1問でも出題されている。慶應義塾大学経済学部の世界史は経済史メインであり、1500年以降しか出題してこない。
経済史の対策を強化するうえで、よい学習教材になるだろう。
(2)(a)ホセ=リサール
この問題は人物名を答えるだけの短答問題であるため、確実に正解しておきたいところである。問題文から拾えるヒントは「19世紀後半のフィリピン」「小説『ノリ・メ・タンヘレ(われにふれるな)』を書いた」「民族主義的な主張をする知識人」の3つである。
「19世紀後半のフィリピン」「民族主義的な主張をする知識人」の2つの条件からアギナルドかホセ=リサールではないかと考える人が多いだろう。小説『ノリ・メ・タンヘレ(われにふれるな)』については知らない人も多いであろうから、ほとんどの人が解答するためのキーワードとして使えないと考えられる。
ここでは「民族主義的な主張をする知識人」というキーワードからホセ=リサールと絞りたい。山川の『詳説世界史B』では、ホセ=リサールが民族意識を目覚めさせる言論活動を開始とあり、帝国書院の教科書においても啓蒙活動を行ったとの記述がある。なお、東京書籍の教科書には特に見られない。これらをヒントにホセ=リサールと決めたいところである。
ちなみに、山川の『詳説世界史B』には同じページに小説『われにふれるな』を著したとの記述があるため、教科書を熟読しているならば、それをヒントにもできたかもしれない。ただ、ほとんどの受験生にとってはアギナルドと誤答しやすい問題であったと言えよう。とはいえ、正解しておきたい問題である。
東大が教科書レベルを超えた短答問題を出すことはまずないため、教科書を熟読し、人物の功績などを整理してしっかりと頭に入れておくことが重要だろう。
(b)フィリピン革命後の統治体制の変遷について論ぜよ
解答例
初めはスペインの植民地支配下にあったが、米西戦争中にアギナルドはフィリピンの独立を宣言した。しかし、米西戦争でスペインから統治権を得た米がこれを認めなかったことで戦争に発展し、負けたフィリピンは米の植民地支配下に置かれることになった。
今回は、フィリピンの統治過程が変化していく歴史的過程を説明することが求められている。
フィリピン革命の期間中のそれぞれの時期の統治(政治)体制を述べ、統治体制が変わる契機となった歴史的な出来事についてそれぞれの時期の統治体制を結びつけていくような意識で述べるのがよいだろう。
基本的に統治体制の変化を問われたら、政治体制の変遷(4世紀には共和政が敷かれたが、5世紀には〇〇による独裁体制となった。など)を述べ、
歴史的過程を問われたら、主に歴史的な出来事について時系列で述べていくのがよい(14世紀に◯◯の戦いがあり、その後〇〇朝が成立した。など)。
フィリピン革命では、カティプーナンの運動が大きな役割を果たした。
1896年にカティプーナンの存在がスペイン当局にバレたことを機に、カティプーナンが蜂起したことがフィリピン革命の始まりとなった。スペイン本国から援軍が到着すると、カティプーナン内部で対立が発生し、カティプーナンは革命政府を作り、アギナルドを臨時大統領とした。
その後、アギナルドはスペインと講和し、香港へ亡命した。
1898年にアメリカ=スペイン戦争が勃発すると、フィリピン独立の好機とみたアギナルドはアメリカ軍艦で帰国した。アギナルドは革命最高指導者に迎えられ、フィリピンでは、アメリカの協力を得つつ、スペイン支配からの解放が成し遂げられ、こうしたなかでフィリピン第一共和国が成立した。
一方アメリカは、1898年12月にスペインとパリ講和条約を締結し、フィリピンの領有権を獲得した。しかし、アメリカはフィリピン第一共和国の独立を認めず、99年には、アメリカとフィリピンの間でフィリピン=アメリカ戦争が始まり、1901年アギナルドはアメリカに降伏した。フィリピン革命のざっくりとした流れはこのような感じである。
よって、統治体制の変遷としては、スペインによる植民地支配→アギナルドがフィリピンの独立を宣言→アメリカ合衆国による植民地支配となる。
字数的にもアギナルドによるフィリピンの独立宣言にとどまらず、アメリカによる植民地支配にまで触れておくのがよいだろう。これにフィリピンがアメリカによる植民地支配を受ける契機となったフィリピン=アメリカ戦争でのフィリピンの敗北を付け加えるのがよいだろう。
この契機となった部分に関しては、より詳細な説明を加えたいところだが、字数の都合上あまり深く触れることはできないだろう。この問題は典型問題に近いため、取りこぼしは許されない。
