2024年東大国語 第2問(古文)『讃岐典侍日記(さぬきのすけにっき)』解答(答案例)と現代語訳

東京大学2024年古文の出典は『讃岐典侍日記』でした。
『讃岐典侍日記』の上巻は著者がお仕えしていた堀河天皇を看病をし、堀河天皇との別れを嘆く話。
下巻は堀河天皇が亡くなった後、何度も故堀河天皇との思い出に浸っています。

こちらもご参照ください。
2024年(令和6年)東大国語を当日解いたので、所感を書いてみた。

答案例とプチアドバイス

(一)傍線部ア・ウ・オを現代語訳せよ。【各1行】
ア 年ごろ、宮仕えせさせたまふ御心のありがたさ

答案例:長年、宮仕えをしなさるあなたのお心掛けの滅多にないほどの素晴らしさ

プチアドバイス:「せさせたまふ」を使役に誤読している受験生が多いです。
品詞分解が少し難しい箇所です。
「せ」はサ変の未然形、「させ」は尊敬、「たまふ」も尊敬ですね!
古文でよく見かける「給ふ・させ給ふ」の「せ・させ」は文法上は尊敬と使役の両方があるので、文脈判断が必要です。
文脈としては、院が鳥羽天皇への出仕を求めることにつながるので、傍線部アは誰かが作者を褒めているはずですね!

 

ウ ゆかしく思ひまゐらすれど

答案例:(鳥羽天皇を)お見かけしたく思い申し上げるけれども

プチアドバイス:「ゆかし」の訳に迷う設問ですね「ゆかし」は〈❶見たい・聞きたい・知りたい ❷心惹かれる・慕わしい〉の訳がありますが、❶❷の両方の解釈が当てはまる文脈だと思われます。❶で訳す場合、謙譲語「まゐる」の前なので敬語があった方が自然です。
なお、「
お目にかかりたく」という解答を見かけますが、「お目にかかる」は「会う+謙譲」なので、やや語感からずれる気もします(減点要因にはならないと思われます)。

 

オ かやうにて心づから弱りゆけかし。

答案例:このようにして自分の心がもとで弱っていけよ

プチアドバイス:東大古文で頻出の「慣用表現」が問われました。
「心づから」(自分の心によって)は多くの300語レベルの本には載っていません。
(弊塾の映像授業【東大古文 古文単語編】の特典として付けている「慣用表現まとめプリント」では、「自分から系」の中で「心づから」も紹介していました。)

「自分から系」慣用表現の代表的な語「人やりならず」は2022年『浜松中納言物語』設問(三)で出たばかりです。
過去問対策をしっかりとやっていれば、そこで学べたはずの語です。
2022年を解いたのに、「人やりならず」の類語を確認していなかったら、過去問の使い方がもったいないです!!

さらに、念押しの終助詞「かし」昨年2023年に続いて傍線部になっていますね。
これをミスしてしまった方には、過去問との向き合い方を考え直すのを、心からオススメします。

2023年東大国語 第2問(古文)『沙石集』解答(答案例)と現代語訳

 

(二)「いつしかといひ顔に参らんこと、あさましき」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。【1行】

答案例:作者が待ち望んでいた様子で再出仕するのは驚き呆れるほど嫌だということ。

プチアドバイス:主語を筆者ではなく「弁の三位」や「白河上皇」だと誤解した受験生が多かったと思います。
この設問は『讃岐典侍日記』のあらすじをよく知っている、
かつ、いかにも『讃岐典侍日記』らしい問題をいくつも解いたことがある受験生
じゃないと難しかったのではないでしょうか。

直前の「おはしまましをり」は亡き堀河天皇がご存命だった時。
「聞こえし」は堀河天皇に申し上げた。
「御いらへ」は堀河天皇のお返事。
「おぼしめす」堀河天皇が「お思いになる」。

いずれも過去形や敬語が含まれていますが、「堀河」の「ほ」の字も入っていませんね。。。
つまり、堀河天皇が前向きではなかった作者の鳥羽天皇への出仕に対して、傍線部イなので、「私がそんなことをしたら、自分で自分をドン引き」となります。

つねに頭の中は堀河天皇なんです。
堀河天皇が反対していたことは、死後もやりたくないということでしょう。
(結局、この後にしぶしぶ鳥羽天皇に仕えることになりますが)

 

(三)「いかなるついでを取り出でん」(傍線部エ)とはどういうことか、言葉を補って説明せよ。【1行】

答案例:作者が再出仕を断る口実になる、出家の機会を探っているということ。

プチアドバイス:前後に「世を思ひ捨て・削ぎすて」とあるので、「ついで」は出家の機会です。
条件付き現代語訳問題にしても良さそうな箇所だけれど、説明問題になっていることから、状況説明の補足も求められています。

(参考)映像授業【東大古文 記述力編】

 

(四)「うち見ん人はよしとやはあらん」(傍線部カ) とあるが、なぜ「うち見ん人」は良いとは思わないのか、説明せよ。【1行】

答案例:作者が堀河天皇だけを恋い慕い、新帝への出仕に心を切り替えていないから。

プチアドバイス:「うち見ん人」はちょっと見るような人。筆者を見かけた人が良く思わないということは、筆者の様子が理想的ではないということです。

 

(五)「乾くまもなき墨染めの袂かなあはれ昔のかたみと思ふに」(傍線部キ)の和歌の大意を説明せよ。【1行】

答案例:喪服が堀河天皇を偲ぶよすがだと思うと、乾く間もなく涙で袖が濡れる。

プチアドバイス:古文常識として「乾くまもなき~袂」→「涙」、「黒染め」→「喪服」であることがわかると良いですね。
「僧衣」と書く受験生もちらほらいますが、作者は出家していません。
なお、和歌の大意は2022年にも求められたばかり。
大意の記述にも馴れておいた方が良いです。