フィリピン革命についてしっかりと理解できていれば、容易に合格点が取れる問題だろう。ただ、フィリピン革命のあたりは、フィリピン・スペイン・アメリカの3者が密接に絡んでおり、理解しにくい箇所ではある。
理解しにくい箇所ほど差がつきやすいため、自分で一度ノートに整理してみるなどして確実に理解するように努めたほうがよい。
ここでこれらを踏まえて再現答案を見てみたい。
答案1
当初はスペイン統治下にあり、カティプーナンの反乱は失敗したが、米西戦争に乗じて独立を達成した。米西戦争後にアメリカがフィリピン領有の動きを見せたところアギナルドがフィリピン共和国を建国しアメリカと戦ったが敗れてアメリカの統治下に入る。
スペインによる植民地支配からアメリカ合衆国による植民地支配までの流れは書けている。ただ、「米西戦争に乗じて独立を達成した」という記述はまずいだろう。米西戦争後のパリ講和会議でフィリピンは2000万ドルでアメリカに売り渡されており、それまではスペイン、以後はアメリカの支配下に置かれている。フィリピンは、米西戦争の前後で常に外国の支配下に置かれていたのだ。
独立したとは言い切れないであろう。教科書にもフィリピン共和国を樹立したとしか書かれていない。「独立を達成した」と言い切ってしまうと、周辺諸国などの諸外国から独立を承認されたような印象を受ける。
しかし、「樹立した」と言えば、諸外国から独立を承認されているかどうかは曖昧になり、むしろ勝手に国を新たに成立させただけのような印象を受ける。
「独立を宣言した」くらいなら、諸外国から独立を承認されたかどうかは曖昧になり、減点されにくくなり、許容範囲内だろう。
もちろん曖昧な書き方をすると、事実関係を正確に理解していないと採点官に思われてしまうこともあるため、極力避けるべきだ。ただ、今回の場合は、フィリピン共和国が独立を宣言し、その翌年に成立したといった具合に歴史的な事象が複雑に入り組んでいるため、減点を避けるために、あえて曖昧なオブラートに包んだ言い方をするというのも重要な技術になる。
失点を極力防ぐという意識を持って問題演習を積み重ねることで、この技術は自然に身につくだろう。
それに加えて、アギナルドがフィリピンの独立を宣言したのは、1898年6月であり、米西戦争の終戦は同年8月である。
よって、「米西戦争後にアメリカがフィリピン領有の動きを見せたところアギナルドがフィリピン共和国を建国し」の部分は事実誤認である。
時系列を正しく理解しておかないと、このようなポカミスで点を落とすことになる。東大は1点差で落ちることもよくあるため、この1点が命取りになる。1点すらも落とさないように注意を払う意識が重要だ。
答案2
当初、宗主国のスペインからの入植者がキリスト教の教化と過酷な使役をフィリピン人に強制したが、フィリピン革命以後、フィリピン人指導者を中心とし、農民共同体を基盤とする統治方式へと変化していった。
一文目でフィリピンの社会体制、特にエンコミエンダ制について述べ、二文目でフィリピン革命以後の社会体制について述べている。
しかし、ここではフィリピンの統治体制(政治体制)について問われていることから、スペインによる植民地支配、アギナルドによるフィリピンの独立宣言、アメリカによる植民地支配について触れたい。
そして、歴史的過程について述べる必要があることから、歴史的な出来事についても触れる必要がある。
統治体制(政治体制)と社会体制の区別をつけることが大事である。
世界史の論述問題で社会体制について問われると、農民などの人民に直接関わるレベルの制度(例えば、税の徴収制度など)についての記述を求められる印象がある。
しかし、統治体制(政治体制)について問われると、国家レベルの体制(例えば、共和制や独裁制など)について述べることを求められる印象がある。
どの次元の話をすべきなのかを正しく判断して答案を作ることが非常に重要になる。
答案3
スペインの統治下にあったが、米西戦争でアメリカの植民地となった。その後、1930年代にはアメリカに独立を約束された。太平洋戦争中には日本の支配を受けたが、戦後に独立した。その後、マルコスの開発独裁が続いたが、クーデタでアキノ政権に移行した。
この答案は、スペインの植民地時代の話から1980年代の話まで書かれている。おそらくフィリピンの統治体制の変化というところに引っ張られすぎて、このような答案になったのだろう。
ただ、問題文では1896年に起きたフィリピン革命による統治体制の変化について述べるように求められている。フィリピン革命は一般的に1896年から1902年までを指す。よって、アメリカによる植民地化がなされたところまでで話を止めておくのが適切だろう。
問題文を捉え間違えて、このような答案を作った人も一定数いるのではないかと感じたため、一応ここに載せておいた。
(3)(a) アパルトヘイト
これはかなりの易問である。これを瞬殺できないようでは東大受験生と名乗る資格はない。
今回は、キーワードが「南アフリカ共和国」「それまで継続していた人種差別的な政策」「1990年代に撤廃された」「政策の名称は片仮名で答える」の4つである。
教科書に載っていることで言えば、アパルトヘイト以外には考えられない。
一応説明を加えておくが、アパルトヘイトは、少数の白人支配を維持するための、多数派の非白人(主に黒人のことだと考えればよい)に対する極端な人種差別・隔離政策である。
具体的には、白人やアフリカ人などの人種登録を強制して人種間の結婚を禁止したり、居住地域も制限したりした。
(b) 南アフリカにおけるアパルトヘイト政策撤廃の背景
解答例
少数の白人支配を維持するための、多数派の非白人に対する極端な人種差別・隔離政策。ANCの抵抗や国際連合などの経済制裁、冷戦緩和に伴う国際世論の批判などにより、差別法は撤廃された。
この問題では、アパルトヘイトの内容と撤廃された背景について説明する必要がある。アパルトヘイトについてサクッと短めに説明し、残りの文字数で政策撤廃の背景についてしっかりと説明するといった具合だろう。アパルトヘイトの説明に関しては、問題文に書いてあるため、補足するような形で軽く説明すればよい。
アパルトヘイト撤廃の背景については、字数に余裕があるため、できる限り詳しく書こう。
南アフリカは、反共産主義を打ち出していたため、冷戦構造下において西欧諸国側はなかなか人種差別や隔離政策に関して強く非難することができなかった(西側諸国が南アフリカで産出される鉱産資源を重要視していたことも背景にあった)。
しかし、冷戦の沈静化によって、南アフリカに対して、西側諸国の働きかけが強まり、西側諸国の支持が得にくくなって、南アフリカはECや国際連合などの経済制裁を受けるようになり、また国際的な批判も受けた。さらに、アフリカ民族会議(ANC )による抵抗運動が激化した。
これらのことを受けて、1980年代末に白人のデクラーク政権はアパルトヘイトの見直しを始めた。
そして、1991年に差別法の多くが撤廃された。
この流れをまとめればよい。
今回は、アパルトヘイト撤廃の背景について説明する必要があることから、ポイントとしては、「アフリカ民族会議の抵抗運動」「国際連合などによる経済制裁」「国際世論の批判」の3つについて触れることだろう。
これらをまとめておけば、答案として十分なはずだ。この問題も山川の詳説世界史や帝国書院の教科書など教科書レベルの知識で十分に対応できるはずだ。
ここでこれらを踏まえて再現答案を見てみたい。
答案1
少数の白人と大多数の黒人の居住区域を分けた。黒人は選挙権を制限された。投獄されたネルソン=マンデラが主導するANCが根強く抵抗し、西欧諸国も批判して経済制裁を加えた。
しっかりと書けていると言っていい答案だろう。できることなら、国際世論の批判についても触れたいところではあるが、本番の緊張感や時間制約を考えると、これで十分だろう。
答案2
公共施設の利用を人種により分け、多数派の黒人は少数派の白人に差別された。また、議会も人種ごとに別の議会を組織したが、国際的批判や経済制裁を受け、デクラークが廃止した。
アパルトヘイトの説明が長すぎて、撤廃の背景の説明がとても少なくなってしまっている。アパルトヘイトの説明をもっと短くして、アフリカ民族会議の抵抗運動についても触れるべきだ。
合格点・高得点を狙うためには、問題を俯瞰して、字数の割き方を見極める必要がある。これをできるようにするには、問題演習を重ねて、経験値をつけるしかない。
2021年は全体的に典型問題が多かったため、解きやすかっただろう。可能ならば、ここで満点近くとり、最低でも8割以上の点は確保したい。
うまくいった人はさらなる周辺知識の補充に努め、できなかった人はあまり悲観的にならず、しっかりと知識の穴を確認して埋めてほしい。
地道な努力を続けることができて初めて合格は見えてくる。
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(東大世界史における文化史の切り口) https://exam-strategy.jp/archives/10874
(大論述指定語句にみる東大世界史) https://exam-strategy.jp/archives/10872