(参考)映像授業【東大古文 和歌編】映像授業【東大古文 過去問演習編(標準~やや難)】

 

本文と現代語訳の併記(暫定版PDF)

2024年『讃岐典侍日記』現代語訳

現代語訳(暫定版)

 このように言う間に、十月になった。(実家の女房?が作者に)「(鳥羽天皇の乳母の)弁の三位(=藤原光子)からお手紙(が届きました)」と言うので、受け取って(広げて)見ると、「長年、宮仕えをしなさる(際のあなたの)御心構えの素晴らしさなどを、(鳥羽天皇の祖父である白河上皇が)よく聞いておいていらっしゃったからだろうか、白河上皇から、『鳥羽天皇の御所にそのような人がとても切実に必要だ、すぐに出仕しなさい』ということの、ご命令があるので、そのような心づもりをしなさってください」とある、(それを)見ると、驚き呆れ、「見間違いか」と思うほどまで自然と驚き呆れた。(堀河天皇が)ご存命だった頃から、このようなこと(=白河上皇から作者へ、幼い鳥羽天皇に仕える要請があること)は(堀河天皇に)申し上げ(てい)たけれども、「どのようにも(堀河天皇の)お返事が無かったのは、『そうでなくても(良いのでは)』とお思いであったのだろうか、それなのに、『早く(出仕したい)』という様子で(鳥羽天皇のもとに)出仕するようなこと(をしたら)、(我ながら)呆れることだ。(似た先例として、)周防の内侍(=平仲子)が、(仕えていた)後冷泉天皇に御先立たれ申し上げて、(後冷泉天皇の弟で、次に即位した)後三条天皇から、七月七日に出仕しなさいということを、お命じになったときに、
  天の川(の流れ)のように(後冷泉天皇と後三条天皇はご兄弟で)同じ血筋の流れだと聞いているけれども、(前の主とは異なる後三条天皇のもとに)出仕するようなことは、やはり悲しいこと。
と詠んだ歌こそ、「もっともだ」と思われる。

 「亡き堀河天皇の御形見としては、(子である鳥羽天皇に)心惹かれて思い申し上げるけれども、(出仕するような)差し出がましいようなことは、やはりあってよいこどではない。昔、(堀河天皇のもとに初めて)出仕したときでさえ、(宮仕えの)晴れ晴れしい(ことに)は思い悩んだけれども、『親たちや(姉の)三位殿(=藤原兼子)などでしなさるようなことを(反対するのもどうか)』と思って、(あれこれ反対を)言ってよいことではなかったので、内心だけは、(海人が刈る藻のように)気持ちが乱れた(ことだった)。本当に、今回(=白河上皇からの命令)も、「私の意志の通りにはならない」とも言ってしまうようなことではあるけれども、あるいは、「(私が出家して)世を捨ててしまった」とお聞きになったとしたら、(白河上皇は)それほどまで(私を)切実に必要ともお思いにならないだろう」と(出家するかどうか悩んで)気持ちが乱れて、さらにもう少し、この数ヶ月よりも悩みが増さった気持ちがして、「(私は)どのような(出家の)機会を得ようか。さすがに、自分で剃髪するようなのも、昔の物語にも、そのようにした人のことを、人々も『いやな心(の人)だ』など言うようで、私の気持ちとしても、本当にそのように(=自分で剃髪するのは嫌な心の人だ)思われることなので、さすがに、本格的に決心することもしない。このようにして自分の心によって、さらに気持ちが弱っていけよ。そうすれば、(心身衰弱を)言い訳にしてでも(出仕を断ることができる)」と思い続けられて、数日が過ぎると、「(鳥羽天皇の御)乳母たちは、(あなたとは違って)まだ(殿上人ではない)六位で、五位にならないかぎりは、天皇の食事の世話が出来ない状態である。この二十三日、六日、八日が(出仕するのに占いで)良い日(です)。早く、早く、(出仕しなさい)」とある手紙を、何度も(持ってこられて)見るけれども、決心しなければならないという気持ちにもならない。

 「過ぎ去った年月でさえ、私の一身上の悩みの後は、人々の間に混じることができる様子でもなく、見苦しくやせ衰えてしまったので、『どうしようかしら』とだけ思い悩んだけれども、(亡き堀河天皇の)御心に惹かれて、(また、同僚の)人々などの御心にも(惹かれて)、(姉の)三位がそのままで(宮仕えを)続けていらっしゃるので、「その(姉らの)御心に背かないようにしよう」などと思ったのか、ちょっとしたことにつけても、気遣いをしてばかりで(月日が)過ぎたが、今あらためて出仕して、(堀河天皇と)会った世のように過ごすようなことも難しい。鳥羽天皇は幼くいらっしゃる。『そういう状態で(=堀河天皇と特に親しい状態で)馴れてしまっていた者だ』とお思いになることもあるまい。そのように(月日を)過ごすにつれて、(亡き堀河天皇との)昔のことだけが恋しくて、私をちょっと見かけるような人は、(私の状態を)良いとは思うだろうか、いや、思わないだろう」などと思い続けるうちに、袖が(乾く)合間も無く(涙で)濡れたので(詠んだ歌)、
  (堀河天皇を偲んで涙で)乾く合間も無い、喪服の袂だなあ。しみじみと昔の(亡き堀河天皇の)思い出(となる喪服)だと思うと。

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